わ‐かん〔‐クワン〕【×倭館/和館】
倭館―対馬
倭館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 10:14 UTC 版)
倭館(わかん)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。
- ^ 守屋浩光「対馬藩における〈交奸〉について」藩法研究会 編『幕藩法の諸相-規範・訴訟・家族-』(汲古書院、2019年) ISBN 978-4-7629-4230-3 P123-133・140-141.
- ^ 川村博忠『江戸幕府撰日本総図の研究』古今書房、2013年 ISBN 978-4-7722-2018-7 P267
- 1 倭館とは
- 2 倭館の概要
- 3 倭館における交易
- 4 脚注
倭館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
李朝は、倭寇の拠点となっていた対馬を応永の外寇で攻撃する一方で、朝鮮半島に倭館を建設した。倭館は日本人(倭人)向けの客館であり、貿易で来航する日本人の居住や、倭寇の活動を貿易に変えて沈静化する目的も兼ねていた。李氏朝鮮は倭寇の懐柔策を行い、降伏して定住する日本人が増えて投化倭人と呼ばれた。こうして、さまざまな役割で李朝と交流をする日本人が増えた。朝鮮の官職を持って貿易も許された受職倭人や、港に定住する恒居倭人、日本の豪族の使者で使走船に乗る使走倭人などもいた。商人は興利倭人と呼ばれて、商船は興利倭船と呼ばれた。明が海禁政策で日本との貿易を公認しなかったこともあって興利倭人が急増して、李朝は対馬、壱岐、九州の諸大名の渡航許可書を義務づけた。李朝は対馬国に在留期限を超えた恒居倭人の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、島主の宗材盛の急逝で使節派遣を延期した。15世紀末には恒居倭人は3000人近くに達して、恒居倭人の暴動は対馬も巻き込んで三浦の乱となった。三浦の乱ののちは、三浦での日本人居住が禁止されて、李朝が軍事機関の備辺司を設置するきっかけとなった。倭寇の影響もあってたびたび国交は断絶して、丁未約条や丁巳約条で貿易が再開される。入港地は釜山浦に制限されて、秀吉による朝鮮出兵まで続いた。
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