『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 面白さの秘密
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の痛快な面白さの根底にあるのも、虫がいい現実逃避である。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の原作は日本の小説『All You Need Is Kill』。"kill"というネガティブな言葉を避けるため原題は『Edge of Tomorrow』に変えられたが、邦題は日本での知名度を活かすためでもあろう、原作の題名をカタカナ表記にしている。
「このじつにユニークな"タイムループ"というコンセプトに僕は夢中になった」とダグ・リーマン監督は語る。
しかし、同じ時間を繰り返す「ループもの」と呼ばれる作品は数多い。たとえば、楽しい時間をいつまでも繰り返す『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や、絶望的な状況で戦いを繰り返す『魔法少女まどか☆マギカ』が挙げられよう。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』も後者と同様に、果てしない戦いを繰り返す物語だ。
本作の構造はシンプルだ。
トム・クルーズ演じるウィリアム・ケイジ少佐は、これまで広報しか担当しておらず戦闘能力ゼロ。地球外生物との戦いの最前線に送られて、あっさり戦死してしまう。気が付くと出撃の前日に戻っていた彼は、勝利を目指して戦いを繰り返す。
これだけのコンセプトだが、映画は滅法面白い。
「ループもの」の常として、主人公は前のループの経験を活かしながら少しずつ前進していく。彼はヘリがどこに墜ちるかも知っているし、敵がどこに出現するかも知っているから、同じ轍を踏まないように行動できるのだ。
中盤には、同じくトム・クルーズが主演した『マイノリティ・リポート』の主人公が予知能力者と逃避行する場面を思わせる展開もあり、ニヤリとさせられる。
元の時間に戻るきっかけは、主人公の死だ。彼が死ぬだけでなく、毎度々々ヒロインの死にも遭遇する戦いは苛烈きわまりない。
それでも本作が楽しいのは、凡人が優越感に浸れる物語になっているからだろう。
同じ時間を繰り返すリフレインプレイヤーである主人公は、これから起きることを知っている。失敗をしでかすことも、どう立ち回れば避けられるのかも知っている。
人はこれから何が起きるか判らないから将来を心配し、不安にさいなまれる。でも周りの人が知らない中で自分一人が知っていたら、こんないかした立場はない。気持ちのいいシチュエーションだろう。
もしも明日の試験問題に何が出題されるかを自分だけが知っていたらどうだろう。試験に合格するかどうか不安に思うことはない。みんなが出題されないところを勉強しているあいだに、自分は確実に試験に出る箇所に集中して勉強できる。みんなに出題内容を教えて上げれば、感謝されるかもしれない。
「ループもの」の根底には、みんなにとっては不確かな未来を自分だけが知っている優越感、自分だけはやり直せる優越感があると思う。
もちろん過酷な戦いの中で、本作の主人公は優越感を覚えるどころではない。
しかし、自分が戦いを終わらせねばという悲壮感を抱けるのも、リフレインプレイヤーの特権だ。
しかも何度でもやり直せるから、ますます未来を確かなものにできる。
試験に不合格だったら、また受ければいい。どんな難問でも、事前の勉強と受験とを何十回も繰り返せば解けないはずはない。
戦闘能力ゼロだった本作の主人公も、ループの中で特訓を続け、遂には誰もが一目置くほど優秀な兵士になる。
たとえ訓練しても、リセットで過去に戻ったら肉体的な習熟や技能は失われるんじゃないかとか、細かいことが気にならないではないが、ここで重要なのは他の人が一日を過ごすあいだに主人公が数十日分、いや数百日分の鍛錬を積み、他者を引き離せるということだ。
クリプトン星の生まれじゃなくても、超兵器を発明する天才じゃなくても、いかに凡人であろうとも他者の数百倍の鍛錬ができれば優れた成果を出せるはずだ。ループに巻き込まれたおかげで、特別なものを持たない凡人が他者より優位に立てるのだ。
加えて、この状況は自分が望んだものではない。自分はループ地獄に巻き込まれた被害者だ。
そんな被害者意識を抱きつつ、他者より圧倒的な優位に立てる物語なのだから、「ループもの」に人気があるのもうなずける。
大多数の観客は戦場に出たことなどないから、戦闘経験のない主人公に自分を重ねやすい。通常なら観客だけに許されるはずの神の視点を主人公が持っている点でも、観客は同化しやすい。そして「ループもの」の特性が<主人公=観客>に優越感を味わわせ、スリルとサスペンスとアクションが時間を忘れさせる。
多くの人が娯楽映画を観るのは、苦悩するためではない。
人は心地好い時を過ごし、爽快な気分を味わうために映画館へ足を運ぶ。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は、そんな私たちの望みを存分に叶えてくれる。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 [あ行]
監督/ダグ・リーマン(ダグ・ライマン)
出演/トム・クルーズ エミリー・ブラント ビル・パクストン ブレンダン・グリーソン ノア・テイラー キック・ガリー 羽田昌義
日本公開/2014年7月4日(2014年6月28日先行上映)
ジャンル/[SF] [アクション]
【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ダグ・リーマンダグ・ライマントム・クルーズエミリー・ブラントビル・パクストンブレンダン・グリーソンノア・テイラーキック・ガリー羽田昌義
『ホドロフスキーのDUNE』 影響は日本に及んだ!
私はそこに激しく興味をそそられた。
『エル・トポ』、『ホーリー・マウンテン』と、立て続けに強烈な映画を世に送り出したアレハンドロ・ホドロフスキーが、次に取り組んだSF超大作『DUNE』。未完成でありながら、これほど名高い映画も珍しいだろう。
1979年に『エイリアン』が公開されてからだと思う。奇抜なエイリアンのデザインで注目を集めたH・R・ギーガーが、かつて「別の映画」に携わっていたこと。『エイリアン』の原案者にして、ギーガーを『エイリアン』に引き込んだダン・オバノンも、「別の映画」を通してギーガーと知り合ったこと。SF映画関係の記事を読むと、そんなことが書いてあった。
ファンの興味はいやが上にも「別の映画」――『DUNE』に向けられよう。
その映画に関する情報は断片的でしかなかったが、それでも気違いじみたプロジェクトだったことは察せられた。キャストにもスタッフにも、冗談としか思えないような大物の名が並んでいた。本当にそんなプロジェクトが存在したとは、にわかに信じられなかった。
だが、いかに人々の興味が注がれようと、その実態は判らなかった。ホドロフスキーの『DUNE』は実在しないのだからとうぜんだ。
『ホドロフスキーのDUNE』は、その幻の作品に迫ったドキュメンタリーである。
フランク・パヴィッチ監督は、『DUNE』を監督するはずだったアレハンドロ・ホドロフスキーにインタビューし、膨大な絵コンテやデザイン画・イメージ画を集めて、実在しない映画を出現させようと試みる。
■七人の侍
前半の戦士を探す旅はスリリングだ。
ホドロフスキーは、未曽有の超大作を創るに相応しい「戦士」を探し、一人またひとりと仲間に加えていった。ホドロフスキーが語る「戦士」との出会いや仲間になる過程は、『七人の侍』を彷彿とさせる面白さだ。
ときにはダグラス・トランブルのように袂を分かつこともある。SF超大作を撮ろうというのに、『2001年宇宙の旅』を手がけたSFXの第一人者ダグラス・トランブルを参加させないなんて、狂った判断かもしれない。
しかし、トランブルと話したホドロフスキーは、一緒に戦う戦士としての共感を覚えなかった。
その代わり、たまたま観た『ダーク・スター』の特殊効果担当で、ほとんど無名のダン・オバノンを引き込んでしまうのだから愉快である。
こうして、アレハンドロ・ホドロフスキーが"Seven Samurai"と呼ぶ人々が集まった。
ホドロフスキーに「作りたいものを作れ」と云ってくれたプロデューサーのミシェル・セドゥー。
絵コンテとキャラクターデザインは不世出のマンガ家メビウスことジャン・ジロー。
皇帝の宮殿や宇宙船のデザインはSF小説のカバーアートで知られるクリス・フォス。
悪のハルコンネン側のデザインはH・R・ギーガー。
特撮はダン・オバノン。
音楽はピンク・フロイド。
今でこそ凄い面子だと思うけれど、当時は映画関連の実績がない者ばかりだから、意外な人選だったはずだ。
キャストも常軌を逸している。
皇帝シャッダム四世に芸術家のサルバドール・ダリ。ギーガーを紹介してくれた彼も"Seven Samurai"の一人だ。
イルーラン姫にはダリの愛人でモデルのアマンダ・リア。
悪役ハルコンネン男爵にオーソン・ウェルズ。もう映画には出たくないと云うのを無理矢理引っ張り出した。
悪の貴公子フェイド・ラウサにロックミュージシャンのミック・ジャガー。
主人公である救世主ポウルにホドロフスキーの息子ブロンティス。
ポウルの父レトにデヴィッド・キャラダイン。
演技経験の有無を気にしないキャスティングは、本人の個性を重視した結果だろう。
このスタッフ、キャストの名前をはじめて目にしたとき、私はこれがまともなプロジェクトだと思わなかった。
だが、『ホドロフスキーのDUNE』を観て、真面目も真面目、ホドロフスキーが全身全霊を捧げたプロジェクトであることを知った。
過去ホドロフスキーが作った『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』に「演技が上手い」「人気のある」俳優が出ていないのも、低予算のためではなかった。ホドロフスキーは俳優の演技力だの人気だのに興味なかったのだ。彼が求めたのは、役者本人の内面、魂から発するものだった。
本作が教母モヒアム役のグロリア・スワンソンら他のキャストを取り上げないのは、紹介するほど面白いエピソードがないからだろう。
デヴィッド・キャラダインなんて、ビタミンEをがぶ飲みしたエピソードだけのために紹介される。エピソードそのものよりも、嬉々として語るホドロフスキーが面白いのだ。
■『DUNE』とは、どんな映画か
戦士を集める旅を経て、本作はいよいよホドロフスキーの『DUNE』を見せてくれる。
ホドロフスキーの手による脚本もある。メビウスが描いた詳細な絵コンテもある。クリス・フォスやH・R・ギーガーのデザイン画もある。それらを組み合わせ、CGで動かすことで、観客は『DUNE』の冒頭から結末までを映像で味わえる。そこにホドロフスキーの熱のこもった語りが加わり、私たちは『DUNE』を堪能する。
ホドロフスキーと『DUNE』に惚れ込んだフランク・パヴィッチ監督の努力があればこそ、存在しない映画を楽しめるのだが、それは同時に映画の構想がすっかりできあがっていたことも示す。
『スター・ウォーズ』がエンターテインメント業界に与えた影響は計り知れないけれど、『スター・ウォーズ』に先んじて『DUNE』が発表されていたならば、間違いなく映画の歴史は変わっていただろう。
それはフランク・ハーバートの原作小説『デューン/砂の惑星』とはまったく違う。
ホドロフスキーの前作『ホーリー・マウンテン』が、ルネ・ドーマルの原作小説『類推の山』と全然違うように。『ホーリー・マウンテン』と『類推の山』には、山に登ることくらいしか共通点がなかった。
そもそもホドロフスキーは、『DUNE』の映画化を提案した時点で原作を読んでいない。友人が絶賛しているから取り上げたのだ。
ホドロフスキーが集めた戦士たちが口々に「私は原作を読んでいない」と云うのも面白い。彼らが惹かれたのは原作ではなく、ホドロフスキーの熱意とそのビジョンの素晴らしさだった。
ホドロフスキーは原作の映画化について次のように述べている。
---
映画を作る時は原作から自由になるべきだ。結婚と同じようなものだ。花嫁は純白のドレスを着ている。純白のままでは子供は作れない。脱がさなきゃダメだ。花嫁を犯すためにね。
そうすれば自分の映画を作れる。私はハーバートの原作をこうやって犯したんだ。大きな愛をもってね。
---
ホドロフスキーの『DUNE』には、まず大量のスパイスを積んだ宇宙海賊の船が登場する。
この幕開けからして驚きだ。ハーバートの小説に宇宙海賊なんて出てこない。原作の密輸業者のことだろうか。クリス・フォスは『DUNE』のためにドクロマークの海賊船の絵を描いており、パヴィッチ監督はそれをCGで動かしてみせる。
まさにこれは「ホドロフスキーの『DUNE』」としか云いようのない独自の作品だ。最後にはオリジナルの結末が待っている。
とはいえ、『ホドロフスキーのDUNE』を観るだけで「ホドロフスキーの『DUNE』」のすべてが判るわけではない。その長大な物語は、とても90分のドキュメンタリーで説明しきれるものではない。
それでも原作小説を読み、このドキュメンタリーを観て、さらにホドロフスキーが発表したマンガを読めば、かなりのところが判るように思う。
『DUNE』の制作が頓挫した後、ホドロフスキーは培ったイマジネーションをマンガに託した。
まずはプロジェクトを通じて知り合ったメビウスが、ホドロフスキーの想いを絵にした。そのマンガ――『アンカル』と『DUNE』の共通点は以前の記事で説明したから、ここでは繰り返さない。
本作のインタビューでも、『DUNE』を受け継いだ作品が『アンカル』であることをホドロフスキー自身が語っている。
本作はまた、挫折のショックの大きさも伝える。
『DUNE』を作るには当時としては巨額の1,500万ドルが必要であり、映画会社には危険な賭けだった。完璧主義者と云われるスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』ですら、1,200万ドルだったのに。
そしてこのプロジェクトが頓挫した原因は、ホドロフスキーだった。『エル・トポ』、『ホーリー・マウンテン』といった尋常ではない映画を作るホドロフスキーに1,500万ドルもの大金を出すことに、ハリウッドの映画会社は躊躇したのだ。
「素晴らしい企画だと各社は云った」ホドロフスキーとともに『DUNE』実現に奔走したプロデューサー、ミシェル・セドゥーは語る。「だが彼が監督ではダメだった。」
フランク・パヴィッチ監督は、偉大な芸術家ホドロフスキーをハリウッドが理解できなかったのだとまとめているが、映画を完成させれば1,500万ドルを回収できたのだろうか。
原作小説からの改変に、原作者フランク・ハーバートや原作ファンが納得したとも思えない。
ハリウッドの判断はたしかに保守的だが、金と権力を持ったパトロンでもいない限り、映画という金のかかる芸術を成り立たせるのは難しいのかもしれない。
■『DUNE』の影響を検証する
それでも、私たちはすでに『DUNE』の片鱗を見ているという。
『DUNE』が頓挫した後に作られたおびただしい映画によって。
ホドロフスキーたちは、映画の実現のために絵コンテやデザイン画を分厚い本にまとめて映画会社に渡した。資金さえ調達できればこんな素晴らしい映画ができるのだと、説得に努めた。
残念ながら彼らの説得は実を結ばなかったが、その絵コンテやデザインは他の映画人にパクられ、映像化されていった。『DUNE』は存在しないけれど、数々のSF映画が『DUNE』の影響下に誕生したとホドロフスキーは主張しており、本作もそれを支持する。
その一例が『スター・ウォーズ』だ。
ライトセーバーを手にしたルーク・スカイウォーカーが浮遊する球形ロボットを相手にトレーニングするシーンは、『DUNE』の絵コンテの流用であると本作は指摘する。
『DUNE』の主人公ポウルがロボットを相手にトレーニングする場面は、原作小説にもある。後にデヴィッド・リンチ監督が映像化したものは『スター・ウォーズ』に似ても似つかないが、メビウスの絵コンテは剣の長さといい、丸みを帯びたロボットの頭部といい、なるほど『スター・ウォーズ』と似ていなくもない。
アレックス・レイモンドのマンガ『フラッシュ・ゴードン』を映画化できなかったため、その代替策としてはじまった『スター・ウォーズ』は、『姿三四郎』の主人公と師匠をパクり、『隠し砦の三悪人』のストーリーをパクり、『宇宙海賊キャプテンハーロック』の企画書やケイブンシャの『全怪獣怪人大百科』からデザインをパクったと云われる。目に付いたものを手当たり次第、貪欲に取り入れた作品であることは、スター・ウォーズファンならご存知だろう。
パクリは必ずしも悪いことではない。ビジネスでも創作でもTTP(徹底的にパクる)は基本動作だし、ジョージ・ルーカスにパクられたおかげで、映画作りが難しい状況に陥っていた黒澤明が復権したとも云える(『隠し砦の三悪人』からしてジョン・フォード監督の『三悪人』をネタにしてるし)。
ただ、ルークのトレーニングシーンをパクリと指摘するのは無理があるように思う。
ホドロフスキーらが『デューン/砂の惑星』の映画化権を手に入れ、作業を開始したのは1974年12月だ。プリプロダクションに200万ドルを費やしながらプロジェクトが頓挫したのは1976年10月。2年に満たない活動だった。
一方、『スター・ウォーズ』の公開は1977年5月だが、ルークのトレーニングシーンは1975年1月28日にジョージ・ルーカスが脱稿した脚本第二稿にすでに書かれている。浮遊する球形ロボットは1974年5月の草稿から登場しており、レーザーソード(後のライトセーバー)は早くも1973年5月のあらすじに登場している。
ルーカスはホドロフスキーが『DUNE』に着手する前から『スター・ウォーズ』に取り組んでおり、肝心のシーンは『DUNE』の絵コンテができる前には構想されていた。
これをパクリと指摘したのは、勇み足だったと思う。
『スター・ウォーズ』の一部は『DUNE』の絵コンテを彷彿とさせるし、『スター・ウォーズ』を観れば『DUNE』を味わった気になれる。
砂漠の星タトゥイーンや砂漠の民タスケン・レイダーが、『デューン/砂の惑星』の惑星アラキスと砂漠の民フレーメンを模しているのは確かだろう。フランク・ハーバートがパクられたと云うなら、私も同感だ。
『DUNE』の絵コンテにあったトレーニングシーンは、ホドロフスキー+メビウスが『アンカル』で再現しているので、そちらで『DUNE』を味わった気になっても良いだろう。
本作は、マイク・ホッジス監督の『フラッシュ・ゴードン』との類似も指摘する。
ジョージ・ルーカスの夢見た『フラッシュ・ゴードン』の映画化権を押さえたのは、大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスだった。彼が莫大な額を投じて作ったSF超大作が『フラッシュ・ゴードン』だ。
奇想天外なこの映画について、フランク・パヴィッチ監督が指摘する類似は次の点だ。
a. ミン・シティの大広間の様子が、『DUNE』の絵コンテの大広間に似ている。
b. ミン皇帝をあおりで撮影するアングルが、『DUNE』の絵コンテに似ている。
c. ミン皇帝の護衛のデザインが、『DUNE』の近衛兵サルダウカーに似ている。
d. 監視員の顔からゴーグル状のモニターを取ると、眼から伸びた配線がむき出しになる描写が、『DUNE』の絵コンテに似ている。
aとbの指摘には疑問を覚える。『DUNE』と結びつけるほど特別な構図とも思えない。
cについては、わずかに似た雰囲気を感じるものの、『DUNE』が元ネタと云うほど似てるかなぁ。『フラッシュ・ゴードン』に登場する護衛は的当てゲームの鬼にアメフト選手の格好をさせたデザインなので、気になるのはデザイナーが日本の的当てゲームをどこで知ったかであり、メビウスのデザインとの類似性はうっすらとしか感じない。
しかしdはそっくりだ。ドンピシャだ。『DUNE』の絵コンテを見ながら作らなければ、ここまで似るはずがない。
マイク・ホッジスが監督に就任してからか、前任のニコラス・ローグが監督のときかはともかく、『フラッシュ・ゴードン』は『DUNE』の影響下で作られたに違いない。
1976年、ホドロフスキーのプロジェクトが頓挫すると、映画化権はディノ・デ・ラウレンティスに渡った。
ラウレンティスは『デューン/砂の惑星』の映画化を進めつつ、並行して『フラッシュ・ゴードン』にも手を付けた。原作者フランク・ハーバート本人に『デューン/砂の惑星』の映画化脚本を依頼し、H・R・ギーガーも引き続き参加させたくらいだから、ホドロフスキー版の資料も入手できただろう。
ホドロフスキーは、20冊作られた『DUNE』の分厚い本をハリウッド各社が回し読みしてパクったと考えているようだが、そんな陰謀じみた話を持ち出すまでもないのではないか。
思うに、パヴィッチ監督が指摘したa~dよりも『フラッシュ・ゴードン』に影響したのは、全体的な雰囲気ではないだろうか。
『フラッシュ・ゴードン』のデザイナー、ダニロ・ドナティは、カラフルでエロティシズム溢れるイメージをどこから発想したのか。ダニロ・ドナティといえばフェリーニ映画や『カリギュラ』でお馴染みのデザイナーだから、カラフルでもエロチックでもこれまで疑問に思わなかったが、考えてみれば史劇を得意とするドナティと『フラッシュ・ゴードン』の現実離れしたイマジネーションはいま一つ結びつかない。アレックス・レイモンドの原作マンガはシャープなタッチが特徴で、映画とは雰囲気が異なる。
パヴィッチ監督は両作品の兵士間の類似に注目したが、パヴィッチ監督が取り上げていない似たものがある。ミン・シティの衛兵は『DUNE』の皇帝のデザインに似ているし、警備兵は『DUNE』のレディ・ジェシカとシルエットが同じなのだ。
『フラッシュ・ゴードン』の宇宙空間が極彩色の雲に満ちているのは、不思議な景色だと思っていた。
当時の『スターログ』誌によればトイレ用洗剤を溶いてこの雲を作ったそうだが、こんな世界は他の映画では見られない、『フラッシュ・ゴードン』だけの特徴だ。原作マンガにも1936年の連続活劇版にも、こんな光景はない。
どこから思いついたのかと長年疑問だったけれど、この源流はクリス・フォスが『DUNE』のために描いたイメージ画ではないだろうか。砂の舞う空が夕陽に輝く様子や、宇宙船から漏れたスパイスで周囲の空間が青く染まるところなど、『フラッシュ・ゴードン』の宇宙に通じるものがある。
ディノ・デ・ラウレンティスは「ホドロフスキーの『DUNE』」のダークな部分を『デューン/砂の惑星』の映画化で受け継ぎながら、猥雑でキッチュな部分は『フラッシュ・ゴードン』に持ち込んだ――と想像できないだろうか。
本作での『プロメテウス』の紹介の仕方は誠実とは云えない。
『プロメテウス』に登場する異星人の建造物は、H・R・ギーガーが『DUNE』のためにデザインしたハルコンネン城と瓜二つなので、パヴィッチ監督は両者を並べて類似性を強調している。
けれどもこれはパクリではない。
『DUNE』の絵コンテが一般に知られる前にその要素を取り込んだ『フラッシュ・ゴードン』とは異なり、ギーガーのハルコンネン城のデザインは『プロメテウス』制作以前に公開され、画集『ネクロノミコン』を通して広く世界に知られている。
『プロメテウス』にはギーガーも参加しているのだから、パクリというよりはスタッフ一同からギーガーへの敬意の表れとして、かつて実現できなかったハルコンネン城をここで映像化したのだろう。
『プロメテウス』については『フラッシュ・ゴードン』と同列に扱うのではなく、ギーガーとの関係をきちんと説明した方が誠実だったと思う。
もちろん、『DUNE』の片鱗をうかがわせる作品として、『プロメテウス』が注目すべきなのは間違いないが。
本作には、他にも『マトリックス』等が『DUNE』の影響を受けた映画として挙げられている。
しかし微妙な類似だったり、どこに影響が見られるのか具体的な説明がなかったり。
資料の入手経路と併せて、明らかに『DUNE』を参考にしたと思われる作品は『フラッシュ・ゴードン』だけだ。
『フラッシュ・ゴードン』は、1981年2月に日本でも公開された。
翌1982年3月、新番組『宇宙刑事ギャバン』を見た私や友人は驚いた。ギャバンが引きずり込まれる魔空空間、そこは極彩色の物質が渦巻く『フラッシュ・ゴードン』の世界そのものだったからだ。
回を重ねるにしたがい、魔空空間は極彩色のセットから採石場での撮影に変わったが、その不思議なビジュアルは『宇宙刑事シャリバン』の幻夢界、『宇宙刑事シャイダー』の不思議時空へと受け継がれていく。
それらの源流に『DUNE』のイメージ画があるとしたら、なんて愉快なことだろう。
■ホドロフスキーかく語りき
『エイリアン』を発表したリドリー・スコット監督は、次にディノ・デ・ラウレンティスの下で『デューン/砂の惑星』の映画化を進めた。
しかし遅々として進まない制作の中、兄の急死で意欲をなくした彼は、心機一転を図るため『ブレードランナー』に移ってしまう。
そこでディノ・デ・ラウレンティスが目を付けたのがデヴィッド・リンチ監督だ。デヴィッド・リンチは『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』のオファーを断り、ラウレンティスの仕事を選んだ。
ホドロフスキーに負けず劣らず独創的なデヴィッド・リンチは、過去の何物にも囚われず、個性溢れる『砂の惑星』を完成させた。ホドロフスキーの『DUNE』との類似を探しても、せいぜい皇帝の宇宙船の金ピカぶりくらいしか見当たらない。
ときは1984年になっていた。
『スター・ウォーズ』の大ヒット以降、SF映画は大作化し、『砂の惑星』にはホドロフスキーが求めた1,500万ドルを上回る4,000万ドルもの巨費が投じられた。
デヴィッド・リンチ監督の『砂の惑星』は原作に忠実である。
原作ファンは忠実ではないと云うかもしれないが、ホドロフスキーが構想したものに比べれば、はるかに原作に沿っている。
それでいてデヴィッド・リンチの長篇デビュー作『イレイザーヘッド』の異様さをエスカレートさせた、独特の作品に仕上がっている。
『ホドロフスキーのDUNE』には、『砂の惑星』を観たホドロフスキーの感想も収められている。
自分が挫折した作品だから観たくなかったのに、息子ブロンティスに促されてしぶしぶ足を運んだという。
『砂の惑星』の感想を語るホドロフスキーはあまりにも晴れやかで、思わず笑ってしまいそうだ。
「大失敗だ!」ホドロフスキーは楽しそうにリンチ版を切って捨てる。「デヴィッド・リンチは優れた監督だから、制作者が悪かったんだろうね。」
ホドロフスキーが元気を取り戻したのは喜ばしいが、私はリンチ版が大好きなのであまりけなして欲しくない。
4時間以上の上映時間が必要と考えていたデヴィッド・リンチにとって、137分に切られた『砂の惑星』には不本意なところがあったかもしれない。
だが、ホドロフスキーが構想した『DUNE』は10時間以上だった。ホドロフスキーの脚本を読んだフランク・ハーバートは、こりゃあ14時間になると感じた。
ホドロフスキーにとって、『DUNE』は世界を変える預言書であり、教典だった。教典に上映時間だの客の回転率だのは関係ない。だから、いくら長くても構わない。
でも、それでは多くの観客は付いていけない。
原作の長大さと現実的な上映時間を考えれば、リンチ版『砂の惑星』は極めて優れた映画だと思う。
もちろん10時間のホドロフスキー版も観たかった。14時間でも構わない。それは幸せな時間に違いない。
ピーター・ジャクソンの『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が成功した現在であれば、10時間の映画を公開することもできただろうか。
本作でホッとさせられるのは、ホドロフスキーへのインタビューで猫が出てくるところだ。
自宅インタビューの最中にじゃれつく猫を、ホドロフスキーは抱いてやる。
あの、ウサギを殺した男が!芸術のためなら大量のウサギを殺しても平気な男が、猫を可愛がっている!
ホドロフスキーの代表作『エル・トポ』には、ウサギの死骸が大地を埋め尽くすシーンがある。
それを撮影するには、ウサギの死骸が必要だ。彼はスタッフにウサギを殺すように命じたが、スタッフは嫌がって、誰一人ウサギを殺さなかった(当たり前だ)。だからホドロフスキーは自分でウサギを殺した。何十羽も、大地を埋め尽くせるほどに。
「あの頃の私は頭がおかしかったんだ。」DVD-BOX収録のインタビューでそう語った彼の言葉を思えば、一匹の猫を可愛がる今の姿には感慨を覚える。
だが、ホドロフスキーは本作のインタビューで「映画のために必要ならこの腕を切り落としてもいい」とも語っている。
彼の本質は変わっていない。
本作が不思議と爽やかなのは、『DUNE』を通してホドロフスキーの生き様が伝わるからだろう。
これは成功譚ではない。映画史上最大級の失敗プロジェクトを追ったドキュメンタリーだ。にもかかわらず、大きな挫折を味わったはずのホドロフスキーは、驚くほど明るい。
そのポジティブな語りに、創作への情熱に、前向きな生き方に接して、観る者も元気になる。
80歳を過ぎて新作を発表したアレハンドロ・ホドロフスキーは、人生は"イエス"なんだと説く。
「人生で何か近づいてきたら"イエス"と受け入れる。離れていっても"イエス"だ。『DUNE』の中止も"イエス"だ。失敗が何だ?だからどうした?『DUNE』はこの世界では夢だ。でも夢は世界を変える。」
よし、『ホドロフスキーのDUNE』を観たら、次は『フラッシュ・ゴードン』を観ようじゃないか。
答えはもちろん"イエス"だ!
[*] 本稿執筆に際して次のサイトを参照した。
duneinfo.com
『ホドロフスキーのDUNE』 [は行]
監督・制作/フランク・パヴィッチ
出演/アレハンドロ・ホドロフスキー ミシェル・セドゥー H・R・ギーガー クリス・フォス ブロンティス・ホドロフスキー ニコラス・ウィンディング・レフン リチャード・スタンリー
日本公開/2014年6月14日
ジャンル/[ドキュメンタリー] [SF]
【theme : ドキュメンタリー映画】
【genre : 映画】
tag : フランク・パヴィッチアレハンドロ・ホドロフスキーミシェル・セドゥーH・R・ギーガークリス・フォスブロンティス・ホドロフスキーニコラス・ウィンディング・レフンリチャード・スタンリー
『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』の正体は?
ルーウィン・デイヴィスの女友達ジーン役にキャリー・マリガンがキャスティングされたのは、彼女が「マリガン」だからじゃないか。なんて妄想が頭をかすめた。
ルーウィンは彼女の部屋に泊めてもらうが、そこには別の男もいて、三人で夜を明かすことになる。
そんな話が他にもあったからだ。
ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンの兄弟が撮った『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』は、フォーク歌手ルーウィン・デイヴィスの漂泊の日々を綴った映画だ。
ストイックなほどに控えめな哀愁とユーモアが、映画からじわじわとにじみ出る。全編を彩るフォークソングも哀愁を帯びて、たまらなく切ない。
フォークといってもいろいろだから、ボブ・ディランが好きな人もいれば、岡林信康や三上寛が好きな人もいるだろう。
本作でもピーター・ポール&マリーの歌唱で知られる別れの歌『500マイル』のカバーや、滑稽なプロテストソング『Please Mr. Kennedy (お願い、ケネディさん)』等、様々なフォークソングを聴くことができる。政治的メッセージを込めながら、ふざけた曲調の『Please Mr. Kennedy』は、岡林信康の『ヘライデ』を思い出させる。
それでも全体の雰囲気は絶妙なさじ加減で統一され、抑えた色調の映像と相まってフォークソングならではのもの悲しさが漂っている。
フォークソングを活かした映画といえば、日本でも『イムジン河』を使用した『パッチギ!』や、『今日までそして明日から』を使用した『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』がある。
けれども起伏に富んだプロットの上にフォークソングがあるそれらの作品とは違い、本作は漂泊するルーウィンが方々で歌う様子を繋げたような構成だ。
監督・脚本・制作・編集を務めたジョエル・コーエンは、「この映画にはプロットがないんだ」と冗談を云っている。「プロットの不足を補うために猫を出したのさ。」
たしかに、ルーウィンと猫のかかわりで本作は引き立てられている。電車に乗ったルーウィンは猫を抱えているから滑稽なのであり、ルーウィンだけで乗車しても面白くも何ともない。根なし草のようなルーウィンの日常は冴えないが、家を飛び出した猫の行方を追うことで観客は興味を引かれる。
だが、もちろん本作にプロットはある。それも極めて古典的なプロットだ。
猫の役割がプロット不足の補填のためだけではなく、ルーウィンの心情を象徴させることなのは明らかだろう。他人から奇異に見られても手放せず、会話を途中で遮ってでも追い求めてしまう猫は、ルーウィンのフォーク魂そのものだ。その大切な「魂」がルーウィンの許を去っていったり、偽物と入れ替わってしまうのは、売れないフォーク歌手を続けて罵倒されるルーウィンの悩みを表していよう。
でも猫の役割はそれだけではない。猫は本作の正体を教えてくれる。
本作はフォーク歌手デイヴ・ヴァン・ロンクの自伝にインスパイアされたという。
しかし自伝から取り入れた要素はごく一部のようだ。コーエン兄弟は、伝記映画には興味がないと述べている。
それよりも注目すべきは猫の名前だ。
ルーウィンは猫の名前を知らなかった。だから名前が明かされるのは、ようやく終盤になってからだ。
猫の名は、なんとユリシーズだった。
ユリシーズ(Ulysses)とは、ギリシア神話の英雄オデュッセウス(Odysseus)の英語名だ。古代ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公として知られる。
故郷を離れ、長い放浪の果てにようやく我が家へたどり着くオデュッセウスは、なるほど迷い猫の名に相応しい。
けれども、『オデュッセイア』と『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』の共通点はそれだけではない。
顕著なのは、どちらも三部構成になることだろう。
父の不在と、残された家族が困っている様子を描く第一部。
放浪の旅を描く第二部。
旅を終え、父と息子が再会する第三部。
詳細に見てみよう。
ルーウィン・デイヴィスにはかつてマイク・ティムリンという相棒がおり、フォークデュオとして売っていた。少しは売れていたようだが、マイクの死によりルーウィンはソロ活動をすることになる。
オデュッセウスはトロイア戦争の英雄だ。他の英雄とともに大軍でトロイアに攻め込み、有名な木馬を考案してギリシアを勝利に導いた。現代ではコンピューターの遠隔操作等を行う不正ソフトウェアを「トロイの木馬」と呼ぶが、その元ネタになった木馬を作って敵地への侵入を果たしたのがオデュッセウスだ。ところがトロイアからの帰路、様々な苦難に襲われて仲間たちは死んでいき、オデュッセウスは一人になってしまう。
ルーウィンは女友達ジーンから妊娠したと告げられ、中絶費用を要求される。金がなくて知人宅を泊まり歩いているルーウィンに、そんな費用を工面できるはずもない。金に困ったルーウィンは姉を訪ねるが、金は施設にいる父のために使うんだとけんもほろろにあしらわれる。
『オデュッセイア』ではオデュッセウスが不在のあいだの妻ペネロペと息子テレマコスの苦労が語られる。主人公ではなく息子の描写だから映画の展開とは異なるが、父の不在と家族の苦労を描く点は共通する。
ルーウィンはニューヨークを離れて旅に出る。
最初に出会うのは巨漢のジャズミュージシャン、ローランド・ターナーだ。ローランドはフォークに理解がなく、ルーウィンを散々バカにする。
そのくせローランドは薬物中毒で、一人じゃ移動もままならない。ジョニー・ファイヴという若者がクルマを走らせたり、足下のおぼつかない彼に肩を貸したりして、彼の目の代わりになっている。
ところがジョニーは警察に捕まってしまい、薬が効いて眠り込んでるローランドはクルマに取り残される。もはや移動できないローランドを置き去りにして、ルーウィンは旅を続ける。
ローランド・ターナーは、オデュッセウスが出くわす一つ目の巨人キュクロプスを思わせる。キュクロプスに捕らえられたオデュッセウスは、不本意ながらキュクロプスの機嫌を取る。キュクロプスが酔いつぶれて眠り込んだところで目を潰し、オデュッセウスはまんまと逃げおおせる。
ルーウィンが訪ねるプロデューサーのバド・グロスマンは、美しい歌声で船乗りを惑わせるセイレーンだろう。
セイレーンの歌に魅せられた船乗りは、航路を誤り、難破してしまう。
バド・グロスマンもルーウィンに対してグループを組んだ方がいいとか、髭を剃って小ざっぱりしろとか、ルーウィンの音楽性や志向とはかけ離れた助言をする。バド・グロスマンが提案する男二人、女一人のグループは、ピーター・ポール&マリーのようなものかもしれない。ルーウィンがピーターやポールのように女性の隣でニコニコしながら歌うなんて、似つかわしくないのだが。
バド・グロスマンの言葉に惑わされたら、ルーウィンは道を誤ったかもしれない。
結局、ルーウィンはグロスマンの助言を聞き入れず、ニューヨークへ帰ることにする。
次にルーウィンを待ち受けるのは、アクロンに住む昔の女友達だ。分かれ道を右に向かえば、彼女の住む町に行ける。彼女はルーウィンを温かく迎えてくれるかもしれない。ルーウィンは自分の家族を得て、穏やかに過ごせるかもしれない。
これは『オデュッセイア』に登場する島の王女ナウシカアに相当しよう。心優しいナウシカアは、オデュッセウスに愛情深く接してくれる。
だが故郷を目指すオデュッセウスは、ナウシカアと別れて旅を続ける。
ルーウィンもまた、ニューヨークの生活に戻っていく。
このときルーウィンの心情を表すのはまたもや猫だ。
傷ついても一人で歩く猫を見て、ルーウィンは故郷に帰ろうと心を固める。
帰り着いたルーウィンは船乗りになろうとしたり、父に面会したりの後、やっぱりステージで歌うことにする。
このシークエンスも、故郷に戻ったオデュッセウスが王でありながら乞食の姿で現れたり、父と再会したりを彷彿とさせる。
ただし、英雄オデュッセウスが知略や武勇をもって元の地位を取り戻すのに対し、コーエン兄弟が用意した顛末はユーモアと皮肉が利いている。
ルーウィンは船乗りになろうとするけれど、商船組合の免許をなくしてしまって船に乗れない。病気の父にフォークを歌ってやっても、父は聴いているのかいないのか、黙ってお漏らしするだけだ。カフェハウスのステージに立てたのは、女友達のジーンが店の主人と寝たおかげらしい。
ジーンの扱いは興味深い。
オデュッセウスの妻ペネロペは貞淑な女性であり、夫がいない長い年月、他の男たちの求婚を退けてきた。
しかし本作のジーンは一応ヒロイン格でありながら、ペネロペのように貞淑ではない。
その違いを考えるとき、思い浮かぶのがジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』だ。『オデュッセイア』から着想を得たこの長編小説で、主人公の妻は浮気者である。
ジーン役がキャリー・マリガンなのも面白い符合だ。映画の序盤でジーンがルーウィンともう一人の男を泊めたように、『ユリシーズ』の冒頭でも二人の男を泊める人物が出てくる。それが医学生のマリガンだ。
コーエン兄弟は本作を哀愁に満ちた音楽映画に見せかけながら、様々な遊びを仕込んでいるのかもしれない。
紆余曲折を経て、ルーウィンはギグで歌を披露する。
映画そのものも円環を閉じる。ここに至って最初のシークエンスが映画のラストだったことが明らかになり、放浪の果ての帰還という主題と映画の構成がシンクロしていることが判る。
ただ、元に戻っただけではない。
相棒マイクが死んでから歌うことに抵抗を感じていた過去のデュエット曲を、ルーウィンは歌いおおせる。
そしてオデュッセウスが敵を殺したのとは対照的に、ルーウィンはボコボコに殴られて、それでも負けない意地を見せる。
何があってもフォーク魂に戻ってくるルーウィンの物語は、コーエン兄弟らしいウイットに富んだ英雄譚といえよう。
『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』 [あ行]
監督・脚本・制作・編集/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出演/オスカー・アイザック キャリー・マリガン ジョン・グッドマン ギャレット・ヘドランド F・マーレイ・エイブラハム ジャスティン・ティンバーレイク スターク・サンズ アダム・ドライバー
日本公開/2014年5月30日
ジャンル/[ドラマ] [音楽]
tag : ジョエル・コーエンイーサン・コーエンオスカー・アイザックキャリー・マリガンジョン・グッドマンギャレット・ヘドランドF・マーレイ・エイブラハムジャスティン・ティンバーレイクスターク・サンズアダム・ドライバー
『X-MEN:フューチャー&パスト』 順番に気をつけよう
X-MENはミュータント(突然変異体)であり、シリーズの背景には人類の進化への考察がある。
だが、『X-MEN:フューチャー&パスト』で驚かされるのは、映画そのものの進化だ。変容と云ってもいい。
このシリーズは他のスーパーヒーロー物と同様に、正義のヒーローが悪役を倒す物語だった。これまでは。
ところが本作に倒されるべき悪役はいない。にもかかわらずヒーローの活躍が存分に描かれ、起伏に富んだ展開は一瞬たりとも飽きさせない。こんなヒーロー物を作れることに舌を巻く。
本作でX-MENが戦う相手は、ミュータントを狩るロボット「センチネル」だ。
ミュータントを研究して作られたセンチネルの大群に、さすがのX-MENも圧倒される。もはやミュータントの絶滅は時間の問題だった。
本作ではのっけからセンチネルとの激しい戦闘が繰り広げられる。
けれども、センチネルは「悪役」ではない。単に人間が命じたとおりに動いているだけだ。
ではセンチネルを開発した科学者ボリバー・トラスクが倒すべき悪役かといえば、そうでもない。物語の中心はボリバー・トラスクの暗殺を防ごうとするX-MENの活躍だ。
ボリバー・トラスクの暗殺を企てるミスティークも悪役ではない。ミュータントの仲間たちのために、ミュータントの復讐のためにトラスクの命を狙う彼女には、彼女なりの正義がある。
シリーズ一作目からX-MENと対立してきたマグニートーも、本作ではプロフェッサーXらと共闘する仲間だ。
ヒーローが活躍する映画は面白いけれど、年々楽しめなくなってくるのは、現実には悪役なんていないことを歳とともに実感するからだ。
悪いヤツはいるだろう。しかし、そいつさえ倒せば世界を救えるほど世界中の悪を背負い込んだ一人の人物なんて存在しない。そんな人物を設定すれば、作品が現実離れするだけだ。
そのため絶対的な悪を描こうとすればするほど、『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』のように悪役の影が薄くなってしまう。この作品では、悪役のマレキスよりも狡賢く立ち回るロキの方が印象的だった。
それだけに、明確な悪役のいない本作に魅了される。
誰もが善かれと思って行動しているのに、そこに対立が生まれ、憎しみを増幅してしまう。
そんな中で、何をするのが善いことなのか。本作は普遍的な問いを投げかける。
人間から迫害されるミュータントに公民権運動やマイノリティ問題が投影されていると云われる本シリーズは、現実の歴史との関わりも濃厚だ。
作品が増えてくると順番が判りにくいので、映画を作中の時系列で並べ、時代設定を見てみよう。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011年公開) …1962年、キューバ危機
『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014年公開) …1973年、ベトナム戦争からの米軍撤退
『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』(2009年公開) …ベトナム戦争後
『X-MEN:アポカリプス』(2016年公開) …1983年、レーガン大統領がソビエト連邦を「悪の帝国」と非難
『X-メン』(2000年公開) …近未来
『X-MEN2』(2003年公開) …近未来
『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006年公開) …近未来
『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013年公開) …近未来
『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014年公開) …2023年、ミュータント絶滅の危機
『LOGAN/ローガン』(2017年公開) …2029年、ミュータントのいない世界
各作品が含むエピソードは、時代が前後することもある。『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』では1845年以来の戦争の歴史が描かれるし、『ウルヴァリン:SAMURAI』には1945年の原爆投下シーンがある。『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は1944年の強制収容所で幕を開ける。
だが、映画のメインプロットを考えれば、上の順序になるだろう。
『X-MEN:フューチャー&パスト』は未来と過去の出来事を並行して描くので、二ヶ所に挙げた。本作はもっとも遠い未来である2023年と、パリ協定が結ばれる1973年の両方を舞台にしている。
パリ協定とは、米国がベトナム戦争から手を引くために調印した和平協定だ。本作では調印に向けた交渉のテーブルが戦いの場となり、ときの大統領リチャード・ニクソンも登場する。
とはいえ、この時代の象徴としてストーリーに関わってくるのは、パリ協定よりもドラッグだ。1973年といえば、007がカリブの麻薬王と対決する映画『007/死ぬのは奴らだ』が公開された年である。
本作ではなんと、ベトナム反戦運動や公民権運動から距離を置いてドラッグ文化にのめり込んだ当時の若者よろしく、X-MENを指導すべきプロフェッサーXがクスリを手放せなくなっている。
クスリといっても麻薬・覚醒剤等ではなく、半身不随になったプロフェッサーXが歩くために必要なものだけれど、摂取すると一時的に気分が良くなったり、副作用で本来の能力が阻害されたりと、明らかにドラッグの比喩になっている。
本作は、世の中から逃避してドラッグ中毒になった男の再起を描いた物語でもある。
そのプロフェッサーXの論文を盾に、ミュータントを迫害するのが科学者ボリバー・トラスクだ。
かつてプロフェッサーXは、人間とミュータントの関係をネアンデルタール人とホモ・サピエンスの関係に見なした論文を発表した。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で紹介されたその論文を、本作ではボリバー・トラスクが引用し、かつてホモ・サピエンスの前にネアンデルタール人が絶滅したように、今度はミュータントの出現でホモ・サピエンスが絶滅するだろうと主張する。ネアンデルタール人の轍を踏まぬためには、今のうちにミュータントを絶滅させるべきなのだ。ホモ・サピエンスが生き延びるにはそれしかないと訴える。
興味深いのは、ミュータント迫害の急先鋒となるボリバー・トラスクが平和愛好家であることだ。
トラスク役のピーター・ディンクレイジとブライアン・シンガー監督は、次のように語る。
「トラスクは人類同士の戦争が避けられないと考えており、それを止める唯一の方法は人類共通の敵を見つけることだと思っている。彼にとって、ミュータントの出現は人類を一致団結させる好機だ。彼は善いことをしているつもりなんだ。彼は人々の尊敬を集めるために、生涯を費やしてきた男だ。」
残念ながら、ボリバー・トラスクの主張には一理ある。
人間は、世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けして、戦争せずにはいられない生き物だ。「奴ら」と敵対したときの「俺たち」の団結力は目覚ましい。
だが問題は、「俺たち」とは何者で「奴ら」とは何者か、誰が線を引くのか引けるのかだ。
ブライアン・シンガー監督によれば、ボリバー・トラスクの人物像はアドルフ・ヒトラーに基づくという。
「ヒトラーがヨーロッパの暗部を結束させるためのスケープゴートとしてユダヤ人を利用したように、トラスクはミュータントで同じことをしようとしている。しかもヒトラーが長身で金髪の"理想的なアーリア人"ではなかったように、トラスクも背が低くて理想的な外見ではなく、ヒトラーと同類なんだ。」
ボリバー・トラスクは人類に平和をもたらすために、ミュータントへの攻撃を企てた。
しかし、彼が開発したセンチネルは、ミュータントを攻撃するだけでは終わらなかった。ミュータントを支援する人間も、ミュータントを産む人間も、センチネルは攻撃対象にした。都市は荒れ果て、世界は一握りの人間だけのものになった。
これは『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』が語ることと同じだ。
ナチズムに抵抗した牧師マルティン・ニーメラーが作ったこの詩は、他者への攻撃を見逃したためにやがて自分も攻撃される恐ろしさを伝えている。
「奴ら」なんか攻撃してもいいと思う心の底には、「奴ら」に限らず他者を攻撃しても構わないという気持ちが潜んでいる。そんな気持ちが広まるのを許したら、自分は「奴ら」じゃないから安全だと高をくくっていた人もいずれ標的にされるのだ。
本作が描く荒廃した未来は、他者への攻撃を見逃すことで、人々がみずから招いてしまったものなのだ。
さて、プロフェッサーXの論文は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスを競合する別種のように説明していた。1960年代の論文だから、そのように書かれるのは仕方ない。
最新の研究によると、現生人類とネアンデルタール人の関係はそれほど単純ではないようだ。非アフリカ系の現代人は、ネアンデルタール人の遺伝子も受け継いでいるからだ。
アフリカ大陸で誕生した現生人類は、世界に広がる過程で一足先にユーラシア大陸で暮らしていたネアンデルタール人と交雑したと考えられている。私たちの皮膚や毛髪や爪の形成には、ネアンデルタール人の遺伝情報が関与しているという。私たちはネアンデルタール人の子孫でもあるのだ。
世界は「俺たち」と「奴ら」に線引きできるわけではないのである。
『X-MEN:フューチャー&パスト』 [あ行]
監督・制作/ブライアン・シンガー
出演/ヒュー・ジャックマン ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ジェニファー・ローレンス ニコラス・ホルト ハル・ベリー イアン・マッケラン パトリック・スチュワート エレン・ペイジ ピーター・ディンクレイジ エヴァン・ピーターズ ショーン・アシュモア オマール・シー ダニエル・クドモア ファン・ビンビン エイダン・カント ブーブー・スチュワート
日本公開/2014年5月30日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]
- 関連記事
-
- 『LOGAN/ローガン』 二人の父の物語 (2017/06/05)
- 『X-MEN:フューチャー&パスト』 順番に気をつけよう (2014/06/03)
- 『ウルヴァリン:SAMURAI』 牛丼の看板との共通点は? (2013/10/04)
- 『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 1962年に何があったのか? (2011/06/12)
【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ブライアン・シンガーヒュー・ジャックマンジェームズ・マカヴォイマイケル・ファスベンダージェニファー・ローレンスニコラス・ホルトハル・ベリーイアン・マッケランパトリック・スチュワートエレン・ペイジ