一揆発生(天正18年)
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「葛西大崎一揆」の記事における「一揆発生(天正18年)」の解説
10月16日、岩手沢城で旧城主・氏家吉継の家来が領民と共に蜂起して城を占拠したのを皮切りに、一揆は領内全土へと拡大する。清久は寺池城に赴いて父と対策を協議したが、名生城に戻る途中に立ち寄った佐沼城で一揆勢に囲まれてしまい、救援に赴いた吉清もろとも佐沼城に閉じ込められてしまった。その結果一揆勢は寺池城・名生城をも木村父子から奪取し、木村領は「一揆もち」(『伊達家文書』)と称されるまでの状態となった。 帰京の途にあった浅野長吉は、滞在していた白河城でこの知らせを受けると二本松城へと引き返し、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じた。10月26日に氏郷と政宗は伊達領の黒川郡下草城にて会談し、11月16日より共同で一揆鎮圧にあたることで合意した。ところが鎮圧を始める予定の前日の15日に、氏郷の陣に政宗家臣・須田伯耆が一揆を扇動したのは政宗であると訴え出て、さらには政宗の祐筆であった曾根四郎助が、政宗が一揆に与えた密書を持参した。また政宗の軍勢が撃っている鉄砲が空砲であるとの報告もあり、16日に氏郷は単独で一揆勢に落とされていた名生城を占領し、籠城して一揆及び政宗に備えるとともに、秀吉に使者を遣わして情勢を報告し、氏郷からの報告を受けた秀吉は石田三成を派遣して対策を命じた。片や政宗も単独での行動を開始し、高清水城・宮沢城を攻略、24日には佐沼城を落として木村親子を救出し、両名を氏郷の居る名生城へ送り届けた。氏郷は木村親子救出後も政宗への備えを解かず、名生城に籠城して越年することを決め、帰路の安全確保のため政宗に人質を要求し、政宗は一門の重臣伊達成実・国分盛重の両名を提出した。 一方その頃、旧領主・大崎義隆は上洛して秀吉に小田原への不参陣を謝罪し旧領への復帰を願い出ており、12月7日に秀吉は義隆に対して検地終了後に旧領の三分の一を宛い大崎氏の復帰を許す旨の朱印状を下していた。
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