2014-04-14(Mon)
木の力 土の力
先週の月曜日にインフルエンザにやられ、以来まるまる1週間調子が悪い。熱が出たのは火曜日だけで、あとは37度出るか出ないか。でもフラフラ状態がいつまでも続くので金曜に医者に行ったらインフル宣言。
付属薬局の経営協力のために発症から4日も経ってるのにイナビルを吸入させられ、異常行動も出なかったが特段の効果もなく、結局きょう日曜日に至るも完全復活に至らない。
どうも、ワクチンやら薬やらで、ウイルスが変化してきているのではないだろうか。これまで何回もインフルにはかかったけれども、こんなにしつこいのは自分も家族も経験がない。
とまれ、金曜以降はほどほど頭ははっきりしているので、ゆっくりとものを考える時間はできた。
去年の後半から、仕事の面でもなにか違和感がつきまとい、どうも何もかもがスカッといかなくなっていた。一度軌道修正しなくちゃならんなあと思いつつ日々に追われてきたので、ちょうどいい機会だった。
うまくいかなくなったときにものを考えるのは、実はかなり怖い。どうせ良くないことばかり考えてしまい、しまいには不安で寝られないようになったりしかねない。
だいたい僕らの仕事は、うまくいっている時でも半年先までしか生き続ける保証はない。お客さんはぜんぶ「いちげんさん」で、リピーターというのはほとんどあり得ないので、僕らのような個人事務所が仕事を依頼されるというのは、犬が歩いて宝石にけつまづくくらいの奇跡だ。
そういう奇跡のような暮らしをかれこれ丸9年間やってきた。
いっこうに金はたまらんどころか、むしろ減っているような気もするくらいだが、それでも生きてこられたのは、我ながらすごいなあと、自分で自分をほめてやりたい。
明月社というしがない個人の設計事務所に大事な大事な自宅の設計を任せてくれた人たちは、なんでそんな無謀な決断をしてくれたのかと9年間を思い返してみると、やはりそれは私の個人の云々もさることながら、木の力なんじゃないかと思う。
■■
2005年の春に、後先考えずに勤め先を辞めるまえの1年間ほどは、ほとんど鬱病で、抗うつ剤を飲んだり飲まなかったりの日々だった。
いろいろな経緯があって、会社の中では上司も部下もいない立場で、ある程度の売り上げを上げていれば車の中で半日寝ていても何も言われなかったので、それなりに過ごしてはいたものの、建築的にも政治的にも自分を表現できないということは辛かった。
そんなときに、私が頼りとしたのが「木の力」だ。人の力でブイブイ言わせているときには気がつかないけれども、行き詰ってみると圧倒的な木の力を感じる。それは、生きている木であり、また素材としての木でもある。
立ち木に触れたとき、素材としての木に触れたとき、森の中にじっと佇んだとき。
その木の力にしたがって、独立のあてもなく、なにも決めずに会社を辞めた。
(カミさんもよく許してくれたもんだ。よほどひどい面相をしていたのかもしれない。)
そして、会社を辞めて半年間は、世界がキラキラしていた。現金なものだ。
でも、あのときの木や風や太陽が一つの連鎖、空(くう)を充てんする何かになって自分を包み込む感覚は忘れることができない。
その後、小バブル期だったことも幸いして、2008年までは途切れることなく仕事をさせてもらった。
2009年だけは御多聞にもれずにどん底を味わったけれども首の皮一枚残し、その後遺症を残しつつどうにか今日に至るという塩梅だ。
仕事に追われるうちに、キラキラした世界はだんだんかすんできたが、家を建てる木を伐る吉野の森に入る時の濃密な時間空間は、自分をリセットしてくれた。
また、本物の木の家、木の空間を作り上げたときの充足感が、やはり木の力だという確信を新たにしてくれた。
■■
そうこうしているうちに、あの震災が起きた。
あの日以来、それまで絶対的な確信だった木の力が、心なしか私によそよそしくなった。キラキラした世界は、まったく姿を見せてくれなくなった。
津波と放射能という強敵に圧倒され、自分の仕事に確信が持てなくなっていた。
救いは畑だった。
郊外楽園構想から派生して、たまたま震災後から借りられることになった六甲菜園。抜群のロケーションとあいまって、ここで一日を過ごすと、グラグラになった心が生き返った。
まさに、土の力だった。
とくに、2012年は自然農を目指して土づくりを行い、菜園というよりは牧草地の中にちょろちょろ作物が混じっているような状態で、「土の力」による回復力は最高だった。
残念ながら近隣問題から自然農は断念し、2013年からは普通の手入れの悪い畑になっているのだが。
それでも行ってみて感じるのは、勝手に生えてくる雑草があると「土の力」は大きい。
隣の畑(写真の右半分)のようにきれいな茶色い畑は、まるで野菜工場のようで、土の力を感じない。
いままでどおり働きながら半自給自足、半は無理でもせめて2割自給自足の郊外楽園生活を実現できないか。そんなことも、ずっと考えてきた。
ただこれも、震災と放射能のみならず、その後の政治状況のあまりの展開に、脳みそがスタックしてしまった。郊外で楽園を目指そうという構想が、現実逃避のような気がして、どうしても踏み込めなかった。
2012年12月の総選挙以降、人間不信と方向性の喪失から無理矢理自分を奮い立たせることに精いっぱいで、木の力、土の力を自分の力にすることを、まともにしてこなかった。どこかで、自分の心がそれを拒絶してきた。
■■
インフルエンザの症状はほぼ治まったとはいえ、ウイルス保有者は家にいても有害物質扱いなので、昼から菜園に行ってみた。作業はさすがにしんどいので椅子を持って行ってコーヒー飲みながらもの思い。
足元の土や草を触りながら、じっとしていると、なにやら土が「こっちに来い」と言っているような気がする。
どこかで「逃げ」ではないかと自分でブレーキをかけていた郊外楽園生活は、やはり正解だったのかもしれない。
正解というよりも、これしか私にできる方向性はないのではないか。
音楽ができる人は音楽が、アートができる人はアートが、料理ができる人は料理が表現の場になりうる。
しかし、建築というのは自己表現の場にするにはあまりにもコストが大きい。コストが大きいということは、非常にたくさんの人々の思惑が入り込んでおり、個人の表現の場にはならない。なりうるとしたら、あらゆる要素を一つの思いの下にプロデュースする必要がある。
それはまだまだこれからの課題だが、今すぐ私が取りかかることができるのは、郊外楽園生活への取り組みだ。
3年前に宙ぶらりんにした郊外楽園、もう一度新しい視点で見直してみよう
よくわからないけど、それが八方ふさがりになっている政治状況へのヒントにもなる様な気がする。
付属薬局の経営協力のために発症から4日も経ってるのにイナビルを吸入させられ、異常行動も出なかったが特段の効果もなく、結局きょう日曜日に至るも完全復活に至らない。
どうも、ワクチンやら薬やらで、ウイルスが変化してきているのではないだろうか。これまで何回もインフルにはかかったけれども、こんなにしつこいのは自分も家族も経験がない。
とまれ、金曜以降はほどほど頭ははっきりしているので、ゆっくりとものを考える時間はできた。
去年の後半から、仕事の面でもなにか違和感がつきまとい、どうも何もかもがスカッといかなくなっていた。一度軌道修正しなくちゃならんなあと思いつつ日々に追われてきたので、ちょうどいい機会だった。
うまくいかなくなったときにものを考えるのは、実はかなり怖い。どうせ良くないことばかり考えてしまい、しまいには不安で寝られないようになったりしかねない。
だいたい僕らの仕事は、うまくいっている時でも半年先までしか生き続ける保証はない。お客さんはぜんぶ「いちげんさん」で、リピーターというのはほとんどあり得ないので、僕らのような個人事務所が仕事を依頼されるというのは、犬が歩いて宝石にけつまづくくらいの奇跡だ。
そういう奇跡のような暮らしをかれこれ丸9年間やってきた。
いっこうに金はたまらんどころか、むしろ減っているような気もするくらいだが、それでも生きてこられたのは、我ながらすごいなあと、自分で自分をほめてやりたい。
明月社というしがない個人の設計事務所に大事な大事な自宅の設計を任せてくれた人たちは、なんでそんな無謀な決断をしてくれたのかと9年間を思い返してみると、やはりそれは私の個人の云々もさることながら、木の力なんじゃないかと思う。
■■
2005年の春に、後先考えずに勤め先を辞めるまえの1年間ほどは、ほとんど鬱病で、抗うつ剤を飲んだり飲まなかったりの日々だった。
いろいろな経緯があって、会社の中では上司も部下もいない立場で、ある程度の売り上げを上げていれば車の中で半日寝ていても何も言われなかったので、それなりに過ごしてはいたものの、建築的にも政治的にも自分を表現できないということは辛かった。
そんなときに、私が頼りとしたのが「木の力」だ。人の力でブイブイ言わせているときには気がつかないけれども、行き詰ってみると圧倒的な木の力を感じる。それは、生きている木であり、また素材としての木でもある。
立ち木に触れたとき、素材としての木に触れたとき、森の中にじっと佇んだとき。
その木の力にしたがって、独立のあてもなく、なにも決めずに会社を辞めた。
(カミさんもよく許してくれたもんだ。よほどひどい面相をしていたのかもしれない。)
そして、会社を辞めて半年間は、世界がキラキラしていた。現金なものだ。
でも、あのときの木や風や太陽が一つの連鎖、空(くう)を充てんする何かになって自分を包み込む感覚は忘れることができない。
その後、小バブル期だったことも幸いして、2008年までは途切れることなく仕事をさせてもらった。
2009年だけは御多聞にもれずにどん底を味わったけれども首の皮一枚残し、その後遺症を残しつつどうにか今日に至るという塩梅だ。
仕事に追われるうちに、キラキラした世界はだんだんかすんできたが、家を建てる木を伐る吉野の森に入る時の濃密な時間空間は、自分をリセットしてくれた。
また、本物の木の家、木の空間を作り上げたときの充足感が、やはり木の力だという確信を新たにしてくれた。
■■
そうこうしているうちに、あの震災が起きた。
あの日以来、それまで絶対的な確信だった木の力が、心なしか私によそよそしくなった。キラキラした世界は、まったく姿を見せてくれなくなった。
津波と放射能という強敵に圧倒され、自分の仕事に確信が持てなくなっていた。
救いは畑だった。
郊外楽園構想から派生して、たまたま震災後から借りられることになった六甲菜園。抜群のロケーションとあいまって、ここで一日を過ごすと、グラグラになった心が生き返った。
まさに、土の力だった。
とくに、2012年は自然農を目指して土づくりを行い、菜園というよりは牧草地の中にちょろちょろ作物が混じっているような状態で、「土の力」による回復力は最高だった。
残念ながら近隣問題から自然農は断念し、2013年からは普通の手入れの悪い畑になっているのだが。
それでも行ってみて感じるのは、勝手に生えてくる雑草があると「土の力」は大きい。
隣の畑(写真の右半分)のようにきれいな茶色い畑は、まるで野菜工場のようで、土の力を感じない。
いままでどおり働きながら半自給自足、半は無理でもせめて2割自給自足の郊外楽園生活を実現できないか。そんなことも、ずっと考えてきた。
ただこれも、震災と放射能のみならず、その後の政治状況のあまりの展開に、脳みそがスタックしてしまった。郊外で楽園を目指そうという構想が、現実逃避のような気がして、どうしても踏み込めなかった。
2012年12月の総選挙以降、人間不信と方向性の喪失から無理矢理自分を奮い立たせることに精いっぱいで、木の力、土の力を自分の力にすることを、まともにしてこなかった。どこかで、自分の心がそれを拒絶してきた。
■■
インフルエンザの症状はほぼ治まったとはいえ、ウイルス保有者は家にいても有害物質扱いなので、昼から菜園に行ってみた。作業はさすがにしんどいので椅子を持って行ってコーヒー飲みながらもの思い。
足元の土や草を触りながら、じっとしていると、なにやら土が「こっちに来い」と言っているような気がする。
どこかで「逃げ」ではないかと自分でブレーキをかけていた郊外楽園生活は、やはり正解だったのかもしれない。
正解というよりも、これしか私にできる方向性はないのではないか。
音楽ができる人は音楽が、アートができる人はアートが、料理ができる人は料理が表現の場になりうる。
しかし、建築というのは自己表現の場にするにはあまりにもコストが大きい。コストが大きいということは、非常にたくさんの人々の思惑が入り込んでおり、個人の表現の場にはならない。なりうるとしたら、あらゆる要素を一つの思いの下にプロデュースする必要がある。
それはまだまだこれからの課題だが、今すぐ私が取りかかることができるのは、郊外楽園生活への取り組みだ。
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