長女の誕生日の日に――SHOGO's Words No.27「Happy Birthday Song」
ポチです。
いかがお過ごしでしょうか?
今日のカテゴリーは、一応「浜田省吾」にしていますが、実は私の家族のことを書きます。少し長いエントリーになりますが、お付き合いください。
11月29日、今日は長女の誕生日です。
あの日は、本当に寒い一日で、当時住んでいた山口市にその年の初雪が降った日でした。
仕事を抜け出し、バイクで病院に駆けつけたことを昨日のことのように思い出します。
わが家では、癌が再発し、抗がん剤治療を受けていて、けっして体調がいいとはいえないカミさんに代わって、長女が家事一切を引き受けてがんばってくれています。
その彼女のことを書きます。
私の転勤で、長女は、山口県の田舎の無認可保育園から、いきなり東京の小学校に入学しました。さらに、世田谷区から足立区への転居に伴い、転校。そして、5年生の最後の3ヶ月と6年生の1年間は、またまた私の転勤で、宇部市の小学校に通いました。
中学校進学時には、宇部市内の現在の家に転居したため、小学校時の友人のまったくいない中学校に入学。
本当に親の都合で、かわいそうなことをしたと思っています。
高校1年の夏休み明けから学校に行かなくなり、そして、学校をやめてしまいました。
本人と話すと、部活の先輩が自分をにらむ、怖いというのです。一方、学校で先生の話を聞くと「そんなことはないと思う」とのことでした。
それから、荒れた日々が続きました。
部屋に閉じこもって出てこない。
自傷行為を繰り返す。
まだ小さかった妹や弟をいじめる・・・・・・・。
そんな日々が1年くらい続いたでしょうか。ある日、私たち夫婦に対し、娘が何かをぶつけるように叫びました。
「お母さんもお父さんも何もわかっていない!」と・・・。
娘が東京時代の小学校4年生の時にいじめにあっていたことをそのとき初めて知りました。
ある時など、跳び箱のなかに閉じ込められたりもしたそうです。
私たち夫婦は、そんなことはまったく知りませんでした。
私は、東京時代は、出張が多く、全国を飛び回っていました。カミさんは、看護婦をしながら、保育園に通う2人の妹や弟の世話に明け暮れていました。
そんな私たちに気遣ったのでしょう。彼女は、いじめをうけていることなどおくびにも出しませんでした。
しかし、それはずっと彼女の大きな心の傷になっていたのです。
あとになって気づいたことですが、小学校時代のいじめ以降、彼女は、いつも人の目を気にし、ビクビクしながら生きてきたのだと思います。「部活の先輩がにらむ」ということも、その先輩にとっては普通に見ただけだったのかもしれません。しかし、彼女には、それが恐怖だったのです。
そして、高校一年のときに私が投げかけた彼女への言葉。
「お前はどんどん腐っていってるんじゃないのか?」
仕事の忙しさを理由に、子どもたちの勉強などほとんどみたことのなかった私でしたが、それでも、カミさんに言われ、時々は勉強をみていました。
当時の私の持論は、「数学は他の学問とは質的に違って大事。数学は論理学であり、ものを考える力を養う学問」というもので、異常に数学を重視していました。
自分としては、随分丁寧に教えているつもりだったのですが、まじめに考えて数学にとりくもうとしない彼女に、私は切れてしまいました。
そして、彼女に投げかけたのが先の言葉です。
言い訳ですが、自分としては、彼女を激励するつもりだったのだと思います。
でも、本当にひどい言葉です。思い出すたびにひどい自己嫌悪に陥ってしまいます。
彼女は、叫びました。
「お父さんの言葉で私がどれだけ傷ついたかわかるか!」
恥ずかしながら、彼女にそう言われるまで、自分がその言葉をはいたことすら覚えていませんでした。
激しいショックをうけました。
自分がいかにダメな父親であるかを思い知らされました。
その後もしばらく、自傷行為やものを壊したりということが続きました。
そして、決断しました。
カミさんと二人で、評判の医者がいるという岡山県の精神病院まで出かけ、相談しました。
私たち夫婦が自分のことを真剣に考えてくれているということがわかったからでしょうか。それを境に彼女の私たちに対する攻撃的な態度も少しずつ変わってきたと思います。
岡山の病院では、通院するにも入院するにもあまりにも遠いので、近くの病院を紹介しようということになって、福岡県の精神病院を紹介してもらいました(けっして近くはないのですが、山口県内にその病院が紹介できるような病院がなかったのです)。
彼女に、そのことを説明し、「行ってみようよ」と話しました。彼女から、「行ってみる」との返事がもらえたときは、夫婦でホッとしました。
福岡県の病院を受診した初日。
比較的若い男性のドクターでした。なんとなく「うまくいきそうだ」と思った矢先でした。ドクターの一言に反応し、彼女は半狂乱になって病院から駆け出していってしまいました。
それから約1年、時には嫌がる彼女を励ましながら、3週間に一度の割合で受診を続けました。最後の頃は、彼女もそのドクターを信頼していたような気がします。
私は、仕事を1ヶ月間休職し、一日中、娘といっしょにすごしました。その後は、カミさんが休職しました。
もちろん、私が彼女にしてやれることは何もありません。何か話してくれるわけでもありません。ただ、娘の傍にい続けることが大事だと思ったのです。
病院を受診したある日、ドクターから、私たち夫婦に言われた言葉は衝撃的でした。
「境界型の分裂症(今で言う統合失調症)だと思います。うつ病の場合は、今ではいい薬も出てますので、必ず治ると言えるのですが、分裂症はそうは言えません。快方に向かう場合もありますし、そうでない場合もあります。何とも言えません」
帰りの車の中ではものを言う気力もありませんでした。
その後、県内の病院に通うようになったのですが、そこもやめ、今は病院にはかかっていません。一応、薬がなくても過ごせるようになりました。
何度か、バイトに行ったこともあるのですが、どれも人間関係のプレッシャーに押しつぶされて長くは続きませんでした。
こんなこともありました。
ある雨の日、彼女は、カミさんと買物に出かけていました。3時からバイトが入っていたのですが、彼女はその時間が過ぎるまですっかり忘れていたのです。彼女は半狂乱になり、カミさんが目を離した隙に、雨のなか、姿を消してしまいました。
カミさんが必死になって探したのですがみつかりません。
そうこうしているうちに、消防署から娘を保護しているとの連絡がありました。雨の中、路上に倒れているのを通りがかりの人がみつけて119番してくれたそうです。
カミさんが駆けつけてみると、彼女は、恐怖に顔を引きつらせて、「家には帰らない」と言い、しばらくして落ち着くまで救急車の中で過ごしたそうです。
仕事だったことに気付いた時点で、バイト先には体調が悪いので休むという連絡はしていたのですが、なかば無断でバイトを欠勤したことで、「みんなが自分をどう見るだろうか」という不安が彼女を襲っていたのではないでしょうか。それは、たぶん彼女にとっては、「恐怖」とも言えるものだったのでしょう。
彼女は、日常生活に何の支障もありません。普段は、人間関係をつくるのが下手なだけの普通の若い女性です。
「大学に行きたい」と独学で一生懸命勉強して大検を受検。一発で合格をした頑張り屋さんでもあります。
しかし、何か、彼女の心を棘刺すものが生じた時、突如として精神的に不安定になります。
それは、彼女の未来を左右する小さくない存在です。
自らの責任で彼女をそうしてしまったことを、日常生活のなかで、ついつい忘れてしまう自分がいます。
今日の彼女の誕生日に、この文章を書くことで、痛苦の反省を新たにし、一生、彼女を守っていくことを自らに誓おうと思います。
「子どもは親を映す鏡だ」とよく言います。本当にそのとおりだと思います。
自分の父親としてのダメさ加減にうんざりします。
彼女が自らの身を犠牲にして、私を少しだけまともな父親にしてくれたのだと思います。
・・・・・・・・・・・・。
計り知れない犠牲のうえにですが・・・・。
今、母親を思い、「自分がお母さんを支えなければ」と、必死にがんばっている彼女に頭が下がる思いです。
そんな彼女に、「誕生日おめでとう」の言葉とともに、この歌を贈ります。
歌詞の前半部分は、わが家の実態とはかけ離れているのですが、後半部分の思いはそのままです。
浜田省吾「Happy Birthday Song」です。
Happy Birthday Song
パパとママにありがとう
二人の努力実って
今、君はここにいる
Happy birthday to you
ケーキの上にキャンドル
歳の数だけ灯して
祈ろう きみの幸せ
Happy biryhday to you
世界にひとつの尊い命
かけがえの無い人
明日は昨日よりも
もっといい日になるだろう
そう信じて生きていこう
Happy birthday to you
動画は、浜田さんのコンサートツアー「ON THE ROAD 2005」、さいたまアリーナでのリハーサル風景です。
なお、この歌はCDにもなっていない曲なので、歌詞紹介のサイトに載っていません。それで、今回はテキストで紹介します。すみません。著作権上問題があるというのは重々わかっているのですが・・・・。
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