ネズミとの戦いとは? わかりやすく解説

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ネズミとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)

還住 (青ヶ島)」の記事における「ネズミとの戦い」の解説

寛政5年7月12日1793年8月18日)に始まった青ヶ島復興であったが、いきなり大きな試練ぶつかった水不足住居問題道路船着場などのインフラの復興なども課題とされたが、復興進めにあたって最大問題となったのがネズミの害であった噴火後、人が住まなくなった青ヶ島ではネズミ増えおびただしいネズミ群れが穂を出した麦や粟を食い荒らしてたちまちのうちに丸裸してしまい、もちろん多く食糧食い荒らされた。復興にあたる島民らはネズミ駆除乗り出し復興開始から1年足らずの間に約1,500匹のネズミ駆除したものの、焼け石に水であった。 まず復興開始直後8月28日1793年10月2日)、穀物ネズミ食い荒らされるためになど根菜類入手することを目的として、復興従事していた12名の島民のうち5名が八丈島向かった。しかし5名は八丈島たどり着くことなく行方不明となってしまった。 そして復興には不運重なった寛政6年4月13日1794年5月12日)、2艘の船に分乗し名主三九郎15名が、復興従事者のための穀物食糧とともに青ヶ島渡ったが、高波のために青ヶ島で船が壊れてしまい、物資失われてしまった。青ヶ島状況見分したあと、三九郎12名は火山灰埋もれた青ヶ島の家や家財道具の古材を用いて船を建造し、何とか八丈島へ戻ることができた。 三九郎はここで諦めことなく八丈島に戻ると韮山代官所青ヶ島現状についての報告復興資金援助請願した。この結果青ヶ島復興のために船が建造され寛政6年1794年7月、さっそく物資積んで青ヶ島向かったものの、船は青ヶ島へ着くことなく房総半島漂着した同年9月三九郎はさらに青ヶ島物資積んだ船を送った今回青ヶ島到着成功して物資輸送行われた。しかし約半年後の寛政7年1795年2月八丈島への帰路、船が難破して乗員全員死亡した。そして同年4月青ヶ島向かった船は無事に荷物送り届けられ八丈島にも無事に戻ってきた。しかし寛政7年1795年4月以降結局八丈島からの船が青ヶ島復興従事する人々のもとへ着くことはなかった。まず寛政8年1796年4月青ヶ島向かった船は暴風によって青ヶ島到着することなく房総半島漂着してしまった。

※この「ネズミとの戦い」の解説は、「還住 (青ヶ島)」の解説の一部です。
「ネズミとの戦い」を含む「還住 (青ヶ島)」の記事については、「還住 (青ヶ島)」の概要を参照ください。

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