2010年08月13日 22:01
*以前に書いたイタリアの哲学者アガンベンの能力論をのせます。
自らの中にある物言わぬ子供にアクセスすること、他者に向けて自分を空っぽにすること。これがジョルジュ・アガンベンの語るコミュニケーションの核心にあります。このことを語るために、アガンベンは「可能性(possibility)」とは区別される「潜勢力(potentiality)」について、あれこれ述べています。『バートルビー』の分析にも使われてるアガンベンの「潜勢力(potentiality)」は、アリストテレスの「能力」についての考え方からきています。
◆「能力」とはそもそも何なのか。――二つの能力
アリストテレスによると、「能力」という言葉は一般に二つの意味で使われています。一つめは、スポーツ選手が速く走り、高く飛べ、歌手が美しい声で歌える等のような、「卓越した才能」という意味での能力。選ばれた人しかもっていない力。「何者かになる」能力です。二つめの能力は、人間ならばすべての人がもっている力。それをアリストテレスは「何もしないでいること」(無能であること)、「何者にもならない」能力だと言います。
アリストテレスは、この二つめの能力について、当時幅をきかせていたメガラ派という集団と論争しています。メガラ派は、見ることができる、聞くことができる、話すことができるという能力は、目を閉じたとき、耳をふさいだとき、口をとざしたときに、世界と共に失われると言いました。目を開くと世界は一瞬のうちに創造されているのだと。アリストテレスは、んなバカなこというな、と言いました。目を閉じても、見る能力は存在するし、大工は大工として働いていないときでも、家を建てる能力が存在するし、詩人がベッドで惰眠をむさぼり詠わないときでも、詠う能力は存在する、世界も存在するんだ、と言いました。
◆「能力」の存在――純粋過去という時間
けれども、能力が存在するとは、どのようなことかと、アガンベンは悩みます。そんな単純な話でもないなーと。能力は予め存在しているとは言えず、いつも何かが起こった後に、その能力があったと言えるもの。美味しいコーヒーを煎れてはじめて、その人には美味しいコーヒーを煎れる能力があったと分かる。そして、それは分かった後になって分かる前からその能力は存在していた、と言えるもの。能力の存在とは、このような時間の順序をもっていると。
ここから続けて、アガンベンは、人が何かを行うときになって、特定の能力の形が光の下にさらされるのだけれども、純粋な能力の存在は失われてしまうのではないか、と疑問をもちました。あれでもなくこれでもなくという状態が、何かを実現すると、過去にさかのぼって、あれだったということになる(可能性possibility)。だとしたら、何もしないでいることが、純粋な能力(純粋過去、潜勢力potentiality)の存在の仕方だ、という結論にいきついたのでした。
アガンベンは、「シェイクスピアに右手がなかったらオセローは書かれることがなかったかもしれない」という想像は、現実化した可能性(実際にオセローが書かれた)を過去に投影して、事実に反した可能性を詮索しているのであって、能力の表現ではないと言います。実現した可能性とそこから想像可能な過去から切り離された過去、純粋過去こそが能力の時間なのだと。純粋過去は現在とは似つかぬ顔をし、根本的に想像を超えているのであると。
◆誰でもない誰かになる、何もしないでいる能力
才能とは別の意味での、誰もが分かち合う能力とは、何もしないでいることだったのだと、アガンベンは喜びます。たとえば、労働者のゼネラルストライキは、たんなる労働の拒否ではなく、人間のポテンシャリティの存在を明らかにしているのだし、絶滅収容所で衣服も社会的地位も奪われて剥き出しになった人たちは、何者かであることを剥ぎ取られているがゆえに、きわめて人間的なのだと言います。バートルビーの労働の拒否は、この人間の根本的な無能さを表現している、というのがアガンベンの考えです。人間を定義するとしたら、人間には他の動物に比べて何々ができる(話せる、道具が使える)という区別ではなくて、何もできないこと・無能さ(語ることができない等)こそが人間を区別しているのだと。
何もしないことで開ける純粋過去は、現在(可能性)とは似ても似つかぬ姿をしています。現在の似姿とはまったく違う、純粋過去たる能力は、根本的に私たちの想像を超えた姿をしています。そして、アガンベンによると、それは他者や世界に向けて人間が変化する能力そのものなのです。何もしないという待機状態にあって、あれでもなくこれでもないという未決定の状態に置かれること、他者のために自分を空っぽにすること。自らの中にある物言わぬ子供にアクセスすること。
アガンベンは、何者かであることは、コミュニケーションにおいては重要ではない、と言っています。能力(地位、身分、社会的ポジション)において人はコミュニケーションするのではないと。そうではなくて、何者でもないという無能さが、自分を他者に開いて変わっていく、コミュニケーションの核心にあるのだと述べます。アガンベンのコミュニケーションは、この意味で、恋人たちのコミュニケーション、狂気のコミュニケーションと見まがうばかりです。中身のない人間になることが最も人間的なコミュニケーションなのだと。
自らの中にある物言わぬ子供にアクセスすること、他者に向けて自分を空っぽにすること。これがジョルジュ・アガンベンの語るコミュニケーションの核心にあります。このことを語るために、アガンベンは「可能性(possibility)」とは区別される「潜勢力(potentiality)」について、あれこれ述べています。『バートルビー』の分析にも使われてるアガンベンの「潜勢力(potentiality)」は、アリストテレスの「能力」についての考え方からきています。
◆「能力」とはそもそも何なのか。――二つの能力
アリストテレスによると、「能力」という言葉は一般に二つの意味で使われています。一つめは、スポーツ選手が速く走り、高く飛べ、歌手が美しい声で歌える等のような、「卓越した才能」という意味での能力。選ばれた人しかもっていない力。「何者かになる」能力です。二つめの能力は、人間ならばすべての人がもっている力。それをアリストテレスは「何もしないでいること」(無能であること)、「何者にもならない」能力だと言います。
アリストテレスは、この二つめの能力について、当時幅をきかせていたメガラ派という集団と論争しています。メガラ派は、見ることができる、聞くことができる、話すことができるという能力は、目を閉じたとき、耳をふさいだとき、口をとざしたときに、世界と共に失われると言いました。目を開くと世界は一瞬のうちに創造されているのだと。アリストテレスは、んなバカなこというな、と言いました。目を閉じても、見る能力は存在するし、大工は大工として働いていないときでも、家を建てる能力が存在するし、詩人がベッドで惰眠をむさぼり詠わないときでも、詠う能力は存在する、世界も存在するんだ、と言いました。
◆「能力」の存在――純粋過去という時間
けれども、能力が存在するとは、どのようなことかと、アガンベンは悩みます。そんな単純な話でもないなーと。能力は予め存在しているとは言えず、いつも何かが起こった後に、その能力があったと言えるもの。美味しいコーヒーを煎れてはじめて、その人には美味しいコーヒーを煎れる能力があったと分かる。そして、それは分かった後になって分かる前からその能力は存在していた、と言えるもの。能力の存在とは、このような時間の順序をもっていると。
ここから続けて、アガンベンは、人が何かを行うときになって、特定の能力の形が光の下にさらされるのだけれども、純粋な能力の存在は失われてしまうのではないか、と疑問をもちました。あれでもなくこれでもなくという状態が、何かを実現すると、過去にさかのぼって、あれだったということになる(可能性possibility)。だとしたら、何もしないでいることが、純粋な能力(純粋過去、潜勢力potentiality)の存在の仕方だ、という結論にいきついたのでした。
アガンベンは、「シェイクスピアに右手がなかったらオセローは書かれることがなかったかもしれない」という想像は、現実化した可能性(実際にオセローが書かれた)を過去に投影して、事実に反した可能性を詮索しているのであって、能力の表現ではないと言います。実現した可能性とそこから想像可能な過去から切り離された過去、純粋過去こそが能力の時間なのだと。純粋過去は現在とは似つかぬ顔をし、根本的に想像を超えているのであると。
◆誰でもない誰かになる、何もしないでいる能力
才能とは別の意味での、誰もが分かち合う能力とは、何もしないでいることだったのだと、アガンベンは喜びます。たとえば、労働者のゼネラルストライキは、たんなる労働の拒否ではなく、人間のポテンシャリティの存在を明らかにしているのだし、絶滅収容所で衣服も社会的地位も奪われて剥き出しになった人たちは、何者かであることを剥ぎ取られているがゆえに、きわめて人間的なのだと言います。バートルビーの労働の拒否は、この人間の根本的な無能さを表現している、というのがアガンベンの考えです。人間を定義するとしたら、人間には他の動物に比べて何々ができる(話せる、道具が使える)という区別ではなくて、何もできないこと・無能さ(語ることができない等)こそが人間を区別しているのだと。
何もしないことで開ける純粋過去は、現在(可能性)とは似ても似つかぬ姿をしています。現在の似姿とはまったく違う、純粋過去たる能力は、根本的に私たちの想像を超えた姿をしています。そして、アガンベンによると、それは他者や世界に向けて人間が変化する能力そのものなのです。何もしないという待機状態にあって、あれでもなくこれでもないという未決定の状態に置かれること、他者のために自分を空っぽにすること。自らの中にある物言わぬ子供にアクセスすること。
アガンベンは、何者かであることは、コミュニケーションにおいては重要ではない、と言っています。能力(地位、身分、社会的ポジション)において人はコミュニケーションするのではないと。そうではなくて、何者でもないという無能さが、自分を他者に開いて変わっていく、コミュニケーションの核心にあるのだと述べます。アガンベンのコミュニケーションは、この意味で、恋人たちのコミュニケーション、狂気のコミュニケーションと見まがうばかりです。中身のない人間になることが最も人間的なコミュニケーションなのだと。
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