倭系百済官僚
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倭系百済官僚(わけいくだらかんりょう)は、日本人(倭人)であるが、百済王権に仕えた百済官僚。日系百済官僚という用語も使われている[1]。
- ^ 李在碩「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」『駒澤史学』第62巻、駒澤史学会、2004年3月、52頁、CRID 1050564288184403072。
- ^ a b 河内春人 2017, p. 115
- ^ a b 河内春人 2017, p. 110-111
- ^ 金起燮『백제의 주민과 이주 여성』한국여성사학회、2017年、10頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 李在碩「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」『駒澤史学』第62巻、駒澤史学会、2004年3月、38-39頁、CRID 1050564288184403072。
- ^ 菅澤庸子「八世紀における新来渡来人の改賜姓について[1]」
- 1 倭系百済官僚とは
- 2 倭系百済官僚の概要
- 3 参考文献
倭系百済官僚
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科野の氏を持つ倭系百済官僚。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる。 斯那奴阿比多(しなぬ(の)あひた)継体天皇紀、欽明天皇紀に登場する百済の使者。小林敏男は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、斯那奴阿比多は更埴エリア出身の人物であるとした。 斯那奴次酒(しなぬ(の)しす、科野次酒)欽明天皇紀に登場する百済の上部德率、施德、内臣德率。 科野新羅(しなぬ(の)しらき)欽明天皇紀に登場する百済の上部奈率。
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