あの東日本大震災から丸10年になる。震災のことをブログに書くこともめっきり少なくなった。忘れてはいないが、時はまさに新型コロナ禍の真っ只中。人にはなぜこうして次々と試練が訪れるのか。いやお前などが試練などと言うのはおこがましいと言う心の声ももちろん聞こえている。
それでも気になっていることがある。あの日。2011年3月11日に自分は何がわかっていて、何がわかっていなかったのかということ。その時の自分を10年後の今伝えてくれているものがある。ツイートである。
Twilogに残っているあの日の自分のツイートは、あの時どの段階で何が自分に伝わっていて、何がわかっていなかったのか。何がどう報道されていて、何が報道されていなかった(あるいは自分に届いていなかったのか)のか、刻一刻と変わる報道のブレと自分の無知。本能と恐怖と不安と楽観。そして愚かさを伝えてくれている。
あの数日の、日本人全てにとって悪夢のような日々。刻一刻と進んでいった事態の緊迫感の幾ばくかを伝えてくれていると思う。10年を期に、整理してみようと思う。
(1)2011年3月11日(金)
3月11日の夜は全国かなりの地域で晴れ渡っていた。覚えてはいたがNHK「あの日の星空」という番組を見て、改めてあの3月11日の澄んだ夜空を思い出した。
あの夜、自分は西新宿の職場から世田谷の自宅まで3時間以上かかって歩いて帰った。東京なので星は流石にあまり見えなかったが、月が煌々と見えていたことはツイートからもわかる。異常な事態なのになぜかあまり不安はなかった。あの夜はなんとも言えない不思議な昂揚感にも包まれていたと思う。現実を考えたくなかっただけかもしれないし、本当に何が起きていたのかはまだ知らなかったせいもあるだろう。
津波が起きたことは直後のテレビ報道で知っていたが現実感がなかった。その後、夜中近くまでのほとんどの時間が帰宅途中であったため、そもそも東北で何がどんな風に起きているのかはわかっていなかったから、深刻度もわからなかった。
原発のことを知るのも家について夜中近くになってからだ。道すがら写真をたくさん撮ったのに、当時Twitterからリンクしていたplixiが今はもうないこともあり、なぜか残っていない。それでもスマホの中に残っていても良さそうなものなのに、この年の写真はこの夜に限らずほとんど残っていない。不思議だし残念だ。
調べたらあの夜の月齢は6.3だった。
●東日本大震災発生 2011年(平成23年)3月11日(金曜)14時46分18.1秒(日本時間)
その時には西新宿のオフィスにいた。ちょうどあるネットメディアの取材が来ていて、会議室でカメラでインタビューを受けている最中に世界が揺れ始めた。だからその時の自分の狼狽した瞬間の映像はどこかに残っているかもしれないが見たことはない。(当然その企画はボツになり僕の映像が公開されることもなかった)
地震発生から最初のツイートまで30分かかっている。この間に家族や友人の安否を確認していたと思う。
●地震後最初のツイート 3月11日 15:11 PM
ようやくつけたテレビに映ったのは10mを超える津波警報と、仙台平野を覆っていく信じられないような勢いの津波だったと思う。ビニールハウスが飲まれていく光景を茫然と眺めていたが現実味がなかった。そのツイートはない。取材に来られた女性が映像を見て叫んでいたことを覚えている。
●この時の国連の動きは本当に早かった。
●自宅へ
おそらく18:00頃にオフィスを出てしばらく中野坂上のカフェで(オープンしていた!)しばらく、家人の迎えの車を待っていたと思う。彼女は娘をピックアップすることに成功して、その後こちらに来ようとしたが、当然の大渋滞で断念した。それで家に向かって歩き始めた。せいぜい8kmくらいの距離だから2時間歩けば着くとこの時は思っていた。
●帰路
月のことは書いているが、きっと星はあまり見えなかったのだろう。道すがらツイートしながら、各地の友人と会話ができたことが精神的には救いになった。
この時点では通話もメールもできなかった。SNS(Twitter)は生きていた。Facebookは確認していない。固定電話の件は誰かから聞いたのだと思う。SNSをやっていない人への連絡経路が閉ざされていた。
地震発生時の取材もアラブ革命に関するSNS上の動きがテーマだった。一瞬にして他国に対するリアクションは閉ざされ、自分たちは自分たちの国ために優先して動かなければならないことを知らされた。
#playforjapan のタグが立ち上がり、世界各国から日本へのメッセージが届いていた。
スマホで道を確認している若い世代と違って、高齢者は歩き始めると意外と方向がわからない。あちこちでスマホを持つ若い世代に道を尋ねる高齢者が目についた。(余談だがこの時はiPhone4の時代。前年の6月に発売されている)
想定外だったのは、コンビニのトイレの長蛇の列。30分以上並んだが、皆混乱もなく整然としていた。声を荒げる人も見なかった。何ていうか、人に絡むより発生している状況のアンリアルに圧倒されている感じもあった。
「帰宅難民」になっていることを知った人からTwitterで何件も労いの言葉をいただいた。本当に。こんなことは大したことではない。
今思えば間抜けなセリフ。この大地震をまだ「普通の地震」だと思っている。巨大な岩盤が動いたのだというリアリティが自分にない。
本棚の本がごそっと落ちたくらいで結果的には(あの当時としては)大したことはなかった。
●帰宅
結局3時間半ほど歩いたことになる。
大した写真ではないが、これもPlixiにアップしたのでその後同サイトの閉鎖で見られなくなってしまった。
家に帰ると、娘の友人から連絡が入り、彼女と2人でデートの帰りに近くで動けなくなっているというので、車を動かしてピックアップに向かった。普段なら15分くらいの道が1時間くらいかかったと思う。やっと2人を連れ帰り、その夜は家に泊めることにした。リビングで雑魚寝の準備をして自分の部屋に上がって接したのが原発のニュースだった。
●原発事故第一報
9:59PM おそらくTwitterで得たニュースだと思う。これが自分にとっての最初の原発事故ツイートとなった。まさかこれがあんな大事故になるとはもちろん想像していなかった。
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