一揆発生とは? わかりやすく解説

一揆発生(天正18年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 04:47 UTC 版)

葛西大崎一揆」の記事における「一揆発生(天正18年)」の解説

10月16日岩手沢城で旧城主氏家吉継家来領民と共に蜂起して城を占拠したのを皮切りに一揆領内全土へと拡大する。清久は寺池城赴いて父と対策協議したが、名生城に戻る途中立ち寄った佐沼城一揆勢に囲まれてしまい、救援赴いた吉清もろとも佐沼城閉じ込められてしまった。その結果一揆勢は寺池城・名生城をも木村父子から奪取し木村領は「一揆もち」(『伊達家文書』)と称されるまでの状態となった。 帰京の途にあった浅野長吉は、滞在していた白河城でこの知らせを受けると二本松城へと引き返し蒲生氏郷伊達政宗木村親子救出命じた10月26日に氏郷と政宗伊達領の黒川郡下草城にて会談し11月16日より共同一揆鎮圧にあたることで合意した。ところが鎮圧始め予定前日15日に、氏郷の陣に政宗家臣須田伯耆一揆扇動したのは政宗であると訴え出てさらには政宗祐筆であった曾根四郎助が、政宗一揆与えた密書持参した。また政宗軍勢撃っている鉄砲空砲であるとの報告もあり、16日に氏郷は単独一揆勢に落とされていた名生城を占領し籠城して一揆及び政宗備えとともに秀吉使者遣わして情勢報告し、氏郷からの報告受けた秀吉石田三成派遣して対策命じた片や政宗単独での行動開始し高清水城宮沢城を攻略24日には佐沼城落として木村親子救出し両名を氏郷の居る名生城へ送り届けた。氏郷は木村親子救出後政宗への備えを解かず、名生城に籠城して越年することを決め帰路安全確保のため政宗人質要求し政宗一門重臣伊達成実国分盛重両名提出した一方その頃旧領主大崎義隆上洛して秀吉小田原への不参陣を謝罪し旧領への復帰願い出ており、12月7日秀吉は義隆に対して検地終了後旧領三分の一を宛い大崎氏復帰を許す旨の朱印状下していた。

※この「一揆発生(天正18年)」の解説は、「葛西大崎一揆」の解説の一部です。
「一揆発生(天正18年)」を含む「葛西大崎一揆」の記事については、「葛西大崎一揆」の概要を参照ください。

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