2011年12月にThe Nikkei Asian Reviewとして創刊した英文メディアNikkei Asiaは日経のグローバル戦略を担う旗艦媒体です。縮小する日本市場から拡大する世界市場へ、顧客のターゲットを切り替えたことが日経本紙や電子版、その他の専門媒体との大きな違いとなっています。アジアからの視点やアジア経済の鼓動を伝える優れた日経のコンテンツをデジタル・ファーストで発信し、フィナンシャル・タイムズ(FT)との編集協力を象徴するプロジェクトともなっています。創刊から10年。新ブランド立ち上げの決断は奏功し、アジアを代表するクオリティーメディアとして飛躍を続けています。
iPadのアプリとして創刊、販路を瞬く間に世界へ
新媒体の構想が明らかにされたのは2011年7月下旬。4カ月前の東日本大震災と津波、東京電力福島第一原子力発電所の事故などで将来への明るい展望を誰もが失っていたころでした。
「日経の日本語の情報をそのまま海外に持っていっても、売るのは難しい。今から手を打たなければ、縮小する国内市場で永久に縮小均衡しなければならない。これでは会社は生き残っていけない」
喜多恒雄社長(当時)は全社部長会で強い危機感を表明したうえで「アジアの情報を、日経がアジアの視点で編集し、英語で世界に発信する」との攻めの戦略を打ち出したのです。
確かに中国やインドの急成長で世界経済の重心は21世紀に入って西から東へと急激に移動していました。一方でアジア全体を対象としたメディアは01年12月にASIAWEEK誌、09年12月にFAR EASTERN ECONOMIC REVIEW誌が相次いで廃刊し、日経のライバルとなりうる良質なメディアの「空白」が生じていたのです。
編集局で新媒体創刊の陣頭指揮を執ったのが岡田直敏局長(当時)でした。「アジアのニュースを世界に届ける役割を欧米任せにしていいのか。アジアの多くの国ではまだ国営メディアが幅を利かしており、本当の意味でのジャーナリズムは育っていない。日本に拠点を置く日経ならばアジアを冷静な目で俯瞰して世界に伝えるクオリティーメディアの役割を担えるはずだ」と創刊準備チームを鼓舞しました。英エコノミスト誌が欧州経済について少し距離を置いて論評するようなイメージがメンバーには共有されました。
創刊準備の中心となったのは編集局が編集長ら4人、デジタル編成局がプロダクトマネジャーら3人という計7人の小所帯でした。編集側のアートディレクターにはポスターの国際コンクールで受賞歴のあるデザイナーを外部からスカウトし、デジタル編成局には社内公募で選ばれた入社3年目の若手2人が抜てきされました。編集の手が足りないときは写真を挿入する作業をデジタル編成局の3人も総出で未明まで手伝うこともありました。「自分たちのメディアを新しく作る」という創業間もないベンチャー企業やスタートアップのような雰囲気は10年を経た今も引き継がれるDNAです。
創刊に向けて最も重視したのは何よりもスピードでした。選んだのは10年5月に日本で発売されたiPad向けのアプリという全く新しいデジタルメディアの形です。アップストアを使えば全世界への販路を短期間で開拓することができるからです。
11年11月にアップル社にアプリの承認を申請、12月7日に創刊にこぎ着けました。新媒体のブランド名はThe Nikkei Asian Review。「しっかりしたレビューこそ鋭いプレビュー(先読み)の土台になる」という思いに加え、Far Eastern Economic Reviewが担っていたアジア全体を俯瞰するクオリティーメディアの座を今後は日経が担っていく、という意気込みもありました。
「英語を使ってアジアのビジネスに携わる世界のすべての読者にとって役に立つ」。新媒体のミッションはこのように定めました。
創刊号の特集は「The Age of Asia (アジアの時代)」。本紙朝刊に載った創刊の辞の見出しは「アジアの視点、世界に~英語で等身大の姿伝える」でした。創刊当初はアップストアの無料アプリでダウンロード数首位となり、アップル社のiPadの広告にも使われました。
デジタル、それも当時最先端だったiPadに合わせたアプリとして出発したThe Nikkei Asian Reviewは創刊当初から「グローバル&デジタル」という日経の経営戦略の先兵としての役割を担っていたのです。
英文3媒体をNikkei Asian Reviewに統合
The Nikkei Asian Reviewを創刊した当時、日経にはそのほかに2つの英文メディアがありました。1963年創刊のTHE JAPAN ECONOMIC JOURNALを前身とする紙媒体のTHE NIKKEI WEEKLY、1996年にNikkei Netで始まった英文情報の発信を起源とする電子媒体のNIKKEI.comです。
The Nikkei Asian Reviewが軌道に乗ってきたことからこの3媒体を「The」を省いたNikkei Asian Reviewという1つのブランドに統一したのが創刊2年後の2013年11月のことです。ペイウオールを設けて有料化にも踏み切りました。
リニューアルに合わせて、アジアの取材態勢も拡充しました。13年5月、編集局にアジアビジネス報道センターを新設。同12月にはミャンマーにヤンゴン支局を開きました。リニューアル号は支局の認可に先立つ形でミャンマー経済を特集しました。14年3月にはタイのバンコク支局をアジア編集総局に格上げし、現地採用記者も含めて取材要員も大幅に増やしました。日経グループのアジア事業の中核拠点となる日経アジア社もシンガポールに設立し、編集部門と事業部門の態勢が整いました。
14年4月24日号の巻頭特集「A Future of Drought」(干ばつの未来)は15年6月に香港で開かれたアジア出版者協会(SOPA)賞の地域メディア部門で環境報道の最優秀賞を獲得しました。
FTと編集協力、アジアを代表するクオリティーメディアに
Nikkei Asian Reviewにさらに大きな転機が訪れたのは15年11月、日本経済新聞社が英フィナンシャル・タイムズ(FT)の買収を完了して以降のことです。デジタル・ファーストの編集で一日の長があるFTからオーディエンス・エンゲージメントの専門家を招いたり、エディターを迎え入れたりして、一段の飛躍を遂げることになりました。
人事の面では17年4月にマイケル・ストット氏が東京編集局のマネジング・エディターに就き、その後、FTからは副編集長を含め計3人のエディターを迎える体制が定着しています。日経を含め、従来のメディアであれば東京やロンドン、ニューヨークなどメディアの本拠地から派遣されてくる「特派員」の助手を務めていたようなバイリンガルの現地採用記者に自分の署名で記事を書ける機会を広げ、FTのエディターが編集する――。これまでのメディアではあり得なかった「新しい結合」がNikkei Asian Reviewをさらにイノベーティブな媒体として成長させることになりました。
新型コロナウイルスが猛威を振るうさなかの20年9月30日、Nikkei Asian Reviewは「Nikkei Asia」にブランド名を変更しました。特集号のタイトルは「なぜ我々はそれでも『アジアの世紀』に楽観的なのか」。11年12月の創刊号が「アジアの時代」だったことに呼応し、アジア最高のメディアを目指す方針を再確認しました。
成長を続けられるメディアとなるために、19年からは「有料購読者数」を目標として、編集部門と事業部門が一丸となって取り組むようになりました。19年末には不可能と思われていた2万IDを達成。20年末に3万ID、21年末には4万IDを実現しました。メディア不況のなか、2ケタ成長を続けることで、「グローバル戦略の旗艦媒体」としての存在感はますます高まっています。
「いずれはウィンブルドンのセンターコートで優勝する」。有料ID数以上に重視しているのはメディアとしての飽くなきクオリティーの追求です。
22年4月には、世界の優れたビジネス報道作品を表彰する米SABEW(ソサエティー・フォー・アドバンシング・ビジネス・エディティング・アンド・ライティング)の「第27回ベスト・イン・ビジネス・アワーズ」で初挑戦ながら国際報道やテクノロジーなど4部門で3つの最優秀賞などを受賞しました。「ニューヨーカー」「フォーブス」など、米国を代表するメディアと競っての堂々の受賞でした。
東南アジアで暗躍する犯罪集団に迫ったルポ「カンボジアのオンライン詐欺集団の内幕」(ショーン・タートン記者)が国際報道部門で、アジアのネット市場の拡大で疲弊する宅配業者について報じた「ネット販売ブームの過酷な現実」(スティーブン・ボロウィック記者)など一連の記事がテクノロジー部門で最優秀賞をそれぞれ受賞しました。また、媒体としてのNikkei Asiaも中規模メディア部門で「最優秀賞」に選ばれました。
世界的な半導体不足がIT(情報技術)、自動車産業などのサプライチェーン(供給網)にもたらす構造変化を追った「クリスマスを前に近づくアップルの悪夢」(鄭婷方記者、黎子荷記者)など一連の記事は2部門で佳作に選ばれました。
FT買収前の15年6月から賞を獲っているSOPAでは21年に「地域メディア」から「グローバルメディア」に階級を上げ、いよいよ「ウィンブルドン」での戦いに参入しました。初挑戦の21年は無冠に終わりましたが、2度目の挑戦となる22年は評論部門とテクノロジー報道部門で最終選考に残りました。
テクノロジー報道部門は英エコノミスト誌が最優秀賞、ロイターが優秀賞で賞を逃しましたが、評論部門は最優秀賞のブルームバーグに次ぐ優秀賞を獲得しました。いわば「準優勝」ですが、英エコノミスト誌に評論部門では競り勝ちました。
イタリアの高級紙「IL FOGLIO」氏は21年3月18日付の1面で「Modello Nikkei」(日経モデル)と題した記事を掲載し、Nikkei Asiaのことを「Economist d'oriente」(東洋のエコノミスト誌)と紹介しました。創刊当時ははるか遠い頂に見えた経済ジャーナリズムの最高峰、英エコノミスト誌に近づいている、少なくともそのように認識され始めたのは間違いありません。
個人の有料購読者はアジア各国を中心に130カ国以上に広がっています。欧米が3割を超え、日本は2割以下です。ページビュー(PV)を見ても首位は米国で、日本は4位の約6%。「アジアの視点、世界に」という創刊当初の目的はすでに達せられつつあります。
創刊から10年。グローバル戦略の旗艦媒体として、「ウィンブルドンのセンターコートで優勝する」という目標は着実に視野に入ってきています。