『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を応援します
【ネタバレ注意】
どこから褒めればいいだろう。
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は、そう悩んでしまうほど素晴らしい。
■驚異の映像
まず目をみはるのが映像の美しさと迫力だ。制作会社ライカの過去の作品、『コララインとボタンの魔女 3D』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』も素晴らしかったが、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はそれらさえ凌駕する。
その魅力の源が、ストップモーション・アニメーションにあることは間違いない。
2010年代は3DCGのアニメーション映画が盛んだった。3DCGの映像は年々緻密になり、リアリティを増していた。しかし、本作の質感や奥行の広がりを前にしては、まだまだストップモーション・アニメーションの映像に軍配を上げざるを得ない。
何より題材の選び方が秀逸だ。『コララインとボタンの魔女 3D』がボタンや布を取り上げて質感を訴求したように、本作が扱うのは折り紙だ。折り紙の侍が歩き回り、折り紙の小鳥が群れをなす。あたかもそこにあるような、手に触れられるような存在感には舌を巻く。
そも、アニメート(animate)とは、「動かす」「生命を与える」という意味だ。本来動かないはずのものが、アニメーターによって命を吹き込まれ、生き物のように動き出す。そこにアニメーションの感動がある。実写と見まがう精緻な3DCGの素晴らしさもさることながら、折って飾るだけの折り紙が生き生きと動き出す様にはワクワクしてしまう。もちろん、人形たちの織り成す人間ドラマが魅力的であることは云うまでもない。
トラヴィス・ナイト監督は、主人公クボは自分たちアニメーターの分身であると述べている。辻講釈で食べているクボは、過去の出来事を語るストーリーテラーであり、折り紙を操る芸術家であり、三味線を弾くミュージシャンだ。彼は折り紙に命を吹き込み、物語を演じさせる。それはストップモーション・アニメーションの制作と同じことだ。
■日本と黒澤
『コララインとボタンの魔女 3D』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』が現代の奇妙な町を舞台にしていたのに対し、本作が中世を舞台にしたファンタジーなのも嬉しい。作品が現代を離れるほどに、作り手は多くのものを考案し、作り上げねばならないだろう。だから作り手の苦労はたいへんになるだろうが、その分だけ観客にとっては見応えが増す。
本作で描かれるのは、日本のような国である。侍が闊歩するファンタジーといえば、『47RONIN』のように幻想的な世界をこしらえた作品もあるけれど、本作は平安時代の日本を調べた上で作られている。パンフレットによれば、日本の皇室の衣装、特に江戸時代のものも調査したそうだ。必要に応じて、日本文化のコンサルタントを招くなどして、本作は日本の建築や服や町並みを再現している。劇中の祖先崇拝や灯籠流し等の描写は、調査が日本人の精神風土にまで踏み込んでいたことを示している。
8歳のときに日本を訪れ、日本の文化に魅入られたというトラヴィス・ナイト監督は、「子供の頃にみんながサッカーやミニカーで遊んでいるだろ?そんな時に僕は、黒澤(映画)が描いた侍たちのことを想像して、遥か遠い日本を夢見ていたよ」と語る。[*1]
ナイト監督のオススメの映画は、黒澤明監督の『用心棒』、『七人の侍』、『蜘蛛巣城』と『羅生門』だ。なるほど、平安時代の宮中の女性のような衣裳[*1]に身を包んだクボの母サリアツや、笠をかぶって顔を隠した叔母たちのイメージは、『羅生門』の京マチ子さんから来ているのだろう。強力無双の武芸者であり、また一城の主でありながら、ひょうきんでおっちょこちょいの父ハンゾウは、三船敏郎さんが源流だ。パンフレットには「『七人の侍』の三船敏郎に敬意を表し、彼に似せ」たとしか書かれていないが、半人前でおっちょこちょいの『七人の侍』の菊千代だけでなく、凄腕の用心棒や蜘蛛巣城の城主のイメージも重ねられたに違いない。
ナイト監督は、「本作はライカから日本へのラブレターのつもりで制作した」とまで云う。
しかし、私は、本作が日本を取り上げているから応援しようとは思わない。舞台が日本だったり、日本の人々を描いていても、それは単に映画の素材だ。
私が本作を応援したいのは、素材を活かしながら極めて高い完成度の作品に仕上げているからだ。そして、本作が訴える格調高いテーマに共感するからだ。
だいいち、そんなに日本映画が大好きで、日本に人を送ったりコンサルタントを招いたりして日本のことを調べているのに、本作の時代考証はゆるゆるだ。
クボの母が平安時代の着物を着ている一方で、村人たちは帯の大きい江戸時代のような着物を着ている。しかも、庶民の身でありながら、色鮮やかで凝った模様の着物ばかり。誰も彼もがこんな上等な着物を着ているなんて、まるで日本の時代劇ドラマのようだ。
これは仕方のないところかもしれない。日本でさえ、NHKの大河ドラマ『平清盛』が時代考証を重視して昔の日本のみすぼらしさ、不衛生ぶりを誠実に描いたら、「画面が汚い」などと文句を付けられたのだ。当時は裸同然の人もいただろうから、服を着ているだけマシなほうだと思うのだが、きれいで清潔な服を着られるようになった現代人は、過去の人にも今のスタンダードを求めてしまう。
そんな現実離れした作品が期待される世の中だから、本作の世界の住人が時代錯誤の美しい服を着ていても、日本の時代劇並みと思えば問題あるまい。
とはいえ、村の祭の盆踊りで、「炭坑節」が流れるのには笑ってしまった。今でこそ盆踊りの定番となった「炭坑節」だが、これは昭和期にはやった曲だ。近世以前の祭に流れているはずがない。
おそらくは、これも意図的なのだろう。盆踊りすらなかった平安時代の歌や踊りの再現に努めたところで、日本人でさえそれがなんだか判るまい。それに「月が出た出た、月が出た♪」という「炭坑節」の歌詞は、《月の帝》と戦う主人公の運命を示唆することにもなる。あえて「炭坑節」を選んだのは、優れた選択といえるだろう。
また、平安時代風の母からクボに受け継がれるものは、三味線より琵琶のほうが似合いそうだが、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』では弦の数が重要な伏線になっているから、あえて三味線にしたのだと思う。
リアリズムを重んじる黒澤明監督の『七人の侍』でさえ、戦国時代が舞台なのに鎌倉時代の武具を付けたりしている。[*2]
この自由奔放さを、トラヴィス・ナイト監督はしっかりと受け継いでいる。
■黒澤映画の継承者
クボは赤ん坊のときから片眼がない。冷酷な祖父《月の帝》に取られたのだという。
残りの眼も奪おうと、祖父と配下の叔母たちがクボを付け狙っている。
クボの隻眼の設定は、独眼竜政宗と柳生十兵衛に敬意を表したものだ。[*1]
体の一部が奪われるのは、怪談『耳なし芳一』のようでもあるが、なによりクボが障碍を持っていることが重要だったのだろう。『ヒックとドラゴン』の主人公ヒックには片足がない。クボもまた障碍を持つ主人公の系譜に連なっている。障碍があっても、差別されたり不利益を被ったりすることなく生活できる世の中であるべきだという作り手の信念が、このような人物像を世界に発信させているのだろう。
黒澤明を神のように崇めるトラヴィス・ナイト監督は、黒澤映画から多くのものを学んだ。それは、カメラの動きや構成、構図、照明等の多岐にわたるが、それ以上に欲したのは、黒澤が映画を通じて探求したテーマを本作でも探求することだったという。それは、ヒューマニズム、ヒロイズム、実存主義、大胆な理想といったものだ。
本作は、まぎれもなく黒澤明のヒューマニズムを継承している。
それは題名にも表れていよう。
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の原題は『Kubo and the Two Strings』である。「クボと二本の弦」という意味だ。
邦題だと「クボ」と「二本の弦の秘密」が分かれていて、別々のことを指すように見えてしまうが、本来は一つ、つまり「クボ」と「二本の弦」が一緒に並んでいるわけで、「クボと二本の弦」はすなわち「三本の弦」ということだ。
クボが三味線使いであることからも、クボを含めた三本の弦が一緒にいることが本作のテーマとなっている。
もちろん、三本の弦とはクボと父と母であり、両親の愛が共にあるとき、クボは最強の力を発揮する。
けれどもそれは、必ずしも親子三人で仲良く暮らすことではない。映画を最後まで観た方はお判りだろう。人間はいつかは一人で生きていかなければならない。だが、どんな人間にだって、彼/彼女を産み、育んでくれた人がいるはずだ。その人たちの想いがあれば、人は孤独ではないのだ。
それは同時に、孤独な人を放っておいてはいけない、想いを伝えなければいけないということでもある。
■現実からフィクションへ、フィクションから現実へ
ストーリーテラーのクボを主人公に据えた本作は、物語の力も重要なテーマとしている。
もちろん、本作のストーリーもべらぼうに面白い。
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の原型は、キャラクターデザイナーのシャノン・ティンドルが、紙彫刻家の妻ミーガン・ブレインのために作ったお話だ。若くして認知症になり、車椅子の生活を余儀なくされた母を介護しながら生きてきたミーガンのために、シャノン・ティンドルは彼ら親子の関係をモデルにした絵物語を描いてプレゼントしたのだ。
それから十余年を経て、物語の構想が膨らんだシャノン・ティンドルは、日本の説話に触発されながら、クボと母のお伽ばなしを壮大な叙事詩に仕立て上げた。妻ミーガンもスタッフに加わり、紙彫刻家としての腕を振るって、折り紙の造形を行った。
「この家族の物語は、(全部とは云わないけれど)私の家族で作りました」とシャノン・ティンドルは綴っている。本作には、並々ならぬ想い入れがあるのだろう。
完成した『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は、一種の貴種流離譚になっている。
クボは何があっても日暮れまでに洞窟に戻らなければならない。夜になると、一族の住む月の世界からクボの姿が見えてしまうからだ。
本作は『かぐや姫の物語』に通じるところがある。高貴な人々が住む月の世界と、卑しい者たちが住む地球。月の人が地球の人間に接して、心を通わせてしまったことから生じる波乱。
『かぐや姫の物語』と違うのは、かぐや姫が月の人々に抗しきれず月に還って行ったのに対し、本作のクボや父母は地球で暮らすために徹底的に戦い続けたことだ。クボの父ハンゾウは炎を吐く怪鳥《波山(ばさん)》と戦い、クボは妖怪《がしゃどくろ》らと戦った。
その波瀾万丈の物語は、冒頭でクボが披露したハンゾウの武勇伝を前史とすることで親子二代にわたる年代記となり、たった103分の映画とは思えないほどの奥深さと広がりを見せる。
国枝史郎の伝奇小説を彷彿とさせる、極上の娯楽作だ。
だが、私がもっとも心惹かれたのは、その結末だ。
怪人、妖怪が跋扈する冒険譚で、こんな終わり方があっただろうか。
《月の帝》との決戦の末にクボがたどり着いた結論は、《月の帝》を殺すことではなかった。《月の帝》を捕らえることでもなかった。謝罪させることでも、罪を償わせることでもなかった。
《月の帝》に村を破壊され、怯えていた人々がやったのは、《月の帝》を褒めることだ。《月の帝》がいかに優しい人か、思いやりがあるか、気前がいいかを説き、口を揃えて褒めそやした。
ラスボスを褒めたてて終わる映画は珍しいだろう。
中国ではこのように皇帝を扱ってきたと、与那覇潤氏は著書『中国化する日本』で説明している。
宋朝以降の中国では、皇帝なり官僚なりの権力基盤の正統性が朱子学思想に置かれており、それゆえ権力者は朱子学の理念に相応しい振る舞いを求められた。朱子学では、世界普遍的な道徳の教えをもっともよく身に付けた聖人こそが権力者として選ばれるという理屈になっているので、権力者の行動は常に朱子学の理念により統制されるというのだ。
同様の扱いは、現代社会でも目にすることができる。就任間もない米大統領バラク・オバマのノーベル平和賞受賞が、その好例だろう。
ノルウェー・ノーベル委員会は、世界最強の軍事国家アメリカ合衆国の最高権力者を、もっとも平和に貢献する人物として称えることで、エールを送るとともに縛りをかけた。ノーベル平和賞受賞者となったオバマ大統領は、その任期中に現職大統領としてははじめて広島を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。
日本国の象徴天皇制も 外国から見たら同じように感じられるかもしれない。かつては天皇が国の統治者とされた時代もあったが、20世紀の大戦争の後に誕生した日本国では、天皇が日本国民統合のシンボルとされている。すべての日本国民から国のシンボルとしての期待が天皇に向けられており、天皇はそれに応えていかなければならない。
紆余曲折はあるものの、日本国が70年以上にわたり平和を保ってこられた要因の一つには、この象徴天皇制もあるかもしれない。
そう考えると、敵が《月の帝》であることも象徴的だ。日の丸を掲げる日本は、太陽を信仰する国とも云われる。クボの母が逃げ出した月の世界とは、日本の裏返しなのだろう。そして、戦いを経た《月の帝》が、みんなの期待に応えつつ地上で平和に暮らしていくのは、シンボルとなった天皇の下で平和を念願する日本国を表しているかのようだ。
廃墟と化した村の住人たちが、《月の帝》ことライデンとともに平和な暮らしに踏み出す様を見て、私は涙が止まらなかった。
■日本語吹替版だけの魅力
最後に音楽に触れておこう。
外国映画が日本で公開される際に、しばしば日本版の主題歌が付けられてしまうことがある。その良し悪しはともかく、できれば制作された本国と同じものを鑑賞したい私にとって、日本版で異なる曲が付けられるのは残念だった。
ところが、本作ばかりはそうではなかった。
本作の主題歌は、ジョージ・ハリスン作詞作曲の「While My Guitar Gently Weeps」。ビートルズが1968年に発表した作品だ。それをレジーナ・スペクターの歌とケヴィン・メッツの三味線演奏でカバーした曲が本作のエンディングに流れるのだが、日本語吹替版では三味線奏者の吉田兄弟がカバーしたバージョンに変えられている。これがとびっきりにいいのだ。三味線の音色の力強さと物悲しさが、実に映画に合っている。元の主題歌もいいけれど、吉田兄弟の演奏はそれに勝るとも劣らぬ素晴らしさだ。
制作会社ライカからの「吉田兄弟とタッグを組みたい」とのラブコールにより実現したというこの組み合わせ。
日本語吹替版が優れている稀有な例として、日本で聴けることを存分に楽しみたい。
[*1] パンフレットより
[*2] 三船敏郎さん演じる菊千代が最終決戦で被っていたカナ面(メン)について、黒澤明監督と宮崎駿監督はこんな会話を交わしている。
宮崎 あれはちょっと時代が違いますよね。
黒澤 ちょっと違います。鎌倉ですね、あれは。
宮崎 全部ご存知で嘘ついてるから(笑)。
――黒澤明・宮崎駿 (1993) 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 徳間書店
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 [か行]
監督・制作/トラヴィス・ナイト
原案/シャノン・ティンドル、マーク・ヘイムズ
出演/アート・パーキンソン シャーリーズ・セロン マシュー・マコノヒー レイフ・ファインズ ルーニー・マーラ ジョージ・タケイ ケイリー=ヒロユキ・タガワ
日本語吹替版の出演/矢島晶子 田中敦子 ピエール瀧 羽佐間道夫 川栄李奈 小林幸子
日本公開/2017年11月18日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
どこから褒めればいいだろう。
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は、そう悩んでしまうほど素晴らしい。
■驚異の映像
まず目をみはるのが映像の美しさと迫力だ。制作会社ライカの過去の作品、『コララインとボタンの魔女 3D』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』も素晴らしかったが、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はそれらさえ凌駕する。
その魅力の源が、ストップモーション・アニメーションにあることは間違いない。
2010年代は3DCGのアニメーション映画が盛んだった。3DCGの映像は年々緻密になり、リアリティを増していた。しかし、本作の質感や奥行の広がりを前にしては、まだまだストップモーション・アニメーションの映像に軍配を上げざるを得ない。
何より題材の選び方が秀逸だ。『コララインとボタンの魔女 3D』がボタンや布を取り上げて質感を訴求したように、本作が扱うのは折り紙だ。折り紙の侍が歩き回り、折り紙の小鳥が群れをなす。あたかもそこにあるような、手に触れられるような存在感には舌を巻く。
そも、アニメート(animate)とは、「動かす」「生命を与える」という意味だ。本来動かないはずのものが、アニメーターによって命を吹き込まれ、生き物のように動き出す。そこにアニメーションの感動がある。実写と見まがう精緻な3DCGの素晴らしさもさることながら、折って飾るだけの折り紙が生き生きと動き出す様にはワクワクしてしまう。もちろん、人形たちの織り成す人間ドラマが魅力的であることは云うまでもない。
トラヴィス・ナイト監督は、主人公クボは自分たちアニメーターの分身であると述べている。辻講釈で食べているクボは、過去の出来事を語るストーリーテラーであり、折り紙を操る芸術家であり、三味線を弾くミュージシャンだ。彼は折り紙に命を吹き込み、物語を演じさせる。それはストップモーション・アニメーションの制作と同じことだ。
■日本と黒澤
『コララインとボタンの魔女 3D』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』が現代の奇妙な町を舞台にしていたのに対し、本作が中世を舞台にしたファンタジーなのも嬉しい。作品が現代を離れるほどに、作り手は多くのものを考案し、作り上げねばならないだろう。だから作り手の苦労はたいへんになるだろうが、その分だけ観客にとっては見応えが増す。
本作で描かれるのは、日本のような国である。侍が闊歩するファンタジーといえば、『47RONIN』のように幻想的な世界をこしらえた作品もあるけれど、本作は平安時代の日本を調べた上で作られている。パンフレットによれば、日本の皇室の衣装、特に江戸時代のものも調査したそうだ。必要に応じて、日本文化のコンサルタントを招くなどして、本作は日本の建築や服や町並みを再現している。劇中の祖先崇拝や灯籠流し等の描写は、調査が日本人の精神風土にまで踏み込んでいたことを示している。
8歳のときに日本を訪れ、日本の文化に魅入られたというトラヴィス・ナイト監督は、「子供の頃にみんながサッカーやミニカーで遊んでいるだろ?そんな時に僕は、黒澤(映画)が描いた侍たちのことを想像して、遥か遠い日本を夢見ていたよ」と語る。[*1]
ナイト監督のオススメの映画は、黒澤明監督の『用心棒』、『七人の侍』、『蜘蛛巣城』と『羅生門』だ。なるほど、平安時代の宮中の女性のような衣裳[*1]に身を包んだクボの母サリアツや、笠をかぶって顔を隠した叔母たちのイメージは、『羅生門』の京マチ子さんから来ているのだろう。強力無双の武芸者であり、また一城の主でありながら、ひょうきんでおっちょこちょいの父ハンゾウは、三船敏郎さんが源流だ。パンフレットには「『七人の侍』の三船敏郎に敬意を表し、彼に似せ」たとしか書かれていないが、半人前でおっちょこちょいの『七人の侍』の菊千代だけでなく、凄腕の用心棒や蜘蛛巣城の城主のイメージも重ねられたに違いない。
ナイト監督は、「本作はライカから日本へのラブレターのつもりで制作した」とまで云う。
しかし、私は、本作が日本を取り上げているから応援しようとは思わない。舞台が日本だったり、日本の人々を描いていても、それは単に映画の素材だ。
私が本作を応援したいのは、素材を活かしながら極めて高い完成度の作品に仕上げているからだ。そして、本作が訴える格調高いテーマに共感するからだ。
だいいち、そんなに日本映画が大好きで、日本に人を送ったりコンサルタントを招いたりして日本のことを調べているのに、本作の時代考証はゆるゆるだ。
クボの母が平安時代の着物を着ている一方で、村人たちは帯の大きい江戸時代のような着物を着ている。しかも、庶民の身でありながら、色鮮やかで凝った模様の着物ばかり。誰も彼もがこんな上等な着物を着ているなんて、まるで日本の時代劇ドラマのようだ。
これは仕方のないところかもしれない。日本でさえ、NHKの大河ドラマ『平清盛』が時代考証を重視して昔の日本のみすぼらしさ、不衛生ぶりを誠実に描いたら、「画面が汚い」などと文句を付けられたのだ。当時は裸同然の人もいただろうから、服を着ているだけマシなほうだと思うのだが、きれいで清潔な服を着られるようになった現代人は、過去の人にも今のスタンダードを求めてしまう。
そんな現実離れした作品が期待される世の中だから、本作の世界の住人が時代錯誤の美しい服を着ていても、日本の時代劇並みと思えば問題あるまい。
とはいえ、村の祭の盆踊りで、「炭坑節」が流れるのには笑ってしまった。今でこそ盆踊りの定番となった「炭坑節」だが、これは昭和期にはやった曲だ。近世以前の祭に流れているはずがない。
おそらくは、これも意図的なのだろう。盆踊りすらなかった平安時代の歌や踊りの再現に努めたところで、日本人でさえそれがなんだか判るまい。それに「月が出た出た、月が出た♪」という「炭坑節」の歌詞は、《月の帝》と戦う主人公の運命を示唆することにもなる。あえて「炭坑節」を選んだのは、優れた選択といえるだろう。
また、平安時代風の母からクボに受け継がれるものは、三味線より琵琶のほうが似合いそうだが、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』では弦の数が重要な伏線になっているから、あえて三味線にしたのだと思う。
リアリズムを重んじる黒澤明監督の『七人の侍』でさえ、戦国時代が舞台なのに鎌倉時代の武具を付けたりしている。[*2]
この自由奔放さを、トラヴィス・ナイト監督はしっかりと受け継いでいる。
■黒澤映画の継承者
クボは赤ん坊のときから片眼がない。冷酷な祖父《月の帝》に取られたのだという。
残りの眼も奪おうと、祖父と配下の叔母たちがクボを付け狙っている。
クボの隻眼の設定は、独眼竜政宗と柳生十兵衛に敬意を表したものだ。[*1]
体の一部が奪われるのは、怪談『耳なし芳一』のようでもあるが、なによりクボが障碍を持っていることが重要だったのだろう。『ヒックとドラゴン』の主人公ヒックには片足がない。クボもまた障碍を持つ主人公の系譜に連なっている。障碍があっても、差別されたり不利益を被ったりすることなく生活できる世の中であるべきだという作り手の信念が、このような人物像を世界に発信させているのだろう。
黒澤明を神のように崇めるトラヴィス・ナイト監督は、黒澤映画から多くのものを学んだ。それは、カメラの動きや構成、構図、照明等の多岐にわたるが、それ以上に欲したのは、黒澤が映画を通じて探求したテーマを本作でも探求することだったという。それは、ヒューマニズム、ヒロイズム、実存主義、大胆な理想といったものだ。
本作は、まぎれもなく黒澤明のヒューマニズムを継承している。
それは題名にも表れていよう。
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の原題は『Kubo and the Two Strings』である。「クボと二本の弦」という意味だ。
邦題だと「クボ」と「二本の弦の秘密」が分かれていて、別々のことを指すように見えてしまうが、本来は一つ、つまり「クボ」と「二本の弦」が一緒に並んでいるわけで、「クボと二本の弦」はすなわち「三本の弦」ということだ。
クボが三味線使いであることからも、クボを含めた三本の弦が一緒にいることが本作のテーマとなっている。
もちろん、三本の弦とはクボと父と母であり、両親の愛が共にあるとき、クボは最強の力を発揮する。
けれどもそれは、必ずしも親子三人で仲良く暮らすことではない。映画を最後まで観た方はお判りだろう。人間はいつかは一人で生きていかなければならない。だが、どんな人間にだって、彼/彼女を産み、育んでくれた人がいるはずだ。その人たちの想いがあれば、人は孤独ではないのだ。
それは同時に、孤独な人を放っておいてはいけない、想いを伝えなければいけないということでもある。
■現実からフィクションへ、フィクションから現実へ
ストーリーテラーのクボを主人公に据えた本作は、物語の力も重要なテーマとしている。
もちろん、本作のストーリーもべらぼうに面白い。
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の原型は、キャラクターデザイナーのシャノン・ティンドルが、紙彫刻家の妻ミーガン・ブレインのために作ったお話だ。若くして認知症になり、車椅子の生活を余儀なくされた母を介護しながら生きてきたミーガンのために、シャノン・ティンドルは彼ら親子の関係をモデルにした絵物語を描いてプレゼントしたのだ。
それから十余年を経て、物語の構想が膨らんだシャノン・ティンドルは、日本の説話に触発されながら、クボと母のお伽ばなしを壮大な叙事詩に仕立て上げた。妻ミーガンもスタッフに加わり、紙彫刻家としての腕を振るって、折り紙の造形を行った。
「この家族の物語は、(全部とは云わないけれど)私の家族で作りました」とシャノン・ティンドルは綴っている。本作には、並々ならぬ想い入れがあるのだろう。
完成した『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は、一種の貴種流離譚になっている。
クボは何があっても日暮れまでに洞窟に戻らなければならない。夜になると、一族の住む月の世界からクボの姿が見えてしまうからだ。
本作は『かぐや姫の物語』に通じるところがある。高貴な人々が住む月の世界と、卑しい者たちが住む地球。月の人が地球の人間に接して、心を通わせてしまったことから生じる波乱。
『かぐや姫の物語』と違うのは、かぐや姫が月の人々に抗しきれず月に還って行ったのに対し、本作のクボや父母は地球で暮らすために徹底的に戦い続けたことだ。クボの父ハンゾウは炎を吐く怪鳥《波山(ばさん)》と戦い、クボは妖怪《がしゃどくろ》らと戦った。
その波瀾万丈の物語は、冒頭でクボが披露したハンゾウの武勇伝を前史とすることで親子二代にわたる年代記となり、たった103分の映画とは思えないほどの奥深さと広がりを見せる。
国枝史郎の伝奇小説を彷彿とさせる、極上の娯楽作だ。
だが、私がもっとも心惹かれたのは、その結末だ。
怪人、妖怪が跋扈する冒険譚で、こんな終わり方があっただろうか。
《月の帝》との決戦の末にクボがたどり着いた結論は、《月の帝》を殺すことではなかった。《月の帝》を捕らえることでもなかった。謝罪させることでも、罪を償わせることでもなかった。
《月の帝》に村を破壊され、怯えていた人々がやったのは、《月の帝》を褒めることだ。《月の帝》がいかに優しい人か、思いやりがあるか、気前がいいかを説き、口を揃えて褒めそやした。
ラスボスを褒めたてて終わる映画は珍しいだろう。
中国ではこのように皇帝を扱ってきたと、与那覇潤氏は著書『中国化する日本』で説明している。
宋朝以降の中国では、皇帝なり官僚なりの権力基盤の正統性が朱子学思想に置かれており、それゆえ権力者は朱子学の理念に相応しい振る舞いを求められた。朱子学では、世界普遍的な道徳の教えをもっともよく身に付けた聖人こそが権力者として選ばれるという理屈になっているので、権力者の行動は常に朱子学の理念により統制されるというのだ。
同様の扱いは、現代社会でも目にすることができる。就任間もない米大統領バラク・オバマのノーベル平和賞受賞が、その好例だろう。
ノルウェー・ノーベル委員会は、世界最強の軍事国家アメリカ合衆国の最高権力者を、もっとも平和に貢献する人物として称えることで、エールを送るとともに縛りをかけた。ノーベル平和賞受賞者となったオバマ大統領は、その任期中に現職大統領としてははじめて広島を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。
日本国の象徴天皇制も 外国から見たら同じように感じられるかもしれない。かつては天皇が国の統治者とされた時代もあったが、20世紀の大戦争の後に誕生した日本国では、天皇が日本国民統合のシンボルとされている。すべての日本国民から国のシンボルとしての期待が天皇に向けられており、天皇はそれに応えていかなければならない。
紆余曲折はあるものの、日本国が70年以上にわたり平和を保ってこられた要因の一つには、この象徴天皇制もあるかもしれない。
そう考えると、敵が《月の帝》であることも象徴的だ。日の丸を掲げる日本は、太陽を信仰する国とも云われる。クボの母が逃げ出した月の世界とは、日本の裏返しなのだろう。そして、戦いを経た《月の帝》が、みんなの期待に応えつつ地上で平和に暮らしていくのは、シンボルとなった天皇の下で平和を念願する日本国を表しているかのようだ。
廃墟と化した村の住人たちが、《月の帝》ことライデンとともに平和な暮らしに踏み出す様を見て、私は涙が止まらなかった。
■日本語吹替版だけの魅力
最後に音楽に触れておこう。
外国映画が日本で公開される際に、しばしば日本版の主題歌が付けられてしまうことがある。その良し悪しはともかく、できれば制作された本国と同じものを鑑賞したい私にとって、日本版で異なる曲が付けられるのは残念だった。
ところが、本作ばかりはそうではなかった。
本作の主題歌は、ジョージ・ハリスン作詞作曲の「While My Guitar Gently Weeps」。ビートルズが1968年に発表した作品だ。それをレジーナ・スペクターの歌とケヴィン・メッツの三味線演奏でカバーした曲が本作のエンディングに流れるのだが、日本語吹替版では三味線奏者の吉田兄弟がカバーしたバージョンに変えられている。これがとびっきりにいいのだ。三味線の音色の力強さと物悲しさが、実に映画に合っている。元の主題歌もいいけれど、吉田兄弟の演奏はそれに勝るとも劣らぬ素晴らしさだ。
制作会社ライカからの「吉田兄弟とタッグを組みたい」とのラブコールにより実現したというこの組み合わせ。
日本語吹替版が優れている稀有な例として、日本で聴けることを存分に楽しみたい。
[*1] パンフレットより
[*2] 三船敏郎さん演じる菊千代が最終決戦で被っていたカナ面(メン)について、黒澤明監督と宮崎駿監督はこんな会話を交わしている。
宮崎 あれはちょっと時代が違いますよね。
黒澤 ちょっと違います。鎌倉ですね、あれは。
宮崎 全部ご存知で嘘ついてるから(笑)。
――黒澤明・宮崎駿 (1993) 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 徳間書店
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 [か行]
監督・制作/トラヴィス・ナイト
原案/シャノン・ティンドル、マーク・ヘイムズ
出演/アート・パーキンソン シャーリーズ・セロン マシュー・マコノヒー レイフ・ファインズ ルーニー・マーラ ジョージ・タケイ ケイリー=ヒロユキ・タガワ
日本語吹替版の出演/矢島晶子 田中敦子 ピエール瀧 羽佐間道夫 川栄李奈 小林幸子
日本公開/2017年11月18日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : トラヴィス・ナイトアート・パーキンソンシャーリーズ・セロンマシュー・マコノヒーレイフ・ファインズルーニー・マーラ矢島晶子田中敦子ピエール瀧羽佐間道夫