『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第一章「SF篇」
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「くだらん奴がくだらんということは、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんということは大変面白いということでしょう。」
他人が作ったものをくだらないとかつまらないと云うのは勇気がいる。自分がくだらん奴でつまらん奴だと白状するようなものだからだ。
私はこれまで、たびたび『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の感想を聞かれながら、この作品をきちんと取り上げられずにいた。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』のことが判らなかったからだ。
判らないとつまらないは違う。判らなくても面白い作品はいくらでもあるし、判らないけど凄いと感じる作品もいくらでもある。
けれども本作は、いったい何が描かれているのか、作り手は何をしたいのか、何を考えてこうしているのかサッパリ判らなくて、その結果、共感できず、楽しめず、惹かれることがないままでいた。それは「つまらない」にとても近い。
つまらないと感じる作品は少なくない。しかし、つまらないならつまらないなりに理解して、なぜつまらないと感じるのか、共感したり楽しんだり惹かれたりすることを何が妨げているのか、たいていは判るものだ。その原因は作品の側にあったり、自分の側にあったりする。ときには面白いのに好きになれないことも、面白いかどうかは脇に置いて肯定的に受け止めることもある。それもこれも、自分なりに作品を理解すればこそだ。
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表面的なことを取り上げて、文句をつけるくらいはできよう。しかし、世の中には出来が悪くてくだらないけど面白くて好きになってしまう作品だってあるのだから、表面的にあそこが悪い、ここが悪いと云ってみても詮ない気がした。
世評を見るに、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は賛否両論のようだ。もちろんどんな作品だって、100%の人に支持されたり100%の人に否定されたりすることはないだろう。『宇宙戦艦ヤマト2199』だって肯定する人もいれば否定する人もいた。ただ、2199と2202では様子が違うように感じている。
卑近な例で恐縮だが、『宇宙戦艦ヤマト2199』が公開されていた頃、私の友人たちは2199の話題で持ちきりだった。みんな、2199を観られる喜びに興奮し、大絶賛していた。仲間うちには、私のように第1テレビシリーズがいいという者もいれば、ヤマトIIIがお気に入りという者もいて、ヤマトへの思いは様々だったが、こと2199に関しては口を揃えて褒めそやした。
ところが2202の公開時は違った。どこにガッカリしたとか、どんなにガッカリしたとか、そんな会話が止まらなかった。それはそれで盛り上がったけれど。
私の身の回りでは否定的な意見が圧倒的だったとはいえ、ネット上では2202に肯定的な意見も見つけられる。こうした意見の違いはなぜ生まれるのだろうか。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の最終回を鑑賞し、しばらく時間を置いた後、私はようやく自分なりの受け止め方を見出した気がした。理解したというのはおこがましいが、自分なりに腑に落ちた気がしたのである。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とは何だったのか。なぜ2199に歓喜した人が2202には否定的なのか。2202に否定的な人がいる一方で肯定する人もいる、その分岐点はなんなのか。
これまでの記事と重複するところもあるけれど、思うところを綴ってみたい。
『宇宙戦艦ヤマト2199』に関する過去の記事は、こちらから参照願いたい。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に関連するこれまで記事は以下のとおり。
「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』対談 第二章までを巡って」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』の総括と『2202 愛の戦士たち』」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話」
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に関連するこれまで記事は以下のとおり。
「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』対談 第二章までを巡って」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』の総括と『2202 愛の戦士たち』」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話」
第一章「SF篇」
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』について考えることは、『宇宙戦艦ヤマト2199』について考えることでもある。2199のどんな要素に私は惹かれたのか、その要素は2202でどう扱われたのか。それを考えることで、2202の輪郭がはっきりしてくる。
そして『宇宙戦艦ヤマト2199』について考えることは、もちろん『宇宙戦艦ヤマト』について考えることでもある。『宇宙戦艦ヤマト』が好き、という想いから、すべては始まっているからだ。
■本流の中の本格
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日本の30分枠の連続テレビアニメが『鉄腕アトム』(1963年1月1日~1966年12月31日)から始まったことの影響だろう、テレビアニメはその草創期からSFアニメが多くを占めていた(まだ「SFアニメ」という言葉はなかったけれど)。豊田有恒氏は当時を振り返った著書において、アニメの本流はSFものだったと述べている。
たとえば『鉄腕アトム』にやや遅れて放映を開始した『エイトマン』(1963年11月7日~1964年12月31日)の脚本陣は、原作者でもある平井和正氏に加えて、半村良氏、豊田有恒氏、加納一朗氏、桂真佐喜(辻真先)氏と、後にSF作家・推理作家として大活躍する面々が顔を揃える。『スーパージェッター』(1965年1月7日~1966年1月20日)も、筒井康隆氏、眉村卓氏、加納一朗氏、半村良氏、豊田有恒氏、桂真佐喜(辻真先)氏、山村正夫氏といったそうそうたる顔ぶれだ。各氏の脚本をそのままアンソロジーにしても売れるのではないかと思う。
『宇宙エース』(1965年5月8日~1966年4月28日)でテレビアニメに参入したタツノコプロは、脚本の執筆をSF作家に頼みはしなかったものの、SF作家であり翻訳家でもある小隅黎氏に作品全般のSF考証を依頼することでSFとしての質を担保した。
おかげで『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年10月1日~1974年9月29日)にはヴァン・アレン帯を降下させて地球の環境を激変させるV2計画のような、子供にはなんのことやら判らないがとにかく凄さはビリビリ感じられる作戦が登場し、とても興奮させられた。私なんぞは長じてヴァン・アレン帯とは何かを調べることで、秘密結社ギャラクターが企んでいたことやガッチャマンたちがどうやって防いだのかをようやく理解し、その壮大さに打たれ、『ガッチャマン』に惚れ直したくらいだ。
小隅黎氏は、本名の「柴野拓美」でも同人誌『宇宙塵』の主宰者として(むしろこちらのほうが)よく知られており、また『サイボーグ009』の暗殺者編にはギルモア博士の親友コズミ博士として登場している。小隅黎氏こそは、アニメ作品におけるSF考証(SF設定)の先駆けとなった人物だ。
そんな風にSFアニメが連発される中でも、豊田有恒氏らのアイデアに基づいた『宇宙戦艦ヤマト』(1974年10月6日~1975年3月30日)は異彩を放つ存在だった。スーパーヒーローがいない、ロボットも出ない、怪獣(機械獣や鉄獣メカを含む)さえも出ない、秘密基地もなければ舞台が地球ですらない。SF小説では普通のこの設定が、テレビアニメでは極めて珍しかった。
地球全体がすでに放射性物質で汚染されている(アイザック・アシモフ著『宇宙の小石』等を彷彿とさせる)大掛かりな設定や、未知の異星文明からもたらされる高度な科学技術の情報といったアイデア(ジョン・ヴァーリイ著『へびつかい座ホットライン』のようなと書こうとして、ヤマトの発表のほうが先行していることに気がついた)のオンパレードは、SF作家豊田有恒氏の面目躍如たるものがある。
だからこそSFファンにも歓迎され、創設からずっと海外作品しか受賞していなかった星雲賞のメディア部門(映画演劇部門)を、日本の作品では初めて受賞したのだろう(1975年度の第6回に受賞)。
中には、『宇宙戦艦ヤマト』がSFとしていかほどのものかと云う意見もあるかもしれないが、少なくとも同作とその続編が70年代の日本のSFブームの一翼を担ったのは間違いない。
■SFアニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』
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なお、「SFとは何か」を考え出すとたいへんなことになりそうだから、ここでは長山靖生氏の著書『日本SF精神史』の一部を引用しておこう。同書の中で氏はSFを「科学的空想を加えることで改変された現実を描いたものとしたい。この『科学』のなかに、自然科学だけでなく、社会科学や人文科学(言語実験など)も含めるなら、およそ今日、SFと認識されている傾向のほとんどすべてをフォローできるだろう」と説明している。それはファンタジーや風刺物と境界を接しつつ、しかしそれらとは異なる燦然たる魅力を放つものだ。
『宇宙戦艦ヤマト2199』がSFらしさを追求していることは、様々な面から感じられた。
その一つが、スタッフに科学考証とSF考証を設けたことだろう。科学考証だけ、SF考証だけならともかく、科学考証とSF考証のそれぞれに専門家を配した作品はちょっと珍しいかもしれない。
『宇宙戦艦ヤマト2199』では、科学考証に(ヤマトを見たことがきっかけで天文学を志した)天文学者の半田利弘氏を、SF考証に『ガメラ2 レギオン襲来』等で知られる鹿野司氏を迎え、『宇宙戦艦ヤマト』に狂喜してから40年を経た大人でも納得できるようなしっかりした作り込みがなされていた。
「科学考証」はある分野に関して科学的に正確かどうかを指摘する役割だろうと察しがつく。SFが科学的空想を加えた作品であるのなら、「科学」に関する描写をしっかりすれば、それだけ「科学的空想」の切れ味も鋭くなるというものだ。
では、「SF考証(SF設定)」とは何をするのか。これについては、当の鹿野司氏が『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のSF考証を担当した際に説明している。
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基本的にはシナリオ会議に参加して、「こういう風にした方がいい」というアドバイスやアイデアを出したり、「ここはSF的にどうだろうか?」と意見を言うという感じですね。
(略)
『THE ORIGIN』に限らず、こうした作品はそもそもがフィクションであり、完全な絵空事であり、嘘なわけです。ただ、1から10まで全てを嘘で作ってしまうと、誰もリアリティを感じてくれません。そこで、こだわりを持って作品を作ろうとしている監督やプロデューサーが、作品にリアリティを出したいと思った場合は、いろんなところの考証を付けたいと思うわけです。
(略)
自分の場合、リアルな科学についてはわりと詳しいと思っています。そこで、完全なファンタジーの物語に対して、自分の知っている今の科学の延長上で説明できるようなことを付けたりすることで、何かを感じてくれる人がいるんじゃないかと思っているんです。だから、そうした現実的な科学に準じた考証をやって欲しいという監督さんがいれば、作品に参加させてもらうという感じですね。
旧作の『宇宙戦艦ヤマト』作中に七色星団というのが出てくるんですが、『ヤマト2199』では、地球側の名称としてタランチュラ星雲と呼ばれているんです。これには元ネタがありまして。このタランチュラ星雲というのは実在していて、『ヤマト2199』が制作される10年以上前にハッブル宇宙望遠鏡が七色に輝く美しい星団の写真を撮ったことで発見されたんです。そのニュースを聞いた時、まだ新しいヤマトの仕事があるとも決まってなかったんですが、「これは七色星団のネタに使える」と思ったんですね。そして、実際に『ヤマト2199』の仕事を請けた際には、このネタを使わせてもらいました。劇中ではたった2回くらいしか台詞として出て来ないんですが、その台詞を覚えていて、宇宙についての図鑑を観た時に連想して、興味を持ってくれる人がいるかもしれないなと。そういう形で、全ての人に理解してもらおうと思ってはいないですが、現実のアイデアをフィクションの中に盛り込んでいくことで、何かフックがかかるみたいに、いろんな方の琴線に触れる要素が込められるんじゃないかと考えて、SF考証をやっています。
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大マゼラン銀河の中にあるタランチュラ星雲は、まさに七色星団と呼ぶに相応しい存在だ。あの七色星団が実在するのかと思うとワクワクする。
しかも、『宇宙戦艦ヤマト2199』は科学的な正確さへの配慮ばかりではなく、ガミラスの言語を考案するほどのこだわりがあるかと思えば、時にはあえて現実味を損なってでもケレン味を効かせた演出があって大いに楽しい。時々挿入される小学生でも嘘と判る洒落っ気たっぷりの描写をニヤニヤ笑って見ていられるのは、他の描写がしっかりしているからだ。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とSF
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ところが、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第一章「嚆矢篇」は――というか第1話は、何だかおかしな始まり方だった。
どことも知れぬ宙域に集結した地球とガミラスの連合艦隊が、どことも知れぬ惑星を占拠したガトランティス艦隊と交戦する。そのさなか、ガトランティス艦隊の奥から巨大な十字架のような岩塊が出現。他の空母や駆逐艦をはるかに凌駕する大きさで、小惑星と呼びたいほどのこの物体はいったい何か。固唾を飲んで見守る中、岩塊は粉々に砕け散る。物体のほとんどはただの岩だったようで、中から出てきたのはやや大型の戦艦だった。
開始から10分もしないこの段階で、私はもう何が何やら判らずにいた。
劇中で「大戦艦」と呼ばれるとはいえ、出現したカラクルム級戦闘艦はヤマトやアンドロメダよりも大きいだけで、ガミラスのゼルグート級一等航宙戦闘艦やデウスーラII世に比べればむしろ小さい。単なるやや大型の戦闘艦が、なにゆえこんなにものものしく登場しなければならないのか。
しかも、なぜ岩石に包まれているのか。
『宇宙戦艦ヤマト』の原型となる豊田有恒氏の企画では、小惑星そのものを宇宙船にして宇宙を旅する案だった。小惑星をくり抜いて居住区画や動力部を設け、小惑星を構成する鉱物をエネルギーに変換して動力源にする。同時に、ただの小惑星に偽装して宇宙戦艦であることを隠し、敵の目を欺く設定だ。まことに豊田氏らしい、SF的な発想だ。
また、『ヤマトよ永遠に』では小惑星イカルスの中にヤマトが隠されていた。小惑星に偽装して宇宙戦艦であることを隠す豊田氏の初期のアイデアを受け継いだ設定だろう。
だから小惑星のような岩塊の中から戦艦が現れることそのものには、ヤマトファンはむしろ親しみがある。問題は、この艦隊戦のさなか、いったい何をやっているかだ。
岩塊に偽装したからといって、戦況が有利になるわけでもない。砕けた岩塊を使って(ヤマトのアステロイドリングのように)戦闘するわけでもない。科学的な理由づけも、SF的な発想も、全然感じられない。
そして『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のラストに登場した超巨大戦艦ならともかく、たかが大戦艦一隻にこのものものしさはなんなのだろうか。私にはさっぱり判らなかった。
加えて、偽装した岩塊を十字型に見せるために、大戦艦は艦首を「上」に、艦尾を「下」に向けた状態で航行していた。
宇宙に上下左右なんてないから、どちらの方角に艦のどの面を向けても構わないことではある。上下を意識するなんて、科学的にはまったくおかしい。ただ、地球の重力圏に住む視聴者と作り手が感覚を共有するために、艦橋がある面を「上」、反対側を「下」にした画にするのが宇宙物のSFアニメ一般に見られる暗黙の了解だ。たとえ科学的におかしくても、それを是正するところまでは求めませんよという、云うなれば受け手側から作り手側への救済だ。上下がない状況を描きつつ、視聴者が感覚的にも納得できる映像を作るのは、おそらく作り手にたいへんな負担を強いるだろうから(これをサラッとやってのけるジョージ・ルーカスは凄い)。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第1話の冒頭でも、すべての地球艦、ガミラス艦、ガトランティス艦は、「上下」を同じにした状態で描かれていた。なのに、大戦艦だけは艦首を「上」に、艦尾を「下」に向けた状態で出現した。観ている側からは、大戦艦が立ち上がっているように見えた。

――と思いきや、偽装を解いた大戦艦はアッという間に艦橋がある面を「上」に、反対側を「下」に、艦首を「前」に、艦尾を「後ろ」にして、上下の向きを他の艦と同じにして前進しはじめた。
なんだったのだろう、この登場の仕方は。視聴者が暗黙のうちに了解している不文律をわざわざ破っておきながら、何の説明もない。これまでの艦隊戦が科学的にはまったくおかしいことを受け手に思い出させ、あえてリアリティがないことを暴露しながら、そしらぬ顔で元の艦隊戦の描写に戻す意図が、私にはチンプンカンプンだった。

第2話では、さらに驚くことが待っていた。
地球連邦の新型艦、アンドロメダ級の二番艦から五番艦の進宙式で、四隻は一様に海水面に設けられたカタパルト上を加速して上空に飛び出している。『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』にも『宇宙戦艦ヤマト2』にもなかったカタパルトは、船の進水式で使う進水台と、宇宙に荷物を射出するマスドライバ―を引っかけたものであろうが、その形状がおかしいのだ。
アンドロメダ級の各艦が滑走するカタパルトは、水面に平行に伸びた後、急にカーブして水面とは垂直の方向へ伸びている。地表にいる人間から見て、真上の方向に宇宙艦を打ち上げるのだ。
マスドライバ―ならカーブさせて真上に打ち上げる必要はない。真っ直ぐ伸ばして宇宙艦が充分に加速できるようにすれば良いだけだ。
ヤマトやアンドロメダのみならず、ヤマト以前の「きりしま」でさえ大気圏内をふわふわ飛行できるのだから、アンドロメダ級の最新鋭艦が空を飛ぶのにカタパルトを要するはずがない。だから、このカタパルトは式典用の飾り程度のものであって、本当の意味でのマスドライバ―ではないのかもしれない。たぶんカタパルトに似せてるだけで、本当はどんな形状でどこを向いていても構わないのだ。
そう考えておきたいところだが、それでも宇宙戦艦ヤマトシリーズにおける宇宙艦が現代の化学ロケットのように真上に打ち上げられる絵は、23世紀の作中世界を200年後退させたかのようで異様な光景であった。
そしてなにより、あえてカタパルトをカーブさせるという発想が、私には受け入れがたかった。
なぜなら、アニメにおけるSF考証の道を拓いた小隅黎氏が、SF考証の仕事を振り返って後悔することとして挙げたのが、カーブしたカタパルトだからだ。

主人公らの乗るブルーアース号は、カタパルト上を加速して地球から飛び出し、衛星軌道で待機する光子ロケットとドッキングすることで宇宙航行が可能となる。小隅黎氏という知恵袋があればこその凝った設定だ。ブルーアース号の発射シーンは毎週のオープニングでも流れたから、ご記憶の方も多いだろう。このブルーアース号のカタパルトが、やはり途中から上に向かってカーブする形なのだ。
前述のとおり、マスドライバ―をカーブさせる必要はないから、小隅黎氏はこんな映像になるのを止められなかったことを悔やんだという。
マスドライバ―がカーブした絵になるかどうかなんて、脚本をチェックするだけでは判るまい。SF考証を担当することの多い堺三保、金子隆一、小林伸光の三氏は、「脚本の決定稿が絵コンテ化されてアフレコ台本になるまでの間にドンドン変わっていくので、コンテとアフレコ台本のチェックをさせてくださいと頼んでいる」そうだ。それでも小林氏は、『救命戦士ナノセイバー』で地球の軌道上わずか100キロのところを飛んでいる宇宙船の遥か向こうに地球が描かれるという大ポカを防げなかったという。
ともあれ小隅黎氏が明かな失敗例としてマスドライバ―の件を具体的に挙げたことが、私には強く印象づいていた。よもや『宇宙の騎士テッカマン』から40年以上を経た2017年になって、SFアニメでは古典的な失敗例といえるマスドライバ―のカーブを目にするとは思っていなかったので、私は驚いたのだ。
SFアニメが好きな御仁なら知っていてしかるべき失敗談だと思ったし、よしんば小隅氏のエピソードを知らなくてもマスドライバ―をデザインする過程でスタッフの誰かがおかしいと指摘するべきだと思ったし、マスドライバ―でないのならあまりにも無意味な構造物で、しかも宇宙戦艦ヤマトシリーズの世界観を台無しにしていると思った。
これでSFアニメといえるのだろうか。エンディングにはSF考証のクレジットがあったけれど、SF考証は機能しているのだろうか。
第一章「嚆矢篇」、すなわち第1話と第2話を早く観ようと特別上映の初日初回に駆けつけた私は、暗澹たる思いで劇場を後にしたのだった。

第2話においてたかが式典のために惑星表面でのワープを行ったのに、第6話で急にダメだと云われてもわけが判らない。ワープインは良くて、アウトはダメなのだろうか。そんな理屈があるだろうか。
それに「グラビティ・ダメージ」とは何なのだろう。米国テキサス州にあるマンガ・おもちゃの専門店のことだろうか。重力の影響を云っているようだが、では「重力の影響で」と語らないのはなぜだろうか。どうして波動エンジンが使えなくなるのだろうか。
このあたりから、真田さんらヤマトの乗組員たちの云っていることが私には判らなくなった。真田さんや徳川さんは、わけの判らないことをまくし立てて、あれができる、これができないと口走るばかり。自分たちだけ納得して事を進めるので、観ている側は置いてけぼりを食らった気分だ。2199のときはこんな風に感じたことはなかったのに、2202のセリフには終始違和感が付きまとった。

以上に述べた、第1話の大戦艦の登場と第2話のアンドロメダ級新型艦の進宙式の二点はともにメカに関することだが、長山靖生氏がSFの定義に関連して「自然科学だけでなく、社会科学や人文科学も含める」と書いているように、SFらしさはメカの描写だけで語るものではない。
いくつものSFアニメに関わっている高島雄哉氏は、SF考証についてこう語っている。
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SF考証は作品世界の法則そのものを決定する仕事です。たとえば年代設定は、その世界の科学力や社会基盤のレベルを決めるという意味で、SF設定の典型であり根幹であると言えるでしょう。登場人物の衣食住から思想まで、あるいは作品の世界観や物語の構造についても、SF考証はできるかぎり細部まで理解した上で、世界を設定しなければならないのです。
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高島氏のこの話は、「考証」だけでなく「設定」にも踏み込んだ説明だ。後に高島氏はみずからの仕事を「設定考証」と呼んでいる。
ともあれ、本作にはガトランティスという異星人が登場するから、地球とは異なる彼らの社会構造を描くことでSF的な魅力を発揮することもできたはずだ。
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2199でのガトランティスが、基幹艦隊が一万隻しかないガミラスの版図を侵すことができず、捕虜までとられていたこととの矛盾をおいておくとしても、250万隻の大戦艦を運用するのにいったい何億人の乗組員が必要になるのか、整備や補給を行う要員は何十億人になるのか、さらには彼らを養い、整備や補給のための機材、設備、物資を生産するための産業とそれに従事する人口はどれだけの規模になるのか、それを支える社会はどのような構造を強いられるのか。これらもまたSFとしては描いておきたい重要な点であろう。
ところが、2202は驚くほどガトランティスの社会を描かない。作品を観る側は、社会の一員として現実の世界を生きているというのに。2202は、受け手との接点を作るまいとしているかのようだ。
ガトランティスに関する描写といえば、ひと握りの支配者と、山のような艦艇の存在ばかり。しいていうなら、兵站も産業力も無視し、戦闘員と艦艇の数ばかりを重視して敗北した大日本帝国のような発想だ。2199がガミラスの街の描写を挿入し、軍隊を支える民間人や反体制派の市民まで描いて社会全体に目配りしたのとは対照的で、その世界観はあまりに薄い。
以前の記事で、2199におけるデスラーの入浴シーンが意味するものについて述べたことがある(「『宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘』 なぜデスラーは風呂に入るのか?」参照)。支配者層に関してだけでも生活の描写を挿入すれば、作品世界はずいぶんと奥行きを増すだろうに、2202にはそれもなかった。
各話のおかしく感じる点をこの調子で挙げていると切りがないのでもうやめておく。どの回もおかしな描写、おかしなセリフの連続で、見ているこちらの頭がおかしくなりそうだった。
もしかすると、劇中では言及されない、説得力に満ちた秘密の設定があったりするのかもしれない。けれども、それは観客/視聴者にとっては無と同じだ。
なにしろ、せっかくリメイクするのだから、今度こそは白色彗星ではなく豊田有恒氏の本来のアイデアである白色矮星に直すチャンスだったのに、デタラメもいいところの白色彗星が再び現れるのだから、本作をつくるに当たっては旧作の「いくらなんでも今見たらそれはないだろう」という点を正すつもりすらなかったのかもしれない。
ちなみに、SF作品に登場する宇宙艦隊はいくつもの惑星や恒星を運んでいることがある。惑星上でなければ実現不可能なほどの巨大な軍事施設を建設し、惑星ごと戦場に運んで艦隊の構成の一部にしたり、数個の恒星を持ってきて敵艦隊にぶつけることで相手を一掃したりするためだ。豊田氏が『宇宙戦艦ヤマト』の続編のアイデアを求められたときに、大きさは地球程度しかなくても質量は太陽ほどもある白色矮星を運搬し、その高重力で進路上のものを呑み込む敵を提案したのも、この流れにあるだろう。
ところが、恐るべき高密度の天体である矮星というものを理解しない西崎義展プロデューサーによって、白色矮星案は単なる氷や塵の集まりである彗星(ほうき星)に変えられてしまった。ガトランティスは高密度の矮星をも制御する超科学を有するはずだったのに、彗星の氷や塵に紛れて移動する弱そうな敵になってしまったのだ。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』がリメイクされると知ったとき、私はいくらなんでもいまさら「彗星」はないだろうと思った。だから第2話で真田さんが、迫りくる帝星ガトランティスを「未知のクエーサーだ」と説明し、「彗星」と呼ばなかったことに少しばかり安堵した。けれども、結局劇中では「白色彗星」という呼び方が定着してしまう(2202の敵の名称を「白色彗星」と「帝星ガトランティス」の二つに絞ったのは、シリーズ構成と脚本を担当した福井晴敏氏の発案であるという。一緒に脚本を担当した岡秀樹氏は、「「白色彗星」という言葉の響きはやはり大切じゃないですか。みんなの耳にすごくなじんでるわけで。それを捨てたらみんな怒るでしょ?」と云うのだが……)。
ほうき星の特徴である長い尾をあまり映さなかったのが、せめてものエクスキューズなのだろうか。

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この心情については、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』等で知られる押井守監督の次の言葉を引用すればお判りいただけるだろうか。
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僕は現実的なものには、興味があまりないんですよ。
SFが好きなのも一緒で、妄想できるものだから。日常的なドラマを作りたいと思ったこともない。結局、日常から何かしら飛躍していないと、僕としてはものをつくる動機が生まれない。
SFが僕をこうさせたのか、もともとこういう人間だからSFが好きなのかは分からない。とにかく、僕は人間にあまり興味がないんですよ。自分の人生も含めて、どこか他人事なんです。上の空で生きているってよく言われます。人類の運命とか存亡とか、そういうことには興味津々。でも人間の心的葛藤には全然興味がわかない。
SFにも文芸寄りのSFっていっぱいありますが、僕には「そんなSFだったら文芸作品を読めばいいじゃん」としか思えない。男女の関係だとか肉親の確執だとかって話は、聖書から延々と続く世界ですよ。やればやるほど分からなくなるに決まっている。
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■トークショーの夜
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小倉氏が本作に関わることになったのは、『機動戦士ガンダムUC』で付き合いのあった福井氏が声をかけたからだという。
トークショーはお二人の思い出話が中心で、いくつか印象的な発言があった。
小倉氏は福井氏と初めて会ったとき、ボールと紐を使って地球と月の距離を説明したという。福井氏は、地球と月の遠さを理解しておられなかったのだ。
なかなか理解しにくいところだから、そういう人は少なくないと思うが、私は、地球、月、そしてサイド3の位置関係を把握することが『機動戦士ガンダム』の世界を理解する上で重要なことだと考えていたから、ガンダムが好きで、創作を志すほどの人物が理解していなかったことには驚いた。
また、福井氏がSF考証に関連して「『できません』という人はいらないんです。やりたいストーリーや展開等があって、その説明をしてくれる人を求めているのであって、科学的にできないとか云って欲しいのではない」と語っていたのも印象的だった。福井氏はSF考証を、それはできませんと云う人、邪魔立てする人と捉えているのだろうか。
映画やテレビで、科学的にあり得ない描写に出食わすたび、私はなぜ誰も止めなかったんだと思ってしまう。宇宙服を着ずに宇宙遊泳するシーンなんぞを目にすると、受け手は間違いなく興醒めする。考証はそんな事態を防ぐ大事な働きなので、できないことをできないと云ってくれるのは重要なことだと思うのだが。
もちろん鹿野司氏の次の言葉が示すように、SF考証のプロが、ただ「できません」と云って終わりにすることはないだろう。
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自分の場合は「ここはこうなっているからやめてほしい」というような否定的な話はせず、逆に素直に考えるとうまく行かないような話でも、「それは実はこうなっているから正しい」というようにするのが好きなんです。脚本家やクリエイターの方々のアイデアはなるべく活かしてあげたい。多少無茶なことを書いていても、やりたいことが判れば「ここをこうすると本物っぽくなりますよね」とアドバイスするようにしています。
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2202のSF考証を担当した小倉氏も、福井氏の言を受けて当然のことながら「どうすればできるかを考える」とおっしゃっていた。
とはいえ、SF考証のアドバイスが聞き入れられるか、どう受け止められるかは、聞く側がどれだけ耳を傾けるかや、聞く側のSF的な下地の有無にもよるだろう。
その点、2199は素晴らしかった。作り手がSF好きであることが作品から滲み出ていて、毎回観るのが楽しみだった。
その具体例は多々あるが、筆頭はバラン星に関するエピソードだろう。
天の川銀河と大マゼラン銀河の中間に位置するバラン星には亜空間ゲート「ゲシュタムの門」が設けられ、銀河間を結ぶ広大なネットワークのハブになっている。これだけでもワクワクするほどスケールの大きなSF的発想だが、2199ではこのネットワークを利用してヤマトが旅の遅れを一気に取り戻すと同時に、ゲートを破壊してガミラス基幹艦隊をバラン星付近に足止めし、後にヤマト一隻でガミラス本星に打ち勝つ布石となる。加えて、ガミラスの大軍がヤマトに出し抜かれた根本には、バラン星がガス惑星であることを活かしたヤマトの機略があった。
SF的発想と科学的考察が、バラン星の登場する2199第18話はもちろんのこと、この後のストーリーにも見事に噛み合っており、私は膝を打ちたい気持ちだった。
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 1 [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/S/aplus-media/sota/87a0afdf-85da-488f-96df-8e58ed8f4a57._SL160_.jpg)
私は、福井氏の言葉を聞いて、だからわけの判らないセリフが多いのかとひとり納得した。
2202を観ていると、古代たちが無茶な作戦を決行するときや、何やら危機に見舞われたとき、真田さんらが早口で解説を始め、何か聞きなれない単語を連発することがよくあった。その解説は、劇場で一度鑑賞しただけでは聞き取るのも難しいぞんざいなものだった。
ときどき斉藤が「つまり○○ということか」などと細部を端折って云い替えたりしていたけれど、これがまたあまりに雑な説明で、ホントに真田さんはそんなことを云ってたのかと聞き返したくなるほどだった。脚本を書く人が元々考えていたのは斉藤が話した程度のことで、そこにもっともらしさを付け加えるため真田さんに難しいことを云わせたのではないかと思った。
真田さんの解説に本当に真実味を持たせたいなら、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズのワープ航法の解説シーンのように、受け手の腑に落ちるようにきちんと説明するべきだ。
あるいは、2199の第10話で異次元断層からの脱出方法を話し合うシーン。「なるほど。理論的には可能です。」という真田さんの言葉を受けて、技術科の新見薫が「波動砲はその射線上に強力な次元波動を発生させます。計算ではこの次元断層の位相境界面を狙えば、発生した干渉波で開口部が形成されるはずです」と述べ、干渉波で開口部が形成される模式図も示す。新見はゆっくりとした口調で話すから聞き取りにくさは感じないし、これを出されたらヤマトファンはぐうの音も出ない「波動」というキラーワードを中心に「位相」とか「境界面」といった波に関係する用語でセリフが構成されているから判りにくいとも思わない。模式図まであるおかげで、視覚的にも納得しやすい。架空の理論であってもこうして説明されれば、違和感は覚えないのだ。その上で、「しかし波動砲を撃てば、残存エネルギーをほとんど使ってしまうことになります」と付け加えるから、受け手にはヤマトがどういう危機に陥ったのかとてもよく判る。
けれども2202は真田さんや徳川さんの早口のセリフで済ませてばかりで、全般的に劇中できちんと原理を説明しようとする意思が感じられない。何も高度な理論を展開してくれというのではない。どうせフィクションなのだから、見せ方、聞かせ方、架空の用語と実在の用語のバランスでいくらでも印象を変えられるはずなのに、本作では独りよがりな言葉ばかりが連発されて、受け手としては煙に巻かれたようにしか思えない。ここには現実世界との地続き感がない――ギャップを埋める努力が感じられないのだ。
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 3 [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/S/aplus-media/sota/4d276239-2d31-4617-9c70-52c444e3f0da._SL160_.jpg)
第7話「光芒一閃!波動砲の輝き」において、ガトランティスの250万隻の大戦艦が人工太陽のエネルギーを使って地球を破壊しようとしたとき、観測していた西条未来が「人工太陽に多数のコロネホール発生。敵艦隊へのエネルギー流出が認められます」と報告していた。
私には「コロネホール」に聞こえたが、これはもちろん「コロナホール」であろう。人工太陽のエネルギーが大戦艦によって吸い取られ、コロナに温度の低い箇所ができたために「コロナホール」と呼んだのだ。「コロナホール」のような用語が挿入されるのは悪くない。あいにく早口で聞き取りにくいし、「コロネホール」か「コロナホール」か判然としないうちに先に進んでしまうので、ポカンとした人が多いと思うが。
わけの判らないことを云うのは真田さんに限らない。
たとえば第12話でズォーダー大帝は「相転移次元跳躍の準備に入れ」と命じていた。皆さんは「相転移次元跳躍」とは何か判るだろうか。「相転移」は熱力学でお馴染みだし「次元」も「跳躍」も一般的な言葉だけど、組み合わさって「相転移次元跳躍」になると、おそれながら私には何を云ってるのか判らない。第12話ではそれ以上「相転移次元跳躍」に言及しないから、受け手はすっかり置いてきぼりだ。
ようやく第18話になってサーベラーが「帝星ガトランティス、相転移次元跳躍!」と叫び、それとともにガトランティスが土星の傍に出現する。そのことから察するに、相転移次元跳躍とはワープやゲシュタムジャンプの類いらしい。だが、なまじっか日本語で「相転移次元跳躍」などと云われるものだから、この描写に相転移がどう関わるのか気になって仕方がない。考えても判らないし、考えているうちに話は進んでしまうしで、フラストレーションが募るばかりだ。こんなことならガトランティスジャンプとかズォーダー航法とか、現実にはない言葉ばかり使ってくれたほうがよっぽどいい。
実はきちんとした説明を用意したのだが、尺と内容のバランスが悪くて入れられなかったのだろうか。それとも、"やりたいストーリーや展開"が先行する中、せめてひと言挿入し、何か理屈っぽいことを示唆してSFらしさのアリバイ作りをすることだけを目論んだのだろうか。
第12話でひと言触れた言葉が、次に出てくるのが第18話というのもあんまりだが。
トークショーでは、現在進行中の『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に関する言及はなかった。
ただ、小倉信也氏と福井晴敏氏の仲が良いこと、お二人とも楽しくお仕事されているらしいことは伝わってきた。
それは何よりなことであるが、2202はSFとしてどうなんだろうと考える私の心は晴れなかった。
SFアニメの雄であった『宇宙戦艦ヤマト』、その魅力をさらに推し進めた『宇宙戦艦ヤマト2199』。なのに『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は後退している。これでは『宇宙戦艦ヤマト』のファンは、ましてや『宇宙戦艦ヤマト2199』のファンは楽しめない。
トークショーの会場を後にする私は、そんな風に考えていた。
もっとも、福井氏自身がインタビューに応えて「『ヤマト2202』に関しては、歴史やSFものではなく、「風刺もの」という捉え方をしています」と話しているのだから、そもそもSFとしての魅力を期待するものではなかったのかもしれない。
そして、やがて2202は驚くべき展開を見せることになる。
(つづく)
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第1話『西暦2202年・甦れ宇宙戦艦ヤマト』
第2話『緊迫・月面大使館に潜行せよ』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 麦人 千葉繁 てらそままさき 神谷浩史 田中理恵 久川綾 赤羽根健治 菅生隆之 神田沙也加
日本公開/2017年2月25日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
⇒comment
No title
ナドレックさん、はじめまして。
宇宙戦艦ヤマト2199のファンで、あちこちのサイトを回っているうちにこちらを見つけ、それ以来、2199に対する考察を読んではBDの全編を観賞する事10回以上、今では2199同様、こちらのサイトも大ファンになっております。
そんな中、いよいよ2202に対する考察の始まり、大きな期待と共に興奮しながら読ませていただきました。
その結果、今まで自分が感じていた2202に対する違和感、気持ち悪さがスッキリと晴れたようで、とても気持ち良く感じています。
まだ始まったばかりではありますが、早くも次が楽しみでたまりません。
いろいろな角度からの考察や分析を楽しみにしております。まさしく「慌てず、急いで、正確に」、読ませていただける事を願って、応援しております。
宇宙戦艦ヤマト2199のファンで、あちこちのサイトを回っているうちにこちらを見つけ、それ以来、2199に対する考察を読んではBDの全編を観賞する事10回以上、今では2199同様、こちらのサイトも大ファンになっております。
そんな中、いよいよ2202に対する考察の始まり、大きな期待と共に興奮しながら読ませていただきました。
その結果、今まで自分が感じていた2202に対する違和感、気持ち悪さがスッキリと晴れたようで、とても気持ち良く感じています。
まだ始まったばかりではありますが、早くも次が楽しみでたまりません。
いろいろな角度からの考察や分析を楽しみにしております。まさしく「慌てず、急いで、正確に」、読ませていただける事を願って、応援しております。
Re: No title
のんパパさん、はじめまして。
当ブログをご覧いただきありがとうございます。
2199を改めて観ると、いまさらながらその面白さに感じ入りますね。とにかく映像がかっこよくて、気持ちいい。よくこんな絵コンテを切れるなぁと感心することしきりです。
2202については、私なりにどう受け止めたかを綴っていきたいと思います。
トータルでは2199の記事全体よりも長くなるような気がしますが、お付き合いいただければ幸いです。
当ブログをご覧いただきありがとうございます。
2199を改めて観ると、いまさらながらその面白さに感じ入りますね。とにかく映像がかっこよくて、気持ちいい。よくこんな絵コンテを切れるなぁと感心することしきりです。
2202については、私なりにどう受け止めたかを綴っていきたいと思います。
トータルでは2199の記事全体よりも長くなるような気がしますが、お付き合いいただければ幸いです。
カタパルトについて
ナドレックさん、はじめまして。
ツイートで、記事が紹介されていて、こちらに辿り着きました。
早速記事を読ませて頂きました
2202の看過できない違和感の正体に気付けたような気がします。
小林靖子 さんの引用や、オカルトとゆうのは実に腑に落ちました。
補足みたいなものです、
2話のアンドロメダ・カタパルトの形状への疑問についてですが
羽原監督が副監督に
「宇宙船XL-5号」の発進シーンみたいに
と要望した事から、あのような形状のデザインになりました。
機動戦艦ナデシコのゲキガンガーと同質の物といえます。
羽原監督の原画マンの選択等にも、同様の傾向があり、
ヤマト愛とは無縁の
「アニメ制作の思い出つくり」が占めていると思われます
ツイートで、記事が紹介されていて、こちらに辿り着きました。
早速記事を読ませて頂きました
2202の看過できない違和感の正体に気付けたような気がします。
小林靖子 さんの引用や、オカルトとゆうのは実に腑に落ちました。
補足みたいなものです、
2話のアンドロメダ・カタパルトの形状への疑問についてですが
羽原監督が副監督に
「宇宙船XL-5号」の発進シーンみたいに
と要望した事から、あのような形状のデザインになりました。
機動戦艦ナデシコのゲキガンガーと同質の物といえます。
羽原監督の原画マンの選択等にも、同様の傾向があり、
ヤマト愛とは無縁の
「アニメ制作の思い出つくり」が占めていると思われます
No title
ナドレックさん、はじめまして。
2202・2話アンドロメダ・カタパルトについて補足させてください
羽原監督がこのシーンのデザインを発注する際、
「宇宙船XL-5号」みたいに
とした事から、あのような形状になりました。
2202・2話アンドロメダ・カタパルトについて補足させてください
羽原監督がこのシーンのデザインを発注する際、
「宇宙船XL-5号」みたいに
とした事から、あのような形状になりました。
小隅黎氏とカタパルト
はじめまして。小隅黎氏がカタパルト(マスドライバー)の設定について語っている話が気になるので読んでみたいのですが、出典は何でしょうか?
Re: カタパルトについて
silさん、こんにちは。
はじめまして!
記事をお読みいただきありがとうございます。
『宇宙船XL-5』は、半世紀以上も前の1962年の作品ですからね……(日本放映は1963年)。
カーブしたカタパルトを印象づけた作品というと、先行するのは1951年の『地球最後の日』ですね。ロケットで地球を脱出することを主眼にしたこの映画には、山の斜面をそのままカタパルトの台にした、壮大な発射装置が登場します。『宇宙船XL-5』のカタパルトも地形を利用していますから、『地球最後の日』の系譜に連なるものです。
『地球最後の日』や『宇宙船XL-5』では、巨大な建造物を人工的に作るのが難しいため、地形に沿ってカタパルトを這わせたことでカーブする形になっています。作品の作り手たちの中では、当時の建築物等の感覚に照らして、これがリアリティのある形状だと判断されたのでしょう。地形に関係なく海上に巨大なカタパルトを建造した2202とは、背景となる(作り手たちの)世界観がまったく異なりますね。
『宇宙船XL-5』を再現するのもいいですが、せめて半世紀以上前の『地球最後の日』や『宇宙船XL-5』からの進歩を見せて欲しいものです。あの懐かしい作品を、今の時代、今の俺ならどうするか、という問題意識と取り組みこそが、先人クリエイターへの真のリスペクトではないかと思います。
はじめまして!
記事をお読みいただきありがとうございます。
『宇宙船XL-5』は、半世紀以上も前の1962年の作品ですからね……(日本放映は1963年)。
カーブしたカタパルトを印象づけた作品というと、先行するのは1951年の『地球最後の日』ですね。ロケットで地球を脱出することを主眼にしたこの映画には、山の斜面をそのままカタパルトの台にした、壮大な発射装置が登場します。『宇宙船XL-5』のカタパルトも地形を利用していますから、『地球最後の日』の系譜に連なるものです。
『地球最後の日』や『宇宙船XL-5』では、巨大な建造物を人工的に作るのが難しいため、地形に沿ってカタパルトを這わせたことでカーブする形になっています。作品の作り手たちの中では、当時の建築物等の感覚に照らして、これがリアリティのある形状だと判断されたのでしょう。地形に関係なく海上に巨大なカタパルトを建造した2202とは、背景となる(作り手たちの)世界観がまったく異なりますね。
『宇宙船XL-5』を再現するのもいいですが、せめて半世紀以上前の『地球最後の日』や『宇宙船XL-5』からの進歩を見せて欲しいものです。あの懐かしい作品を、今の時代、今の俺ならどうするか、という問題意識と取り組みこそが、先人クリエイターへの真のリスペクトではないかと思います。
同意同意の限りです、、、
ナドレック様
以前だいぶ前にコメント差し上げたものです。
今回22φ2振り返りをUPされていたのをみつけ、
再びのコメントでございます。
まずは第一章、まさしく。
モヤモヤしていたものを、スッキリ言語に変換していただきました。
大戦艦で大騒ぎ、ありえないショックカノンの仰角、
薄っぺらい設定、舞台、背景、構成、演出、、、声優さんが哀れでした。
引き続き拝読してまいります。
以前だいぶ前にコメント差し上げたものです。
今回22φ2振り返りをUPされていたのをみつけ、
再びのコメントでございます。
まずは第一章、まさしく。
モヤモヤしていたものを、スッキリ言語に変換していただきました。
大戦艦で大騒ぎ、ありえないショックカノンの仰角、
薄っぺらい設定、舞台、背景、構成、演出、、、声優さんが哀れでした。
引き続き拝読してまいります。
Re: 小隅黎氏とカタパルト
Kさん、はじめまして。
出典は大事ですよね。出典はちゃんと書くべきなのですが、すみません、思い出せませんでした。
ランデヴー創刊号のタツノコSF特集のような気がしていたのですけど違いましたし、ファンタスティックTVコレクションの№1と№3に小隅黎氏は寄稿していますが『テッカマン』には触れていないし。70~80年代のアニメ誌かマンガ少年かムックのどれかだと思うのですが……。
小隅黎氏がこのような趣旨のことをおっしゃっていたことは確信があるものの、出典をはっきりさせられなくて申し訳ありません。
出典は大事ですよね。出典はちゃんと書くべきなのですが、すみません、思い出せませんでした。
ランデヴー創刊号のタツノコSF特集のような気がしていたのですけど違いましたし、ファンタスティックTVコレクションの№1と№3に小隅黎氏は寄稿していますが『テッカマン』には触れていないし。70~80年代のアニメ誌かマンガ少年かムックのどれかだと思うのですが……。
小隅黎氏がこのような趣旨のことをおっしゃっていたことは確信があるものの、出典をはっきりさせられなくて申し訳ありません。
Re: 同意同意の限りです、、、
勘助さん、こんにちは。
お読みいただきありがとうございます。
2202の第一章を見たときからずっとモヤモヤしていたのですが、一部とはいえ言語化したことでようやく整理がついた気がします。
どうぞ今後ともよろしくお願い致します。
お読みいただきありがとうございます。
2202の第一章を見たときからずっとモヤモヤしていたのですが、一部とはいえ言語化したことでようやく整理がついた気がします。
どうぞ今後ともよろしくお願い致します。