史思明の即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 15:03 UTC 版)
史思明が安慶緒を殺して燕の皇帝となり、洛陽へと南進した。李光弼は洛陽から河陽に避難させたので史思明は簡単に洛陽に入ったが、河陽を抑えられて李光弼の反撃を度々受けたため長安へ進めなかった。760年春、粛宗は李光弼を中書令と太尉とした。761年春、魚朝恩と僕固懐恩が朔方の軍権を握ると、洛陽の奪回に乗り出した。李光弼は反対したが粛宗に命じられて衛伯玉と共に洛陽を攻撃した。しかし両者は作戦の不一致により揉め、その隙に燕軍に攻撃された、唐軍は皆敗走した。李光弼が河陽に留めた李抱玉も去ったため、河陽は燕軍の手に入った。しかし燕では史思明が子の史朝義に殺されたため進撃もここで止んだ。李光弼は位を下げることを求め、一時的に開府儀同三司と河中節度使となったが、再び復任された。また、史朝義の南進を備えるために臨淮に鎮した。李光弼は燕軍の宋州の包囲を解き、燕軍を阻んだ。田神功、尚衡、殷仲卿等の燕に対して無対処だった唐の部将も、李光弼を恐れて討伐に乗り出した。李光弼は臨淮王となり、徐州に鎮した。また、台州周辺の袁晁の反乱を鎮圧した。 762年冬、代宗が粛宗の後を継ぎ、唐軍は洛陽を史朝義から奪回を計画した。李光弼は洛陽に向かい、回鶻や僕固懐恩は東で郭英乂と李抱玉と合流して史朝義を洛陽から敗走させた。史朝義は763年春に自殺し、安史の乱は終焉した。
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