人造石工法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 02:30 UTC 版)
長七が発明した人造石工法(長七たたき)は、1876年(明治9年)に東京日本橋の三浦家の地下通路工事を手がけた際に編み出された。三浦家の地下通路工事の際、大理石の隙間からしみ出した水を、長七の出身地である三河産の真土(まさつち)を石灰と混ぜて練ったものが水中でも固まることを発見したことによる。その後の改良を経た人造石工法は、風化した花崗岩からなる真土と石灰をおよそ7:3の比率で混ぜたものを用いる。人造石工法により三河産真土の需要が高まったこともあり、別名として「三州たたき」の名も広がった。 「長七たたき」が「人造石(工法)」と呼ばれるようになったのは、1881年(明治14年)に第二回勧業博覧会泉水を見た農商務省の外国人役人が「この人造石は何ですか?」との問いを発したことによる。以降、長七は自らの仕事を「人造石」と呼ぶようになり、工法の広まりに伴い日本各地でも広く使われるようになった。 人造石工法が用いられた明治期において、セメントは既に輸入されていたものの高価であり大規模工事に使用するのは経済的に難しかったこと、また当時のセメントは水中ではうまく固まらなかったことから、治水・護岸といった分野の工事には用いることが難しい状況であった。これに対して長七の人造石工法は用いる材料が安価に大量に入手可能であったこと、前述の欠点により水中においてはむしろセメントを用いるより強固な構築物を築くことができた。また、関東大震災時、煉瓦積みの建築物は壊滅的な打撃を受けたのに対し、人造石構造物の損害は軽微であった。それはレンガをセメントで積んだ場合重力の関係でセメント中の水分が上部に集まりレンガの上面には十分に接着される一方レンガの下面のセメントは非常に剥離しやすく成る。それに対し人造石は非常に固練りで、構築時に叩き込むため全方向に接着力が得られ、全体としては強固な構造体を構築できるからであるとされる。 その後セメントを用いた工事が主流となり人造石工法を用いた工事は廃れることとなったが、「自然環境に優しく強度も得られる」という特性から、1999年にはカンボジアのアンコール遺跡の一つバイヨン寺院の修復に人造石工法が用いられている。戦時中には物資の枯渇から日本本土の航空基地滑走路の材料としても採用されている。近年ではアメリカ軍も軍事作戦中の航空基地の材料としてアースコンクリートという類似の素材の研究を行っている。人造石は最後は自然に土に帰る性質を持っているので、発展途上諸国では地震に強く環境汚染の無い自足的インフラ整備の建材として、その他コンクリートやアスファルトの代替物質として見直されつつある。
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