上海にて
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:48 UTC 版)
陳独秀がソビエトロシアから帰国する際、陳独秀は瞿秋白に対し帰国を勧めた。そのため瞿秋白も陳独秀と共に北京へと戻った。1923年夏、于右任と鄧中夏が上海大学を開設した際、瞿秋白は教務長兼社会学系主任となった。同時に中国共産党の宣伝業務を兼ね、『新青年』などの編集を担当した。 1924年に国民党が改組されると瞿秋白は国民党第一届大会に出席した。また上海と広州を往復しつつ翻訳業を務め、国民党の業務に関わった。 1925年1月から瞿秋白は中国共産党の第4、5、6次全国代表大会にて中央委員や(第4次)や、中央政治局委員(第5次)等に選出され、共産党指導者の一人となった。
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