中野氏
中野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 05:24 UTC 版)
九戸政実の弟・高田吉兵衛康実が岩手郡東西中野村(現在の盛岡市中野)を南部信直より賜わり、これによって中野修理に改めた。しかし信直の子で南部氏27代・南部利直と不和になって毒殺されたとも、九戸落城で浪人した従弟・九戸連伊と歓談中に口論となり殺害された後、連伊は康実の息子に討ち取られた、とも言われている。連伊の弟・九戸伊実は落城時浪人したが、葛西大崎一揆に参加し蒲生氏との戦いで戦死した(『奥南落穂集』)。 その後も中野氏は八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。6代当主の中野光康(吉兵衛)は、享保10年に18歳で藩主となった南部利視の後見人となった。文政元年(1818年)には南部藩の家格昇進を祝って八戸氏、北氏、南氏、東氏と共に嫡子嫡孫まで南部の称号を許された。
※この「中野氏」の解説は、「九戸氏」の解説の一部です。
「中野氏」を含む「九戸氏」の記事については、「九戸氏」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 中野氏のページへのリンク