マニエリスム【(フランス)maniérisme】
マニエリスム
【英】:MANIERISME
盛期ルネサンスに完成された古典主義芸術のあとを受けて、ほぼ1520年頃から17世紀初頭にかけて、主として絵画を中心に、ヨーロッパ全体を風靡した芸術様式。20世紀初頭になってから独立した様式として認められ、16世紀中葉から後半を支配した芸術様式として重要視されている。その表現は、極度に洗練された技巧、曲線を多用した複雑な構成、歪んだ遠近法を用いた構図、明暗のコントラストや入り組んだ奥行表現による効果、異常なプロポーションや色づかいなどを特色としている。これらは、ラファエロやミケランジェロの完成された力強い表現に対する傾倒、デューラーなどによる北方ゴシックの影響、混乱時代の社会不安、芸術愛好家君主の積極的な保護などを背景として生まれたといえる。その本質については、ルネサンスからバロックへの過渡期の様式、反古典主義様式、16世紀のヨーロッパ全体の精神的危機を反映した様式、ルネサンス文化の継続的発展、人間の持つ非合理なものへの衝動など様々な見方がある。
マニエリスム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/17 03:41 UTC 版)
マニエリスム(伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism)とは、ルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。マンネリズムと語源を等しくする[1]。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉である[2][3]。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた[2]。
- 1 マニエリスムとは
- 2 マニエリスムの概要
マニエリスム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:41 UTC 版)
詳細は「マニエリスム」を参照 絵画と同様にイタリアの初期マニエリスム彫刻は、ルネサンス隆盛期の成果(彫刻においては本質的にミケランジェロを意味する)を上回る独自様式を見つけようとする試みで、これを達成するため多くの奮闘がフィレンツェのシニョーリア広場にある他の空間(ミケランジェロ作ダビデ像の隣)を埋めるための依頼で行われた。バッチョ・バンディネッリはヘラクレスとカークス像の事業を師匠から受け継ぎ、それは今ほど人気がなくてベンヴェヌート・チェッリーニからは悪意を込めて「メロンの袋」と比較されたが、彫像の台座に浮彫りのパネルを初めて導入したことで長期的な影響を及ぼした。彼や他のマニエリスム芸術家の作品と同じく、それはミケランジェロがやったよりも遥かに元々のブロックを多く削り取っている(要は彫像の体形が細身になった)。ベンヴェヌート・チェッリーニの『メドゥーサの頭を持つペルセウス』という傑作のブロンズ像は、8方向から設計されたもので、もう一つのマニエリスムの特徴としてミケランジェロやドナテッロ作のダビデ像と比較すると実際のところマンネリである。もともと金細工師だった彼の有名な金と琺瑯でできた『サリエラ(塩入れ)』 (1543)が彼の最初の彫刻で、その才能を最も発揮している。これらの例が示すように、この時代は肖像画を超えた大型作品の世俗的な主題範囲が広がり、神話上の人物が特に好まれた。これらは以前だと大部分が小型の作品で発見されていた。 収集棚向けの小型ブロンズ像は、しばしば(裸体を含む)神話的な主題であり、ルネサンス様式で人気を博した。ジャンボローニャがこの世紀の後半に才能を現し、等身大の彫刻も製作しており、うち2つはシニョーリア広場のコレクションに加わった。彼とその弟子は、多くの場合2人が蛇のように絡み合う細長い「フィグーラ・セルペンティナータ」の作品を考案した。 フォンテーヌブロー宮殿の扉上にあるスタッコ。恐らくフランチェスコ・プリマティッチオ(楕円内を描いた)の設計、1530-1540年代 ベンヴェヌート・チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』1545-1554年 ジャンボローニャ作『サムソンとペリシテ人』1562年頃 ジャンボローニャ作『サビニの女たちの略奪』1583年。高さ4.1mの大理石像(イタリア、フィレンツェ)
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