創業時の苦心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
ラサ島からの帰途の那覇から、恒藤は調査結果を待っていた東京の本社に「バンザイ」とのみ打電して喜びを伝えた。5月11日に帰京後、雑誌のインタビューにラサ島のリン鉱石は世界的に見てもオーシャン島、クリスマス島の次に位置すべき埋蔵量、品質であると豪語し、日本の他の地域、例えば北大東島のリン鉱石は品質が悪くて肥料の原料には不向きであり、また能登半島など他のリン鉱石の産地はラサ島とは勝負にならないと答えている。 1911年5月1日にラサ島鉱業所が開設された。恒藤は帰京後すぐにラサ島に取って返し、1000トンのリン鉱石の採掘を命じた。鉱山の各施設の建設は始まったばかりで恒藤の命令は現場を混乱させたが、やむなく採掘したリン鉱石を人海戦術で運ぶことにした。重い鉱石を運ぶ人夫の肩の皮が破れ、血が流れだすという無理な作業を強行して700トンのリン鉱石を大阪へ搬送することに成功するが、肝心の鉱石は全く売れなかった。 鉱山設備の建設を進める労働者たちの中で胃腸病や脚気が頻発し、3名の死者を出した。また労働者たちの間で博打が流行したり責任者との軋轢も表面化する。それでも7月には何とか桟橋等の施設が出来上がっていき、鉱石の輸送を始めようとした矢先に台風で破壊された。台風の後、慣れない亜熱帯の気候に苦しんでいた多くの労働者たちから退島希望が出されるに至った。現場ではやむなく労働者たちの退島を認めた。 その後早々に労働者の補充を行い、まもなく労働者の多くは沖縄県出身者で占められるようになる。台風で大きな被害を受けた各施設の再建が終わった1911年末には、ラサ島からのリン鉱石の輸送が開始された。
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