切り崩し
切り崩し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 14:05 UTC 版)
「三国同盟 (1882年)」の記事における「切り崩し」の解説
このあと、対独を意識した英仏協商が急ぎ編成された。また、ポーツマス条約によって極東の勢力圏が確定したことで、英露協商が結ばれた。これにより露仏同盟を核とする三国協商が成立した。南下政策の阻止を主目的としていた日英同盟も転用され、日本も日露協約と日仏協約を結び、三国協商側に立つことになった。これによって山東半島のドイツ租借地は孤立した。 「未回収のイタリア」と呼ばれる南ティロル・トリエステなどを巡りオーストリアとの領土問題を抱えていたイタリアは、1902年に仏伊協商をフランスと結び、ドイツがフランスを攻撃する際にはイタリアは参加しないことを約束した。イタリアは三国協商側に接近しつつあったが、1915年4月イギリスとの間にロンドン秘密条約を秘密裏に結び、未回収のイタリアをイタリアに割譲する算段をとりつけた。5月には連合国側に付いてオーストリアに宣戦し、三国同盟は二国同盟となった。 そもそもドイツとイタリアは、普仏戦争から同盟結成の時期にかけて掘削されたゴッタルド鉄道トンネルで物理的につながっていた。このトンネルは1909年スイスで国有化されるが、4年後に連邦議会が世論に反してゴッタルド条約を更新、スイス連邦鉄道に関しドイツ・イタリアに最恵国待遇を与えた。スイスは第一次世界大戦後に国際連盟に加盟させられ、有事に経済制裁へ参加する義務を課せられた(制限中立)。1935年、イタリアに対するそれが多くの国で十分に履行されなかった。それをきっかけに1938年スイスは絶対中立へ戻った。このようなトンネルは日独伊三国同盟につながっていた。
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