京漢作戦
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1944年(昭和19年)大陸打通作戦に参戦、河南省開封に移動し、4月17日23時に中牟で新黄河の渡河を開始、佐藤正滉大尉率いる第一大隊は、途中電話線を盗聴し中国軍に気づかれていないことを確認しながら、時速6kmないし8kmの半ば駆け足で鄭州に向かう。中国軍の背後を衝き、19日黎明太田武男中尉率いる第一中隊が朝靄のなか鄭州城の城壁をよじ登り占領する。20日から皆藤喜代志大佐率いる連隊主力が付近を掃討、当初の予定を上回る戦果をあげた。 なお第二大隊は連隊とは別に18日03時頃に渡河を開始、20日に師団主力とともに郭店に進出21日新鄭に向かう。23日には歩兵第225連隊が密県を占領、作戦の順調な推移を受け新鄭に集結した師団は暫時休養した。28日行動を再開し30日には許昌を占領、続いて第一大隊は5月3日に南進行動中の第27師団の指揮下に入り郾城を攻撃、5日に占領した。ここで進路を西に転じ盧氏付近まで進出するが、その後反転して第37師団は郾城南方に集結、6月下旬に南進を開始した。 6月も末であり、かなり気温も高い毎日であったが、西平から遂平へと南下し次の確山では想像もつかない寒波に襲われた。初夏の候というのに零下何度という猛烈な寒さが暴風とともに襲ってきたのである。この異常気象は二日間続いた。そして天候が回復すると太陽が沃野を照らし始めた。幸い第37師団は深刻な損害を被ることはなく、1ヶ月半前の第27師団の「長台関の悲劇」の跡を目の当たりにしながら南進を続けた。6月末信陽に到着、一週間ほど信陽に滞在し武昌方面への集結を命ぜられ、第一大隊先遣の第一中隊は7月5日武漢に着いた。
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