倭王武の上表文
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「日本の古代東北経営」の記事における「倭王武の上表文」の解説
ヤマト政権による国土統一が進んだ古墳時代中期となる5世紀後半、順帝の昇明2年(478年)に倭王武が中国南朝の宋の皇帝に送った「倭王武の上表文」中に以下の記述がある。 「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」 — 『宋書』倭国伝「倭王武の上表文」より大意 倭王武は稲荷山古墳出土鉄剣の銘文中にみえる獲加多支鹵大王、すなわち雄略天皇であると推定されている。上表文によれば「王の先祖が自ら甲冑を纏い、山川を跋渉し、戦を続け、東は毛人55カ国を征し、西は衆夷66カ国を服し、海北へ渡り95カ国を平らげる」とあり、雄略天皇の代にはほぼ国家統一は成っていた様子を窺い知ることが出来る。また、ヤマト政権によって平定されたとされる東日本の諸地域の人々を指して毛人の文字が使用されている点には大いに注目される。 日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている[要ページ番号]。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である[要ページ番号]。
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倭王武の上表文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/08 13:31 UTC 版)
倭の五王の最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。 「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝) 倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っているかのように誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。 「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定され流こともあるが確証はない。(→古墳時代)
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