リング禍
リング禍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/05 14:20 UTC 版)
1998年3月16日、ウクライナのキエフで行われたInternational Super Challengeという大会に出場。ノールールでは無かったこの大会は「ウクライナ対世界」と銘打たれ、約4000人の観客を動因した。(興行元である地元の柔術クラブ)ミナモトは「世界チーム」の選手を集めるために、ファイトマネー2000ドル・勝利ボーナス3000ドルに加えて旅費・滞在費を保証すると、インターネットで出場者募集の告知を行っていた。デッジは集まったアメリカ人選手3人のうちの1人であった。 試合中デッジはテイクダウンを試みるが、対戦相手のエフゲニー・ゾロタレフにマウントポジションを奪われ、鉄槌とパウンドを頭部に15発浴び、まだ「きちんと防御ができていた」ものの5分をまたずにギブアップして試合は終了した。試合後デッジは一度は立ち上がるが直ぐに倒れ、2日後に深刻な脳損傷が原因でキエフ脳神経外科研究所で死亡した。デッジの友人はこの試合のトレーニング中にデッジが失神したことがあったと後に述べている。 デッジの死後、UFCを1997年に解雇されていたUFCの元共同創立者兼マッチメーカーのアート・デイビーは、UFCオーナーのボブ・マイロビッツへ総合格闘技をプロモーションすることを考え直すよう手紙を書いている。また、デイビーは総合格闘技反対派の上院議員ジョン・マケインにも手紙を書いている。しかし、デイビーはK-1と契約しK-1USAの副社長に就任していたため、デイビーが手紙を書いた動機を疑う記者もいた。 UFCを代表して、ボブ・マイロビッツは「このようなリング禍が起きないために、我々はアメリカ国内や国際的にアスレチック・コミッションによる管理を求めている」とコメントした。
※この「リング禍」の解説は、「ダグラス・デッジ」の解説の一部です。
「リング禍」を含む「ダグラス・デッジ」の記事については、「ダグラス・デッジ」の概要を参照ください。
- リング禍のページへのリンク