入唐
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延暦23年(804年)5月12日、難波の港を藤原葛野麻呂を遣唐大使とする4船団よりなる遣唐使船が出帆した。第1船の大使の船には、空海、橘逸勢ら一行が、第2船の遣唐副使・菅原清公の船には、最澄、義真ら一行が乗りこんだ。このとき最澄はすでに平安仏教界を代表する仏者で、短期視察を目的とする還学生(げんがくしょう)であった。空海は高位の役人になることすらできない下層の出自で、遣唐使に選出される直前まで優婆塞であったが、渡航に当たって急遽、東大寺戒壇院で具足戒を受けて正式な僧侶となり、20年の長期留学を目的とする留学生(るがくしょう)に任命された。このとき、最澄は38歳、空海は7つ年下の31歳であった。この入唐まで2人は一面識もなく、また入唐後も全く目的地を異にして行動している。 無名の名文家 空海の乗った船は博多から長崎の平戸へ渡り東シナ海に出る安全なコースに設定されていたが、いったん天候が悪くなるとその影響を強く被る航路でもあった。船は嵐のなか南へ流されて、漂着したのは福州長渓県赤岸鎮(現在の福建省霞浦県赤岸村)であり、暦は8月10日になっていた。事情を説明するため大使の葛野麻呂は福州の長官に嘆願書を出したが、『御遺告』によれば、大使の文章は悪文で、かえってますます密輸業者などに疑われてしまったようである。唐では文章によって相手がいかなる人物であるかを量る習慣があった。困り果てた大使は空海という無名の留学僧が名文家であることを教えられ、空海に代筆させたところ、その名文、名筆に驚いた福州の長官は即座に遣唐使船の遭難を長安に知らせたという。このときの空海の文章は『性霊集』に遺っているが、司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、「この文章は、空海という類を絶した名文家の一代の文章のなかでも、とくにすぐれている。六朝以来の装飾の過剰な文体でありながら、論理の骨格があざやかで説得力に富む。それだけでなく、読む者の情感に訴える修辞は装飾というより肉声の音楽化のように思える。」と記している。
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