PKOを緊急に再定義しろ
中谷防衛大臣が安定して良かったのに、安倍さんはなんで防衛大臣をよりによって稲田朋美氏に替えたのか、今でも解せません。口先女のレンホーや、性根の悪い辻元キヨミにいいようにいたぶられて、安倍さんに駆け付け警護までされるようでは、スーダンなど守れんでしょう。
せめて、佐世保市のゴロツキ組合長くらいは、蹴飛ばしてほしいもんである。、
きょうも、(農と島のありんくりん)を読んでPKOが理解できた。
農と島のありんくりん
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/
移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する
野党は稲田防衛相の首が欲しいそうです。
http://www.sankei.com/politics/news/170216/plt1702160004-n1.html
「
民進、共産、自由、社民の4野党は15日の国対委員長会談で、南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報問題への対応が不十分だとして、稲田朋美防衛相の辞任を求める方針で一致した。」(産経2月16日)
率直に言って、稲田氏の防衛大臣としての能力はそうとうにナニです。
答弁もさることながら、この人は安全保障そのものが分かっているのかなという危惧すら感じます。
石破さんについて特訓するか、北朝鮮が緊張しているこの時期でなければ解任してほしいくらいですが、今の野党の政局欲しさの流れでは困ります。
問題の本質はなんなのでしょうか。日誌から「戦闘」と書かれた部分を廃棄処分したことでしょうか。
そんなことよくないに決まっています。後の検証ができなくなるし、政権の恣意で廃棄していい類のものではありません。
なぜ廃棄したのかといえば、カンボジア内戦の後に派遣された初めのPKOに合わせて「PKO5原則」を作ってしまって、いまや誰の目にもPKOは大きく性格を変化させているからです。
まずこのPKO5原則を押さえておきます。
PKO政策Q&A | 外務省 - Ministry of Foreign Affairs of Japan
①紛争当事者間で停戦合意が成立していること
②当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOおよび日本の参加に同意していること
③中立的立場を厳守すること
④上記の基本方針のいずれかが満たされない場合には部隊を撤収できること
⑤武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること
はいこのとおりです。いかに非現実的かお分かりになりましたか。
今の大規模武力衝突が起きているスーダンで、「停戦合意」がなされていますか?
野党ならずとも、南スーダンの「停戦合意」はとうに崩壊している見るべきです。
ですから、当該地域で住民の保護を真剣に遂行しようとすると、紛争の当事者になってしまいます。
いまや国連PKOは、かつてのような停戦監視といった中立性を喪失して、国際人権を保護しようとすれば必ず紛争の一方の当事者になるというジレンマに苦しんでいます。
今のPKOとは「平和強制」のことであり、すなわちかつて言われたPKF(peacekeeping force)平和維持部隊(軍)に変化しています。
ですから、当然「武器の使用は最小限に」うんぬんなどは机上の空語です。そういう縛りをかけたら自衛隊員に死傷者が続出します。
この状況を野党は当然のこととして、政府すら分かっているとは思えません。
皮肉にも唯一このPKOの変化をかなり前から指摘してきたのは、日本共産党だけです。
ただし共産党の既にPKO5原則は通用しないという批判自体は正しいのですが、彼らはいつもどおり分析は正し
いが、誤った結論を出します。
この場合、「協力法違反の政府自民党打倒するぞぉ!9条を守れぇ!」となってしまうのが残念です。
PKOが変質したきっかけは、1994年のルワンダの80万から100万人が殺害された虐殺でした。
ルワンダ虐殺 - Wikipedia
http://hkennedy.hatenablog.com/entry/2016/03/08/15...
上の写真はそのときに撮られたものです。アップするのをためらいましたが、やはりする事にします。
このような虐殺・民族浄化を指をくわえて傍観してよいのでしょうか。
このルアンダにおいて、国連は徹底的に無力でした。
中立性の保持が縛りとなって、PKOの目の前で停戦が破られ住民が虐殺され続けました。
当時の国連は「紛争の当事者」になることを恐れて撤退します。
そして残された100万の住民は見殺しにされたのです。
この苦い反省から10年間以上の時間をかけて、今までの双方の武力衝突を分けて停戦を維持するという考え方から、積極的に住民を「保護する責任」という考え方が生れました。
かつてはカンボジアPKOが典型ですが、政治交渉の末に停戦したところで、中立的機関の国連が第三者としてニュートラルな武力を入れ、その状態を長続きさせ、和平に繋げる、という考え方でした。
この古典的PKOの際に生れたのが、日本のPKO5原則であり、その法的根拠がPKO協力法でした。
国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律 - Wikipedia
野党がよく「法律違反だ」と騒いでいるのは、この協力法違反だといいたいわけです。
この古典的PKOが成立する背景には、米ソ冷戦構造がありました。
いまのように米ソの重しが取れてそこかしこで噴出する民族対立や宗教紛争、果てはISのような国家を名乗る凶悪なテロリストの登場など予想すらしていなかったのでした。
ですから、PKOも受け入れ国があり、戦闘状態が終了した後の停戦監視といった範疇で考えられていたわけです。
ここが今と決定的に時代背景が異なる点です。
では、今なにもかも違ってしまい民族・宗教紛争が頻発する世界においてはPKOは不要になったのでしょうか?
いいえ、やはり今でも必要です。
ただし、PKOの重点はかつてのような停戦監視から大きく「住民保護」へとスライドしました。
もう少し考えてみましょう。だとしてもこの「住民保護」は本来、国際社会の仕事なのでしょうか?ここで私は「住民」という表現をしました。「国民」ではありません。
なぜなら、往々にして現代のPKOは建て前上は受け入れ国があっても、実態は国と呼べる仕組みがなきに等しいからです。
「住民の保護」は、主権国家の任務のイロハのイで、それができていないというのは既に5原則の②の当該受け入れ国が崩壊国家になってしまっているということです。
「参加に同意」も何も、事実上政府は機能していないのです。
そんな無政府的地域において、国家に代わって、「住民の保護」をしようとすれば、住民を守るための戦闘を覚悟せねばなりません。
好むと好まざるとに関わらず、PKOは「戦闘の当事者」となります。
では、こんなPKO部隊も傷つき、危険なものなど止めて、古典的タイプのPKOに戻ったらいいのでしょうか。
http://www.huffingtonpost.jp/kanta-hara/child-sold... コンゴ内戦の少女兵士
そうしたらどうなるのかという実例が、コンゴ民主共和国にあります。
コンゴ民主共和国 - Wikipedia
国連は居ましたが、眼の前でこの20年の間に内戦において540万人が死んでいます。
現在の南スーダンはその隣国でもうひとつの中央アフリカ共和国は、このコンゴの悲劇の拡大現象です。
http://www.sekiyu.net/page/the%20point/the%20point...
私は国際社会は、この新タイプのPKOを遂行し続けねばならないと思っています。
ただし、日本のような9条の縛りかあり、かつ停戦監視や兵站・工兵ていどの仕事しか担うことのできない自衛隊には出番はありません。
かけつけ警護などという国際警察活動のイロハのイを今頃新法を作って出来るようになったと大騒ぎする国にやるべきことは、スーダンにはないのです。
これは自衛隊のみならず、他の先進国も同様で、スーダンから一斉に撤収しています。
それが正解です。撤収してよいのです。
しかし、先進国部隊が撤収した後も、南スーダンPKOオペレーションは継続されます。
では誰が替わって遂行するのでしょうか。
いい悪いは別にして、PKO部隊の主力は伝統的に開発途上国でした。
開発途上国は財政的に貧弱なために、一定規模の軍隊を維持するために余剰の部隊を国連に貸し出して、そのことによって外貨稼ぎをして軍隊を維持してきました。
自衛隊はスーダンから撤収し、他の先進国と同様の非軍事的支援活動に戻るべきです。これは当然PKOオペレーション総体からの離脱を意味しません。
私はこのまま古典的PKOと言いくるめたままでやり続けるのは危険だ、いったん仕切り直せと言っているだけです。
そしていまや古色蒼然となったPKO5原則と協力法を改正し、あらたな原則を再定義すべき時期です。
「稲田氏の首をとるぞ、首相は辞任すると言ったぞ」という、涙がでるほど野党のセコイ政局観で、PKOを語るのは止めるべきです。
繰り返しますが、今必要なことはPKOそのものをどう再定義するかです。しかも緊急に。
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