2007年 04月 22日
「五胡」・北魏前期史への視点 |
匈奴の劉淵が大単于を称して自立したのをはじめ,「五胡」諸政権は,民族の如何を問わず,初代の君主の多くが自立する際に大単于を称している.後趙・前燕・前秦・後秦・西秦・南涼・夏などである.また先行研究が説くように,自立後は,皇太子やそれに匹敵する宗室の有力者が,その称号を君主から受け継ぎ,領内の非漢族を統治する役割を果たした.すなわち大単于は皇帝や天王を称した君主に従属ないしは臣属する存在に転化するのである.漢(前趙)・後趙・前秦・西秦・後燕・北燕などの諸政権にその例を見出すことができる.
ところでこのような二つの事例以外にも,帰属してきた非漢族の君長に単于号を授与する例がある.それは大単于号だったり,当該民族の名称を冠した単于号だったり,四至を冠した単于号だったりするが(左賢王号もこのヴァリエーションとしてよかろう),漢が,後に後趙を興す石勒を東単于としたような例である.管見の限り,唯一,拒絶した例が,北魏である.すなわち386年に後燕が授けようとした西単于号を拒否した拓跋珪,のちの北魏の道武帝である.その昔,アジア文化研究会の例会で報告した際(「いわゆる「五胡」諸政権の大単于号について」,1976年6月22日,於東京大学本郷キャンパス),そこに部族解散を断行した彼の中国化志向を読み取った.史書の記述から判断する限り,北魏はいかなる(大)単于号とも無縁だったからである.しかし,1980年に発見された「太武帝石刻祝文」から,可寒(可汗)・可敦なる称号が5世紀の40年代の時点で用いられていたことが明らかになった.当該石刻については,町田隆吉氏が丹念に整理されているが(同氏「北魏太平真君四年拓跋燾石刻祝文について」,『アジア諸民族における社会と国家』:89-114,国書刊行会,1984年),南朝系の「正史」を博捜することにより,直懃をはじめとして,北族社会に固有の官称号もいくつか摘出することが可能であり,町田氏も直懃が突厥の特勤に相当することを指摘されている.彼らは,中国皇帝ではなく,鮮卑可汗に従属ないしは臣属する存在だったのであろう.
これをうけて私も,単于号と無縁だった北魏が,可汗号を用いたことの意味は,漠然とした記述ではあったが,簡単に述べたことがある(池田温(編)『世界歴史大系 中国史』第2巻:225-227,山川出版社,1996年7月).今にして思えば,あまり整理されていない粗っぽい説明だが,大筋においては間違っていないと思う.「五胡」諸政権によって使い古され,権威が失墜した(大)単于号に変わり,北族社会を統轄するための新たな称号として案出されたのが可汗号だったと考えるべきなのである(ただし可汗号を北魏が創出したと断定することはできない).とすれば,可汗号に込められた意図(北族社会における新たな権力イメージ)を探る必要もあるが,ともかく中国社会に皇帝として君臨すると同時に,北族社会に対しては可汗として君臨したのである.そのような二面性を北魏前期の皇帝はもっていたのである.であるならば,皇帝として漢人官僚を駆使したように,鮮卑をはじめとする北族に対して官称号を授与したと考えるべきであろう(匈奴の単于のもとにあった各種の王侯爵や,突厥の可汗のもとにあった各種の官称号を想起すればよい).つまり直懃以外の官称号の原音や原義を突き止めること,そして可汗を頂点とする北族社会の権力秩序について,その一端なりとも明らかにする必要があるのではないか.繰り返しになるが,「五胡」諸政権とは全く異なった北族社会の権力編成を,北魏が志向したというふうに考えられるのではあるまいか.
最新刊の松下憲一『北魏胡族体制論』(北海道大学大学院文学研究科,2007年3月)は,北魏前期の支配体制を「胡族体制」として捉え,領民酋長や内朝官について検証を行っている.確かに北魏前期の支配体制を考える上で,これらの検討は必須で避けて通ることはできないが,これら,とくに内朝官について言えば,北族的な構成になっていたにせよ(そこに非漢族政権としての特質を求めることになるのだが),あくまでも皇帝権力に従属ないしは臣属する存在であって,可汗権力とは無縁なのではないだろうか.そして可汗権力に従属ないしは臣属する北族を供給源として内朝官は初めて存在しえたのではないか.おそらく北魏前期の権力構造は,松下氏が描き出して見せた以上にはるかに複雑で多面だったものと思われる.
ところでこのような二つの事例以外にも,帰属してきた非漢族の君長に単于号を授与する例がある.それは大単于号だったり,当該民族の名称を冠した単于号だったり,四至を冠した単于号だったりするが(左賢王号もこのヴァリエーションとしてよかろう),漢が,後に後趙を興す石勒を東単于としたような例である.管見の限り,唯一,拒絶した例が,北魏である.すなわち386年に後燕が授けようとした西単于号を拒否した拓跋珪,のちの北魏の道武帝である.その昔,アジア文化研究会の例会で報告した際(「いわゆる「五胡」諸政権の大単于号について」,1976年6月22日,於東京大学本郷キャンパス),そこに部族解散を断行した彼の中国化志向を読み取った.史書の記述から判断する限り,北魏はいかなる(大)単于号とも無縁だったからである.しかし,1980年に発見された「太武帝石刻祝文」から,可寒(可汗)・可敦なる称号が5世紀の40年代の時点で用いられていたことが明らかになった.当該石刻については,町田隆吉氏が丹念に整理されているが(同氏「北魏太平真君四年拓跋燾石刻祝文について」,『アジア諸民族における社会と国家』:89-114,国書刊行会,1984年),南朝系の「正史」を博捜することにより,直懃をはじめとして,北族社会に固有の官称号もいくつか摘出することが可能であり,町田氏も直懃が突厥の特勤に相当することを指摘されている.彼らは,中国皇帝ではなく,鮮卑可汗に従属ないしは臣属する存在だったのであろう.
これをうけて私も,単于号と無縁だった北魏が,可汗号を用いたことの意味は,漠然とした記述ではあったが,簡単に述べたことがある(池田温(編)『世界歴史大系 中国史』第2巻:225-227,山川出版社,1996年7月).今にして思えば,あまり整理されていない粗っぽい説明だが,大筋においては間違っていないと思う.「五胡」諸政権によって使い古され,権威が失墜した(大)単于号に変わり,北族社会を統轄するための新たな称号として案出されたのが可汗号だったと考えるべきなのである(ただし可汗号を北魏が創出したと断定することはできない).とすれば,可汗号に込められた意図(北族社会における新たな権力イメージ)を探る必要もあるが,ともかく中国社会に皇帝として君臨すると同時に,北族社会に対しては可汗として君臨したのである.そのような二面性を北魏前期の皇帝はもっていたのである.であるならば,皇帝として漢人官僚を駆使したように,鮮卑をはじめとする北族に対して官称号を授与したと考えるべきであろう(匈奴の単于のもとにあった各種の王侯爵や,突厥の可汗のもとにあった各種の官称号を想起すればよい).つまり直懃以外の官称号の原音や原義を突き止めること,そして可汗を頂点とする北族社会の権力秩序について,その一端なりとも明らかにする必要があるのではないか.繰り返しになるが,「五胡」諸政権とは全く異なった北族社会の権力編成を,北魏が志向したというふうに考えられるのではあるまいか.
最新刊の松下憲一『北魏胡族体制論』(北海道大学大学院文学研究科,2007年3月)は,北魏前期の支配体制を「胡族体制」として捉え,領民酋長や内朝官について検証を行っている.確かに北魏前期の支配体制を考える上で,これらの検討は必須で避けて通ることはできないが,これら,とくに内朝官について言えば,北族的な構成になっていたにせよ(そこに非漢族政権としての特質を求めることになるのだが),あくまでも皇帝権力に従属ないしは臣属する存在であって,可汗権力とは無縁なのではないだろうか.そして可汗権力に従属ないしは臣属する北族を供給源として内朝官は初めて存在しえたのではないか.おそらく北魏前期の権力構造は,松下氏が描き出して見せた以上にはるかに複雑で多面だったものと思われる.
by s_sekio
| 2007-04-22 23:37
| 余滴