事件の後
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この事件でヘンリーの評判が上がり、ダンモアの人気は低下した。ダンモアの家族は5月12日に誠実の印としてウィリアムズバーグに短期間戻ったが、ダンモアと植民地議会との関係は悪化を続けた。6月8日、ダンモアとその家族は真夜中に総督官邸から逃げ出し、HMSフォーイーの艦上を住いにした。この時植民地議会はイギリスのノース卿内閣による植民地を分割しようという提案である和解決議案を審議していた。ダンモアの逃亡の後では、議会もこの提案を拒否した。 ダンモアは活発に植民地の支配を取り戻そうとする試みを続けたが、12月のグレートブリッジの戦いでイギリス軍が大敗した後は、襲撃作戦も低調になり、1776年8月には完全に植民地を放棄した。バージニアの政府は先ず1775年7月の第三バージニア会議で選出された安全委員会が跡を継いだ。1776年7月にパトリック・ヘンリーが独立国バージニア邦の初代知事になった。
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事件の後
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アンドレの死刑執行人ストリックランドはアンドレが裁判に掛けられている間、危険なトーリーとしてタッパンの宿営地で拘束されていた者であり、死刑執行人の任務を引き受けたことで解放され、ラマポバレーあるいはスミスクラブの自宅に戻った。その後の経緯は不明である。 アンドレとの策謀に関わっていたとされるジョシュア・ヘット・スミスもタッパンの改革派教会で裁判に掛けられた。この裁判は4週間続き、証拠不十分で無罪とされた。 アンドレをバルチュアから岸まで連れてくるためにアーノルドが指示していたコルクホン兄弟、および見張っていたボートが捕獲されたキーアーズ少佐はあらゆる容疑を晴らすことができた。 アンドレの母と3人の姉妹には彼の死から間もなく年金が支払われることになり、兄弟のウィリアム・アンドレは準男爵に叙爵された。 1821年、ヨーク公の命令で処刑台の下に埋められていたアンドレの遺骸はイングランドに移され、ウェストミンスター寺院の英雄のコーナーで国王達や詩人達の間に置かれた。その上にはアンドレの死についてブリタニアの葬儀を示す大理石製の碑とともにイギリスのライオンが置かれた。1879年10月2日、タッパンの処刑場跡に記念碑が除幕されたが、3年後にヘンドリックスというニューヨーク市の社会党員の手によって爆破された。ヘンドリックスは1884年にフルトンフェリーのブルックリン側で暴行をうけて死んだ。 アンドレを捕まえた者達の名前はジョン・ポールディング、アイザック・ヴァン・ワートおよびデイビッド・ウィリアムズだった。アメリカ合衆国議会は彼等のそれぞれに年金200ドルとフィデリティ・メダリオンと呼ばれる銀メダルを送った。3人ともオハイオ州の郡の名前になって称えられており、1853年にはアンドレを捕まえた場所に彼等の記念碑が建てられた。 ジョージ・ワシントン将軍からロシャンボー伯爵に宛てた1780年10月10日付けの手紙には「彼は犯罪者よりも不幸だった」と記した。ワシントンからジョン・ローレンスに宛てた1780年10月13日付けの手紙には、「洗練された男で勇敢な士官」という言葉があった。
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事件の後
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歴史家のチャールズ・ハバードは危機の解決にあたってアメリカ連合国の考え方を次のように説明している。 トレント号事件の解決はアメリカ連合国の外交にとっては重大な打撃だった。まず、1861年の夏から秋に進んでいた外交認知の動きを止めさせた。イギリスでは、アメリカ合衆国が必要な場合は自国を護る用意があるが、国際法を守る責任を認識しているという考え方が生まれた。さらに、イギリスとフランスでは、アメリカの交戦状態に関して、ヨーロッパ諸国が中立を守る限り、平和が保たれるという考えも生まれた。 アメリカ連合国の外交認知の問題は残っていた。この問題は1862年を通じてイギリスとフランスの政府で検討され、調停案として正式に提案するものであり、拒むのは難しいという筋書きだった。アメリカでの戦争が激化し、シャイローの戦いでの血生臭い結果が知られると、人道的な理由でヨーロッパ諸国による干渉が一理あると見られるようになった。しかし、1862年9月に公表された奴隷解放予備宣言によって、奴隷制度の問題がこの戦争の中心課題であることが明らかにされた。アンティータムの戦いと奴隷解放予備宣言に対する当初のイギリスの反応は、戦争自体がより激しさを増す中で、南部の中での奴隷反乱を生むだけだというものだった。1862年11月になってヨーロッパ諸国による干渉の動きは尻すぼみになった。
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