ネズミとの戦い
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寛政5年7月12日(1793年8月18日)に始まった青ヶ島の復興であったが、いきなり大きな試練にぶつかった。水不足や住居の問題、道路や船着場などのインフラの復興なども課題とされたが、復興を進めるにあたって最大の問題となったのがネズミの害であった。噴火後、人が住まなくなった青ヶ島ではネズミが増え、おびただしいネズミの群れが穂を出した麦や粟を食い荒らしてたちまちのうちに丸裸にしてしまい、もちろん多くの食糧も食い荒らされた。復興にあたる島民らはネズミの駆除に乗り出し、復興開始から1年足らずの間に約1,500匹のネズミを駆除したものの、焼け石に水であった。 まず復興開始直後の8月28日(1793年10月2日)、穀物がネズミに食い荒らされるために芋など根菜類を入手することを目的として、復興に従事していた12名の島民のうち5名が八丈島へ向かった。しかし5名は八丈島へたどり着くことなく行方不明となってしまった。 そして復興には不運が重なった。寛政6年4月13日(1794年5月12日)、2艘の船に分乗した名主三九郎ら15名が、復興従事者のための穀物や食糧とともに青ヶ島に渡ったが、高波のために青ヶ島で船が壊れてしまい、物資も失われてしまった。青ヶ島の状況を見分したあと、三九郎ら12名は火山灰に埋もれた青ヶ島の家や家財道具の古材を用いて船を建造し、何とか八丈島へ戻ることができた。 三九郎はここで諦めることなく、八丈島に戻ると韮山代官所に青ヶ島の現状についての報告と復興資金の援助を請願した。この結果、青ヶ島復興のために船が建造され、寛政6年(1794年)7月、さっそく物資を積んで青ヶ島へ向かったものの、船は青ヶ島へ着くことなく房総半島に漂着した。同年9月、三九郎はさらに青ヶ島へ物資を積んだ船を送った。今回は青ヶ島到着に成功して物資の輸送も行われた。しかし約半年後の寛政7年(1795年)2月、八丈島への帰路、船が難破して乗員は全員死亡した。そして同年4月、青ヶ島に向かった船は無事に荷物を送り届けられ、八丈島にも無事に戻ってきた。しかし寛政7年(1795年)4月以降、結局八丈島からの船が青ヶ島で復興に従事する人々のもとへ着くことはなかった。まず寛政8年(1796年)4月、青ヶ島に向かった船は暴風によって青ヶ島へ到着することなく房総半島に漂着してしまった。
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