ブログでもっとも輝かしい時はいわゆる栄光の時でなく、落胆や絶望の中でブログへの挑戦と未来への完遂の展望がわき上がるのを感じたときだ。――フローベル改変
元は「人生」
頂点よりも上り坂の途中にいると考えたほうが気分が良い。とくに一端どん底に落ちた――グーグル八分にされるとか、長期間休止して読者が離れたとか――状況から不屈の精神でたちあがる光明をえたときは、はじめたとき以上の悦びがあるかもしれない。
山は高いほど闘志をかきたてる。
元は「人生」
頂点よりも上り坂の途中にいると考えたほうが気分が良い。とくに一端どん底に落ちた――グーグル八分にされるとか、長期間休止して読者が離れたとか――状況から不屈の精神でたちあがる光明をえたときは、はじめたとき以上の悦びがあるかもしれない。
山は高いほど闘志をかきたてる。
ブログで必要なことは無知と自信だ、それさえ有れば成功間違いなしbyマーク・トゥエイン改変
自分が知らないことを知りすぎてしまっている人は自分の発言に臆病になってしまう。適度に無知でなおかつ自信をもっている人だけが成功に近づく権利をえる。よくもわるくも。
特にサイト全般よりもブログ向きの言葉だと思ったので「人生」を「ブログ」に変えた。
自分が知らないことを知りすぎてしまっている人は自分の発言に臆病になってしまう。適度に無知でなおかつ自信をもっている人だけが成功に近づく権利をえる。よくもわるくも。
特にサイト全般よりもブログ向きの言葉だと思ったので「人生」を「ブログ」に変えた。
byシェイクスピア
自分の記事を読み返していると二重になった無駄な部分、切り離せるのに一文にされた文章、大して洒落てもいない比喩表現などが目にさわることがある。それらはできるだけ短く切り詰めたい。
どうしても文章にボリュームがあれば読み応えが確保できると錯覚しがちだが、必要なのは分量ではなくて内容の量なのだ。むしろ内容を豊かにするために文章を削って意味をはっきりとさせた方がよい。それでも文量があるの記事にこそ読み応えがある。
母岩に埋まっている鉱物結晶が酸やグラインダー処理によって多く姿を表し、軽くとも豊かな標本になるように、全ての言葉に価値のある美しくシェイプアップされた記事を書きたいものだ。
この手の話題の例に漏れず――説明する記事自体があまり簡潔ではない……。
自分の記事を読み返していると二重になった無駄な部分、切り離せるのに一文にされた文章、大して洒落てもいない比喩表現などが目にさわることがある。それらはできるだけ短く切り詰めたい。
どうしても文章にボリュームがあれば読み応えが確保できると錯覚しがちだが、必要なのは分量ではなくて内容の量なのだ。むしろ内容を豊かにするために文章を削って意味をはっきりとさせた方がよい。それでも文量があるの記事にこそ読み応えがある。
母岩に埋まっている鉱物結晶が酸やグラインダー処理によって多く姿を表し、軽くとも豊かな標本になるように、全ての言葉に価値のある美しくシェイプアップされた記事を書きたいものだ。
この手の話題の例に漏れず――説明する記事自体があまり簡潔ではない……。
というわけで孤高を気取っているという話。さいきんでも私が巡回している辺りでもハヤテの構造論の話題があったり、チャンピオン再興の秘策が語られていたりしたのだが、私がこれらにエントリーで参加することはなかった(コメントすることはあった)。こういう話題に加わることは自分なりの立場を示せるし連鎖的なアクセスも得られるしネタを無から探さなくてもよいし、と良いことずくめなのだが、どうにも気が進まない何かがある――自分が端緒となるのは誇りとするくせに。
あっさり片付けてしまえは私なりのポリシーなのだろう。特にニュースでは孫引きを避けたがる。ただし偶然に人の後から紹介するのは気にしない。
まぁ、こんなやつがいれば話題が循環に陥ってしまう危険が緩和されるだろうし、いいんじゃないか。
あっさり片付けてしまえは私なりのポリシーなのだろう。特にニュースでは孫引きを避けたがる。ただし偶然に人の後から紹介するのは気にしない。
まぁ、こんなやつがいれば話題が循環に陥ってしまう危険が緩和されるだろうし、いいんじゃないか。
人生はブログを終わらせなければならない、さもないとブログが人生を終わらせてしまうだろう。byケネディ改変
ブログの更新に拘り続けることはときとして人生に致命傷となる。いったいどれだけの時間を我々はブログに費やしてきたのだろうか。それが単なる余暇時間ならよいのだが、生活のために必須の時間まで食い荒らされるようになるとブログを続けることは苦行になる。
それでも続けたいというならば妥協点をみつけなければならないだろうし、見つけられるブロガーだけが長続きさせることができるのだろう。
ブログこそが人生だと主張する向きには何も言うまい…。
ブログの更新に拘り続けることはときとして人生に致命傷となる。いったいどれだけの時間を我々はブログに費やしてきたのだろうか。それが単なる余暇時間ならよいのだが、生活のために必須の時間まで食い荒らされるようになるとブログを続けることは苦行になる。
それでも続けたいというならば妥協点をみつけなければならないだろうし、見つけられるブロガーだけが長続きさせることができるのだろう。
ブログこそが人生だと主張する向きには何も言うまい…。