2019年 12月 11日
拙著『三国志の考古学』 |
拙著『三国志の考古学』第六章で,岡田英弘・渡邉義浩両氏の所説,すなわち229年にクシャン朝のヴァースデーヴァに親魏大月氏王を授与できたのは,曹真の功績である,しかし曹真の子曹爽が司馬氏と敵対したため,陳寿は帝室司馬氏に「忖度」して,曹真の功績の叙述を避けた,そのために三国志(あるいは魏書)には西域伝(岡田)もしくは西戎伝(渡邉)がないのだ,という所説である.私はそのような解釈は所詮仮説の域を出ておらず,実証できない,すなわち永久に仮説でしかないと本書に書いて批判した.しかし白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬台国』(芙容書房,1978年)や三木太郎『魏志倭人伝の世界』(吉川弘文館,1979年)などがいち早く岡田の『倭国』(中公新書,1977年)の刊行直後にこれを厳しく批判していることを知った.両氏は日本史研究者であるが,批判は実証的でほぼ尽くされており,岡田の仮説はこれらの批判によってほぼ存立の根拠を喪ったと言ってよいだろう.肝心の中国史研究者からの批判が見られなかったのは,岡田の著作はこの『倭国』にせよ,『倭国の時代』(文藝春秋社,1976年)にせよ,学術的著作ないしは学問的成果と看做していなかったからであろう.それから20年経ち,ようやく堀敏一『東アジアのなかの古代日本』(研文出版,1998年)が岡田の所説を批判するに至るが,曹真に言及した部分については,スルーしている.確かに岡田の著作はいずれも一般書であって,学術書とは言いがたいが,だからこそしっかりと批判すべきであったと私は思うのである.とにかく,白崎・三木両氏の批判によって岡田の所説は過去のものになったはずであった.
しかし渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』によって蘇生させられることになった.渡邉は蘇生させたどころか,これをさらに補強し,延命させたのであるが,もちろん成立の余地はない.渡邉が白崎・三木両氏の批判に耳を傾けた形跡はない.しかし,にもかかわらず,倉本一宏「倭王権の成立」はこれを参照した叙述を行なっている.
科学技術は著しく発展を遂げているが,この問題を見る限り,歴史学はむしろ退歩しているように思われてならないのである.
by s_sekio
| 2019-12-11 06:47
| 三国志の考古学