Syrup16gについて①
好きな音楽について書く。
僕がそのバンドの曲を最初に聞いたのは大学生のときだった。
「delayed」と名づけられたそのアルバムのジャケットには夜の空を飛ぶ飛行機と、眼下に見下ろす街の灯りが眩しく写っていた。
初めて聞いたときは、綺麗なメロディだな、ということを思ったのを覚えている。
一聴してすぐ嵌まったわけではない。なのにずっと聞いていた。けして耳に心地いいメロディばかりではなく、不安になるような不協和音も混じったメロディと、ざらざらとした暗く、陰鬱な歌詞。
まるで、遅れて効く毒のように、気付けば全身に回っていたのだと思う。
syrup16g
奇妙な名前を持つそのバンドは、それからずっと僕にって特別な意味を持つバンドとなった。
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世の中は明るく楽しい人物が好かれやすいらしい。当たり前だ。誰が暗くて下ばかり向いているような人間を好きになるだろうか。
世間の価値観でいえば、ポジティブは素晴らしく、ネガディブは悪いこと。
前向きな思考をすべきで、後ろ向きは進歩がない証拠。
生きることは素晴らしく、人は誰かに優しく出来て、希望にあふれているべき。
それは一応、今の世の中の建前だ。あるいはハリウッド映画の、エンターテイメントの、ポップソングの建前だ。
でも、感情ってそれだけじゃないだろ?
「君の心の価値は薄い」と歌ったsyrup16gが、ある種の人たちに熱狂的に支持され、またはある種の人たちに忌避された理由もそこにあると、僕は思う。
明日を落としても 誰も拾ってくれないよ (明日を落としても)
土曜日なんて来るわけない (土曜日)
素敵な未来なんてもんは
初めからねぇだろう (末期症状)
空はこの上 天国はその上
そんなの信じないね (イマジン)
あるいは身も蓋もない自分自身。
最終回のドラマでぼろぼろに泣いた
思ってるより俺は 単純なようだ (遊体離脱)
多分楽したいのです
これからもしたいのです
誰よりもしたいのです
惜しみなくしたいのです (パッチワーク)
搾り出すように、歌われる言葉。
希望は誰かの手だ 俺はもっていない (愛と理非道)
作詞・作曲を手がけるのはvoそしてgtの五十嵐隆。
「小学5年で人生諦めた」「高校にあがってからはもう気分は完全に隠居」と語る五十嵐が生み出す音楽には、良くも悪くも華があり、そして毒があった。
そんな彼もたまに希望の歌を書くことがある。しかしよく聞くと、”希望”を歌うのではなく、”希望を求める自分”を歌にしているのが分かる。
遊びに来たなら話しよう
いつものみたいな発想の
少しはいなよ 長居していきなよ
近くに来たならノックしてよ (パレード)
どんな想いも 必ず私は胸に刻むから
遠ざかっても どんな時でも いつまでも (My Song)
喧騒も待ちぼうけの日々も
後ろ側でそっと見守っている
明日に変わる 意味を (翌日)
武道館でのラストライブ、アンコールで”翌日”を演奏する前に五十嵐が語ったことがある。
「明日は来ないね・・・。終わってしまうね・・・
と、さっきひっこんだ時思ったんですけど。
playerから、次の日が見える歌を一杯書いたので、
ぜひ、気が向いたら聞いてやってください。
じゃあ・・・これも、明日を書いた曲です」
そしてベルが鳴り響くようなギターのイントロと共に始まった”翌日”。
僕はそのときその場にいて、そしてそのMCを聞いて、イントロを聞いて、「諦めない方が奇跡にもっと、近づく様に」と歌う五十嵐を見て、
初めてsyrup16gのことが分かった気がした。
何で気付かなかったんだろう。
「明日を落としても」も「Reborn」も「翌日」も、その他の曲も
未来を求めて、でも手に入るとは限らなくて、だからこそ必死にあがいて手を伸ばす曲なんだと。
なんで僕がsyrup16gを聞き続けてきたか、暗く陰鬱な歌ばかりの曲を聞いて安心した気持ちになったのか、分かった気がした。
五十嵐は、syrup16gは、希望も未来も、”すぐそこにある”なんて簡単に歌うことが出来ず、どこまでも音楽に対して正直であろうとしたんだな、と
そのとき思ったのを覚えてる。
だからこその解散だったのか。自分たちと、その音楽に対して誠実であろうとするための解散であったのか、と。
syrup16gは、さる2008年3月1日に解散しました。
それは、半分予想された軌跡であり、そして望まれなかった結果でしたが。
[syrup16g]