2年ちょっとの間、つまらない事を書き綴ったブログですが、ドイツ留学を終了するにあたり、いったん終りたいと思います。今まで、多くの方に読んで頂き、多くの励ましやコメントを頂きました。本当にありがとうございました。ともすれば、孤独に苛まれそうな生活のなかでどれほど励まされ勇気をもらったかわかりません。
9月から、アフリカのブルンジという国に拠点を移し、小児心臓外科を立ち上げることを仕事とします。アフリカで、万年下っ端心臓外科医が何ができるか、本人の僕にも見当がつきませんが、この体験は共有して価値のあるものかもしれないと思っています。価値というとおこがましいですが、日本からは遠くはなれたアフリカで起こっている事の記録を残していきたいと思っています。そういうわけで、これからは新しいブログで、またくだらない日常を、気の赴くままに書き綴っていきたいと思っています。まずは、これまでこちらのブログでは明らかにしてなかったドイツからアフリカに行くいきさつなども含めて、ゆっくりですが書き始めてみたいと思っています。
心臓外科医はつらいよ 〜遮断鉗子のブルンジ奮闘記〜どうぞ、これからもよろしくお願いします。
1歳、12kgのファロー四徴症。ギリシャからのプライベートの患者さん。手術はH先生、僕、Iさん。肺動脈弁輪のサイズはぎりぎり正常範囲内なので、温存する方針。弁は2尖弁で、交連切開。右室流出路は三尖弁と肺動脈弁の両方から切除。心室中隔欠損はいつもどおりダクロンパッチで閉鎖。肺動脈は自己心膜で拡大して、手術終了。
手術の前から、最後のH先生名物『F○CK』が聞けるね〜とみんな言いにくるけど、さすがに、最後の日だからおだかやかに手術するんじゃないの〜と言い返していると、麻酔科の教授まで、『そりゃ、さみしいな〜』って。『F○CK』が聞けないのが寂しいのか?僕がいなくなる事が寂しいのか?訊くと凹むのでそこは曖昧のまま。
案の定、今日は抑えたH先生が淡々と手術。僕も特に大きなミスもなく、順調に進行。人工心肺も離脱して、止血をしていた。もう、さすがにないな、と思っていたら、左上大静脈のカニューレ挿入部からすこし出血。H先生は縫合して止血しようとしたけど、珍しく止まらず。周りの組織を剥離して、突っ張りをなくそうとしたら、小さな枝を切って出血。
『F○〜〜〜〜〜〜CK!!!!!』
スクラブナースの看護婦さんはガッツポーズしているし、麻酔科の先生は『でた!!』とか言うし。H先生以外は、手術室のみんなが嬉しそうに笑って、僕に目を合わせてきた。
最後に聞いた『F○CK』は、世にも幸せな『F○CK』でした、とさ。
めでたし、めでたし。
手術が早く終わったので、手術室のロッカーを片付けた。僕の私物はほとんどないのだけど、このロッカーをもらった頃は、麻酔科の先生と共用となっていて、この先生のどうでもいい私物が山のように入っていた。ゴミ箱みたいなロッカーを片付けてなんとか使えるようにしたのだけど、この先生はこの私物を残したまま転勤していった。これは、もう捨ててもいいということだと思っていたら、また帰って来て捨てるに捨てられなくなっていたものを許可をもらって捨てた。発つ鳥あとをにごさず。このロッカーは僕の戦利品で、宝物だった。
ロッカーをもらうきっかけを思い出していた。病院に来始めて、もう随分経った頃だったと思う。語学の資格もようやく取ったけど、事務上の手続きが何ヶ月もかかっていた。そうこうしているうちに夏になろうとしていた。
それまでは、訪問者用の鍵のかからないロッカーがひとつあって、そのロッカーに服を入れていた。僕も甘かったのだけど、そのなかに財布も入れていた。といってもお金はいつもほとんど入っていなかったし、盗まれたりすることもなかったし、誰かが僕の私物を触ったような明らかな痕跡もなかったので、やや安心していた。なにかの支払いをしないといけなくて、その日に限ってやや大金を持っていた。そのまま財布に入れてズボンのポケットにつっこんでロッカーに入れて手術に入った。手術がおわって病院をでて、さて支払いをしようという時にようやく気がついた。盗まれた。
次の日にA教授にその事を報告した。いままで、この病院でそのような事は前代未聞で、A教授は相当にショックを受けていた。警察に言おうとしたらしいが、それは思いとどまった事を後で知った。なにしろ、僕がその当時は正式な許可を得ずに働いていたので、警察に言うとむしろそちらの方が問題になると困る、という事だった。僕は無免許医だった。
そんなことがあってから、ようやく鍵付きのロッカーをもらえた。その時に初めて、病院内のドアをどこでも開けられる鍵ももらった。ドイツに来てから1年が過ぎていた。
白衣と名札をもらったのは、その数ヶ月後のきちんとした許可が下りた後だったし、自分の机をもらったのは、さらに1年後だった。それまでは、カンファレンス室で全ての作業をしていた。そこも、他の部門の人が使うからと言って追い出されて、途方に暮れたこともあった。誰もいなくなった手術室のPCで事務作業をこっそりやっていた。
まだ、鍵をもらってない頃。手術予定に入っているけど、手術室に入れなくて、誰か鍵を持っている人が来るのを手術室の外で待っていた。たまたま誰かが来ればいいけど、来ない時もある。あちこちで人を捕まえようとするけど、間が悪いと言うか、そんな時に限って誰もいない。途方に暮れて待った。ようやく手術室に入ったら、なんでこんなに遅くくるんだ、と麻酔科の先生にすごい剣幕で文句を言われた。言っている事がわかっても言い返せないし、僕の鍵のない状況なんて知る由もない。悔しかった。
僕は招かれざる客だった。後ろ盾もないし、手を引いてくれる人もいなかった。
半分は押し掛けるようにドイツにやってきた。もちろん、来てもいいよと言われて来たのだけど、誰も日本人を雇うのにはかなりのハードルがあると知らなかった。病院としては予定外のことだったし、僕は僕で、迷惑をかけるといけないと、語学学校に通いながらでも手術に入れてもらっていた。少しでも手伝いになればと思ったけど、それがかえって迷惑になることもあった。つかえない、話せない、どうしようもない変な日本人だったと思う。
途方にくれ、壁にもたれて、いつ来るかわからない誰かを待つ。誰にも期待されずに、誰にも必要とされず、ただ邪魔に思われるだけの自分がとても情けなかった。
手術室に入るたびに、僕はこの原点に帰る。手術室のドアの横には、途方に暮れている僕がいるような気がする。今日はしっかりやっているか?感謝しているか?やる気を落としていないか?自分はあの頃の自分が見て納得する自分なのか?いつも壁にもたれかかっている僕に問いかけていた。毎日毎日、手術室に入るたびに。
A教授が一斉送信のメールで注意を呼びかけたこともあって、盗難事件は割と大きな話題になった。
騒動も収まりかけたある夏の日。僕の誕生日の数日前のことだった。朝のカンファレンスで、A教授とH先生が、誕生日おめでとう、と言って豚の貯金箱を手渡してくれた。中には、病院のみんながカンパで集めてくれたお金が入っていた。小銭もお札もぎっしり入っていた。不覚にも、僕はその貯金箱を抱いたまま、朝のカンファレンスで泣いてしまった。今までずっと我慢していたものが堰を切ったようにあふれだした。涙が止まらなかった。お金が戻ってそんなに嬉しいのか〜とからかわれた。笑いがおきた。僕も笑った。泣きながら笑った。
空がいつもより青く見えた。
13歳、50kgのフォンタン手術。インドネシアから来たプライベート(全額自費)の患者さん。cc-TGA、VSDといろいろで結構ややこしい診断だったけど、両心室ともに割と大きさがありVSDと房室弁の位置次第ではFontanではなく、両心室修復を目指す予定で手術に。元々の予定は,H先生、C先生、P先生だったけど、ベルギーの病院の小児心臓外科のボスが来ていて、それとほかにもいろいろいろいろあって、月曜日だからそれはいつものことなんだけど、なぜか、H先生、P先生、このゲストボスで手術をすることに。再手術の大きい子だったので、P先生が手伝って〜と言うものだから、仕方なく胸開けまで手伝った。僕は、秘書さんの勘違いで手術が当たってなくて、今朝、病院に行く前になぜか朝食を全部嘔吐してしまい(二日酔いではない!!!)、そんなに体調も良くなかったので、開胸の手伝いくらいなら、と手伝った。手術は結局、Fontan手術になった。H先生も手を下ろした後、手術室に行った。P先生が次の手術の術者に当たっていたし、親近感のあるインドネシア人だし、オレが胸を閉めるから、手を下ろせ〜!!と宣って、ゲストボスに少しだけ手伝ってもらって閉胸をした。
ゲストボスには、丁寧にお礼をして、早々に手を下ろしてもらおうとした。彼は、もう少し訊きたいことがあると言って、そのまま手伝ってくれて、手術中の細かい事を質問した。僕は、どの質問もよくわかったので、詳しく説明した。しかし、さすがに申し訳ないので、後は手術の後にコーヒーでも飲みながら話しましょう、と言って手を下ろしてもらった。いろんなボスがいるけど、こんなに腰が低くて熱心なボスは初めてだった。
胸を閉めて、ICUでご両親に『Selamt siang!!(こんにちは)』とインドネシア語で挨拶して、手術のことを説明した。頭の片隅においてあったインドネシア語が出てきて良かった〜。どうして、わざわざインドネシアから来たんですか?と訊いたら、ハラパンキタ病院の”大きな”循環器内科の女医さんが、ここに知り合いがいるからって。そうなんだ〜。誰なんだろう?と思いつつも、手術の説明をして、手術室に戻った。
手術室に行くと、ベルギーのゲストボスが、待ち構えていたように話しかけてきた。ベルギーはブリュッセルから来ているので、母国語はフランス語。そういう関係もあり、どうやら手術前に心臓先生が病院内を案内したようで。『君はアフリカのえ〜っと、なんといったけな、アフリカの。。。』『あ。ブルンジに行きます』と答えた。『ここではたくさんのことを学んだし見てきたので、それを今度は自分でやってみたくて。心臓先生にビッグなチャンスをもらいました』と付け加えた。ゲストボスは、『おめでとう。本当に素晴らしいよ。君の成功を祈るよ。君のことはよく知らないけど、君はできると思ったよ。』と言って、びっくりするくらいの力で僕の手を握ってくれた。
僕はまだなにもしていないし、ここにいるとどちらかというと、『裏切り者』か『クレージー』扱いされる事が多い。もちろん、みんな冗談でからかっているだけの話だし、その裏にはちゃんと思いやりや、できるなら残って欲しかったと思ってくれている人もいることはわかっている。だから、こんなに真っすぐに、賛辞を言われたことはない。
2010年6月29日にドイツに来た。その年は異常気象で毎日35℃を越える猛暑だった。ワールドカップでスペインとドイツの決勝に、ドイツが敗れた暑い夏だった。同じ年の9月1日から病院に通い始めた。午前中は病院、午後に語学学校で、手術は見学しかさせてもらえなかった。見学だけは辛かったけど、それでも毎日、病院に行き続けた。必死で頭の中に手術のやり方と、それぞれの人の動きと、道具の名前を頭に叩き込んだ。周りのみんなは、こいつは何者だ?といぶかしがっていた。2010年10月18日に、突発的な出血で、たまたまその時に人がいなくて、心臓先生に『手を洗え』と言われて、心臓先生の開胸の手伝いをしてそのまま2助手に入り、その日から暗黙の了解で手術に入る事になった。その頃は、怪しげな外国人でしかなく、『しゃべれない』『わからない』けど、助手はできる変な日本人だった。親しくしてくれる人はもちろんいなかったし、話しかけてくれる人はいたけど、答えようと変なドイツ語で話すとしかめっ面をされて、悲しくて悔しい思いをした。手術に入るようになって、僕が『できない奴』じゃないということを、かなり長い間、観察した後に周りがようやく結論してくれた。
最初の頃、ずいぶん長い間、僕はひとりだった。僕はだれでもなかった。いてもいなくてもいい存在だったし、誰かと対等に話せることなんかなかった。とにかく、孤独だった。それでも、ひとりで一生懸命に歯を食いしばって、手術に向き合っていた。
それから、3年。『留学してこんなに手術した』とか『留学してこんなに素晴らしい実績をつくった』とか、自慢できることは何一つないし、たいしたこともしていない。でも、あの時に、僕を手術の中にいれてくれた(今思うとわざと軽い出血を作って、人のいないときにわざわざ大騒ぎしたんじゃないかと疑惑をもっている)心臓先生のお陰で、ベルギー人のゲストボスにもこの病院のなかの一員として話をしてもらえたことは嬉しかった。このヨーロッパの世界で、心臓先生と僕のやろうとしてくれることを評価してくれて、Congratulation!!と賛辞を贈ってくれる人がいるという事に、正直、驚いた。僕は、まだなにもしていないのだけど。
3年という時間はあっという間だったけど。3年という時間は途方もなく長かったけど。僕はここで生きてきたんだな。そう思った。僕が生きた証は、実績としては何も残らないけど、僕はここの一員になれた。これは、誰にも評価されないけど、僕の中では大きな成果。『誰でもない』外国人の僕は、もうここにはいないのだから。
ゲストボスに別れを告げて、いつも通りに手術室の更衣室でシャワーを浴びている時に、ふと気がついた。インドネシアの”大きな”女医さんの知り合いって、もしかして、僕?あの人ととは、インドネシアの最後の晩餐の時に隣に座って、汗をかきながら、いかに僕の病院が素晴らしいか、酔った勢いで話した気がする。その時は、インドネシアで働くのも悪くないな〜と思っていたから、そんなことも言ったっけ。
はは〜ん。あの”大きな”女医さん。もしかしてだけど〜、もしかしてだけど〜、僕にインドネシアに来てほしんじゃないの〜!!
いよいよ、この病院で働く最後の1週間になった。
もうあまりやることは残ってないし、いろいろな思いがあるけど、
最後の1週間。
悔いのない時間を過ごしたい。