『フューリー』 悔しいほどの3つのこと
悔しいなぁ。
『フューリー』を上映している135分間、私は歯軋りしたいくらいだった。
これは日本じゃ撮れない映画だ。
デヴィッド・エアー監督・脚本の『フューリー』は、ナチス・ドイツ崩壊目前の1945年4月における、戦車フューリー(憤激)号に乗り込む5人の男たちの物語である。敵地ドイツの奥深く進撃する彼らは、友軍を次々に失い孤立していく。その戦いの酷さをこれでもかと描くのが本作の特徴だ。
あくまで娯楽作だから、アクション映画の定石は外していない。とりわけ戦車の描き方にこだわって、野戦、市街戦、ティーガー対シャーマンの戦車戦と、様々な状況で戦車の活躍を見せてくれる。たった5人で300人の武装親衛隊を食い止める戦闘など、『ローン・サバイバー』の4人対200人や、『300 <スリーハンドレッド>』の300人対100万人に連なる、今はやりのシチュエーションだ。英ボービントン戦車博物館のティーガーI(VI号戦車)やシャーマン(M4中戦車)を引っ張り出した本物の映像は見応えがある。
だが、印象的なのは戦車アクションよりも男たちの葛藤だ。特に新兵ノーマンの言動が興味深い。
本作は"ウォーダディー"ことドン・コリアー車長の下に副操縦手としてノーマンが配属されるところからはじまる。
ノーマンは入隊してまだ八週間、実戦経験のない若者だ。敵兵の接近に気づいても、あどけなさの残る少年兵に銃を向けられず、結果、味方に甚大な被害をもたらしてしまう。発砲をためらうノーマンに激怒したコリアーは、ドイツ兵捕虜を殺せと命じ、無理矢理ノーマンに銃を持たせて殺させる。
本作序盤のこの展開に、殺すのをためらったら殺される戦争の過酷さを見る人もいるだろう。無理矢理捕虜を殺させるコリアーを強引だと感じつつも、殺しに慣れなければならないのが戦争だと嘆息する人もいるだろう。
しかし、私が目をみはったのは、コリアーの命令に敢然と歯向かうノーマンの勇気だ。
上官の命令に背くのは、通常なら重大な違反行為だ。ましてや、自分の失敗で友軍に犠牲を出したばかり。その反省を強いられ、ちゃんと敵兵を殺せと叱責される中で、捕虜銃殺を堂々と拒んだノーマン。
捕虜を殺すのはジュネーブ条約に反しており、本来はノーマンが正しい。だが、ノーマンの「ためらい」のために自軍を殺されたコリアーにしてみれば、ノーマンには即座に敵兵を殺せる男になったもらわなければ困る。ここは戦場なのだ。
それでもノーマンは、コリアーに怒鳴られれば怒鳴り返し、力づくで銃を持たされれば力づくで抵抗し、あくまでコリアーの命令を拒む。
これは日本映画では描けない人物像だ。描いても現実感が伴わないだろう。
大島渚監督は『戦場のメリークリスマス』で、個人として抵抗を貫く英国兵と、捕虜虐待を責められて「他の兵士と同じことをしただけなんです」と云い訳する日本兵を対比してみせた。
本作と同じように上官から捕虜の処刑を命じられた『私は貝になりたい』の主人公清水は、渋々ながら命令に従うものの、うまく殺せない。堂々と反抗するのではなく、渋々従うあたりが日本での限界だろう。喜んでやったわけじゃない、自分は致命傷を負わせなかった、と弁解することで、お目こぼしを請うているのだ。
けれどもハッキリ拒絶しなければ、従ったことに変わりはない。下手人の一人とみなされても仕方がない。
ジョナサン・テプリツキー監督の『レイルウェイ 運命の旅路』では、元日本兵が戦争中のことを振り返って「我々は――」と話しはじめると、元英国兵に「私は、だ」と遮られる。多くの捕虜が死んだと口にすると、「殺された、だろ」と訂正される。
みんなでやったかどうかに関係なく、個人として何を考え、どう行動したかを問い詰められる。
ここで特徴的なのは、村八分を恐れながら集団に埋没する日本人像――よりも、神によって個人が救済されるキリスト教のエートス(倫理)を基礎とする欧米人の姿だろう。上官や戦車仲間にどう思われるか、どう扱われるかより重要なのは、神の前で恥ずかしくない態度でいることだ。
クリスチャンのデヴィッド・エアー監督は、砲手のボイド・"バイブル"・スワンの口を通して全編に聖書の引用を散りばめ、戦争中でも神がそばにいることを思い出させる。
さらに私が注目したのは、市街戦後に描かれるドイツ市民との交流だ。
ドイツ兵は敵だけど、非戦闘員まで憎むことはない。ノーマンとドイツ娘との交流は、むごい戦闘が続く本作において、唯一安らぐシークエンスだ。
それだけに安らぎが長続きしない戦争のむごさが印象的だが、ここで真にむごいのは街を破壊し人を死に至らしめる砲撃や空爆ではなく、食事時に乱入する米国兵である。ノーマンとコリアーがドイツ人母娘と静かに食卓を囲もうとしているのに、それを邪魔する戦車仲間の下品さはどうだ。ほとんど描写のないドイツ兵よりも、この米国兵たちにこそ嫌悪を感じる。
米独の戦争を描いた映画で、米国側を、しかも主人公が生死をともにする仲間たちをこれほどクズ扱いするとは驚きだ。
こんな映画を日本で撮れるだろうか。
かの有名な戦陣訓は中国戦線に赴いた日本兵の乱暴狼藉を戒めるために作られたというが、日本映画で日本兵のクズっぷりや、中国人への乱暴狼藉が描かれることはあまりない。
アクション映画の定石を外さないデヴィッド・エアー監督は、ストーリーをどんどん先へ進めてしまうけれど、自軍の兵士の醜さはしっかりと印象に残す。だからこそ彼らの人間味とのギャップに、そのギャップを生じさせる戦争と云うものについて考えさせられる。
デヴィッド・エアー監督は、個人と仲間との距離感について深く考察したのだろう。集団への帰属意識、仲間意識が強すぎたら、仲間をクズとして描くと本人もクズに見えてしまう。他方、あまりに独立した個人を描くと、周囲のクズっぷりが響いてこない。
こんなクズでも仲間だから、悲しくて情けなくてやり切れない。その微妙な距離感を、エアー監督は見事に描いた。
そして注目すべき三つめの点は、敵軍の描き方だ。
本作はアクション映画だから、けちょんけちょんにやっつける敵が必要だ。キャプテン・アメリカがドイツ人や日本人と戦ったように、第二次世界大戦絡みの敵役といえば、ナチス・ドイツか大日本帝国と相場が決まっている。本作でも、いかにドイツをやっつけるかが見どころになっている。
ところが、本作で目に付くのは、木や軒先に吊るされたドイツ市民だ。彼らは「私は戦争なのに戦わない臆病者です」「私は子供たちを戦争に行かせません」と書かれた札を下げている。戦いを拒んだために殺された人々だ。映画が進行するにつれ、吊るされた人の数は増していく。この描写は、ドイツ人のすべてが戦争に加担したわけではないことを示している。加えてノーマンたちと交流する市民の姿から、ドイツの市民もまた戦争の被害者であることが強調される。
一方、映画が敵意を向けるのはSS(親衛隊)だ。彼らの描き方には容赦がない。本作では、戦争を強制する非道なSSと、その犠牲になった一般市民という構図が描かれる。
なるほど、そうきたか。
ハンナ・アーレントが云うように、戦争犯罪を引き起こすのは悪魔のような特殊な人間ではない。職務に忠実な平凡な人間が、粛々と残虐なことを行うのだ。国民総出で戦争する総力戦において、SSだけが特別悪くて、市民はみんな哀れな犠牲なんてことはあり得ない。
それは映画の作り手も承知だろうが、本作ではあえて市民を犠牲者と位置付ける。ドイツ軍ですら悪者ではない。SSは国家の軍隊ではなく、中国人民解放軍が中国共産党の軍事組織であるように、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党内武装勢力だ。そのごく一握りの連中だけを悪者にして、映画は激戦を描く。
こうすることで本作は、多くのドイツ人に逃げ道を用意した。戦争経験者やその家族遺族に、大多数のドイツの人々に、あなた方は悪くないと伝えている。
2500年前の古代ペルシアと古代ギリシアの戦争を描いた『300 <スリーハンドレッド>』でさえ、現代のイラン人を不快にさせてしまうのだ。本作は同じ轍を踏まないように、細心の注意を払っている。
本作の配慮はそれだけに留まらない。最後の最後にSS隊員の情け深さを見せることで、SSもまた悪者ばかりではないことを示す。
なんということだろう。本作はドイツとの戦いを描きながら、敵から一般市民を除き、ドイツ軍も除き、SSも敵対すべき悪魔ではないとした。敵はいなくなってしまった!
アクション映画である本作は、緩急を心得た演出と迫力ある戦闘シーンで楽しませてくれる。にもかかわらず、悪いヤツをやっつけてスカッとする映画ではない。何しろ悪いヤツはいないのだから。
後に残るのは、ただ戦争のむごたらしさだけだ。
戦争もまた人間が営む行為の一つでしかないのだが、本作はあたかも"戦争"という存在がいるかのようにその恐ろしさを強調し、個々の人間に罪を被せることをしない。
本作で本当に戦う相手は、SSでもティーガー戦車でもないのだ。
これは人間の持つエートスへの信頼を取り戻す戦いなのだ。
『フューリー』 [は行]
監督・制作・脚本/デヴィッド・エアー
出演/ブラッド・ピット シャイア・ラブーフ ローガン・ラーマン マイケル・ペーニャ ジョン・バーンサル ジェイソン・アイザックス スコット・イーストウッド アナマリア・マリンカ アリシア・フォン・リットベルク
日本公開/2014年11月28日
ジャンル/[アクション] [戦争]
『フューリー』を上映している135分間、私は歯軋りしたいくらいだった。
これは日本じゃ撮れない映画だ。
デヴィッド・エアー監督・脚本の『フューリー』は、ナチス・ドイツ崩壊目前の1945年4月における、戦車フューリー(憤激)号に乗り込む5人の男たちの物語である。敵地ドイツの奥深く進撃する彼らは、友軍を次々に失い孤立していく。その戦いの酷さをこれでもかと描くのが本作の特徴だ。
あくまで娯楽作だから、アクション映画の定石は外していない。とりわけ戦車の描き方にこだわって、野戦、市街戦、ティーガー対シャーマンの戦車戦と、様々な状況で戦車の活躍を見せてくれる。たった5人で300人の武装親衛隊を食い止める戦闘など、『ローン・サバイバー』の4人対200人や、『300 <スリーハンドレッド>』の300人対100万人に連なる、今はやりのシチュエーションだ。英ボービントン戦車博物館のティーガーI(VI号戦車)やシャーマン(M4中戦車)を引っ張り出した本物の映像は見応えがある。
だが、印象的なのは戦車アクションよりも男たちの葛藤だ。特に新兵ノーマンの言動が興味深い。
本作は"ウォーダディー"ことドン・コリアー車長の下に副操縦手としてノーマンが配属されるところからはじまる。
ノーマンは入隊してまだ八週間、実戦経験のない若者だ。敵兵の接近に気づいても、あどけなさの残る少年兵に銃を向けられず、結果、味方に甚大な被害をもたらしてしまう。発砲をためらうノーマンに激怒したコリアーは、ドイツ兵捕虜を殺せと命じ、無理矢理ノーマンに銃を持たせて殺させる。
本作序盤のこの展開に、殺すのをためらったら殺される戦争の過酷さを見る人もいるだろう。無理矢理捕虜を殺させるコリアーを強引だと感じつつも、殺しに慣れなければならないのが戦争だと嘆息する人もいるだろう。
しかし、私が目をみはったのは、コリアーの命令に敢然と歯向かうノーマンの勇気だ。
上官の命令に背くのは、通常なら重大な違反行為だ。ましてや、自分の失敗で友軍に犠牲を出したばかり。その反省を強いられ、ちゃんと敵兵を殺せと叱責される中で、捕虜銃殺を堂々と拒んだノーマン。
捕虜を殺すのはジュネーブ条約に反しており、本来はノーマンが正しい。だが、ノーマンの「ためらい」のために自軍を殺されたコリアーにしてみれば、ノーマンには即座に敵兵を殺せる男になったもらわなければ困る。ここは戦場なのだ。
それでもノーマンは、コリアーに怒鳴られれば怒鳴り返し、力づくで銃を持たされれば力づくで抵抗し、あくまでコリアーの命令を拒む。
これは日本映画では描けない人物像だ。描いても現実感が伴わないだろう。
大島渚監督は『戦場のメリークリスマス』で、個人として抵抗を貫く英国兵と、捕虜虐待を責められて「他の兵士と同じことをしただけなんです」と云い訳する日本兵を対比してみせた。
本作と同じように上官から捕虜の処刑を命じられた『私は貝になりたい』の主人公清水は、渋々ながら命令に従うものの、うまく殺せない。堂々と反抗するのではなく、渋々従うあたりが日本での限界だろう。喜んでやったわけじゃない、自分は致命傷を負わせなかった、と弁解することで、お目こぼしを請うているのだ。
けれどもハッキリ拒絶しなければ、従ったことに変わりはない。下手人の一人とみなされても仕方がない。
ジョナサン・テプリツキー監督の『レイルウェイ 運命の旅路』では、元日本兵が戦争中のことを振り返って「我々は――」と話しはじめると、元英国兵に「私は、だ」と遮られる。多くの捕虜が死んだと口にすると、「殺された、だろ」と訂正される。
みんなでやったかどうかに関係なく、個人として何を考え、どう行動したかを問い詰められる。
ここで特徴的なのは、村八分を恐れながら集団に埋没する日本人像――よりも、神によって個人が救済されるキリスト教のエートス(倫理)を基礎とする欧米人の姿だろう。上官や戦車仲間にどう思われるか、どう扱われるかより重要なのは、神の前で恥ずかしくない態度でいることだ。
クリスチャンのデヴィッド・エアー監督は、砲手のボイド・"バイブル"・スワンの口を通して全編に聖書の引用を散りばめ、戦争中でも神がそばにいることを思い出させる。
さらに私が注目したのは、市街戦後に描かれるドイツ市民との交流だ。
ドイツ兵は敵だけど、非戦闘員まで憎むことはない。ノーマンとドイツ娘との交流は、むごい戦闘が続く本作において、唯一安らぐシークエンスだ。
それだけに安らぎが長続きしない戦争のむごさが印象的だが、ここで真にむごいのは街を破壊し人を死に至らしめる砲撃や空爆ではなく、食事時に乱入する米国兵である。ノーマンとコリアーがドイツ人母娘と静かに食卓を囲もうとしているのに、それを邪魔する戦車仲間の下品さはどうだ。ほとんど描写のないドイツ兵よりも、この米国兵たちにこそ嫌悪を感じる。
米独の戦争を描いた映画で、米国側を、しかも主人公が生死をともにする仲間たちをこれほどクズ扱いするとは驚きだ。
こんな映画を日本で撮れるだろうか。
かの有名な戦陣訓は中国戦線に赴いた日本兵の乱暴狼藉を戒めるために作られたというが、日本映画で日本兵のクズっぷりや、中国人への乱暴狼藉が描かれることはあまりない。
アクション映画の定石を外さないデヴィッド・エアー監督は、ストーリーをどんどん先へ進めてしまうけれど、自軍の兵士の醜さはしっかりと印象に残す。だからこそ彼らの人間味とのギャップに、そのギャップを生じさせる戦争と云うものについて考えさせられる。
デヴィッド・エアー監督は、個人と仲間との距離感について深く考察したのだろう。集団への帰属意識、仲間意識が強すぎたら、仲間をクズとして描くと本人もクズに見えてしまう。他方、あまりに独立した個人を描くと、周囲のクズっぷりが響いてこない。
こんなクズでも仲間だから、悲しくて情けなくてやり切れない。その微妙な距離感を、エアー監督は見事に描いた。
そして注目すべき三つめの点は、敵軍の描き方だ。
本作はアクション映画だから、けちょんけちょんにやっつける敵が必要だ。キャプテン・アメリカがドイツ人や日本人と戦ったように、第二次世界大戦絡みの敵役といえば、ナチス・ドイツか大日本帝国と相場が決まっている。本作でも、いかにドイツをやっつけるかが見どころになっている。
ところが、本作で目に付くのは、木や軒先に吊るされたドイツ市民だ。彼らは「私は戦争なのに戦わない臆病者です」「私は子供たちを戦争に行かせません」と書かれた札を下げている。戦いを拒んだために殺された人々だ。映画が進行するにつれ、吊るされた人の数は増していく。この描写は、ドイツ人のすべてが戦争に加担したわけではないことを示している。加えてノーマンたちと交流する市民の姿から、ドイツの市民もまた戦争の被害者であることが強調される。
一方、映画が敵意を向けるのはSS(親衛隊)だ。彼らの描き方には容赦がない。本作では、戦争を強制する非道なSSと、その犠牲になった一般市民という構図が描かれる。
なるほど、そうきたか。
ハンナ・アーレントが云うように、戦争犯罪を引き起こすのは悪魔のような特殊な人間ではない。職務に忠実な平凡な人間が、粛々と残虐なことを行うのだ。国民総出で戦争する総力戦において、SSだけが特別悪くて、市民はみんな哀れな犠牲なんてことはあり得ない。
それは映画の作り手も承知だろうが、本作ではあえて市民を犠牲者と位置付ける。ドイツ軍ですら悪者ではない。SSは国家の軍隊ではなく、中国人民解放軍が中国共産党の軍事組織であるように、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党内武装勢力だ。そのごく一握りの連中だけを悪者にして、映画は激戦を描く。
こうすることで本作は、多くのドイツ人に逃げ道を用意した。戦争経験者やその家族遺族に、大多数のドイツの人々に、あなた方は悪くないと伝えている。
2500年前の古代ペルシアと古代ギリシアの戦争を描いた『300 <スリーハンドレッド>』でさえ、現代のイラン人を不快にさせてしまうのだ。本作は同じ轍を踏まないように、細心の注意を払っている。
本作の配慮はそれだけに留まらない。最後の最後にSS隊員の情け深さを見せることで、SSもまた悪者ばかりではないことを示す。
なんということだろう。本作はドイツとの戦いを描きながら、敵から一般市民を除き、ドイツ軍も除き、SSも敵対すべき悪魔ではないとした。敵はいなくなってしまった!
アクション映画である本作は、緩急を心得た演出と迫力ある戦闘シーンで楽しませてくれる。にもかかわらず、悪いヤツをやっつけてスカッとする映画ではない。何しろ悪いヤツはいないのだから。
後に残るのは、ただ戦争のむごたらしさだけだ。
戦争もまた人間が営む行為の一つでしかないのだが、本作はあたかも"戦争"という存在がいるかのようにその恐ろしさを強調し、個々の人間に罪を被せることをしない。
本作で本当に戦う相手は、SSでもティーガー戦車でもないのだ。
これは人間の持つエートスへの信頼を取り戻す戦いなのだ。
『フューリー』 [は行]
監督・制作・脚本/デヴィッド・エアー
出演/ブラッド・ピット シャイア・ラブーフ ローガン・ラーマン マイケル・ペーニャ ジョン・バーンサル ジェイソン・アイザックス スコット・イーストウッド アナマリア・マリンカ アリシア・フォン・リットベルク
日本公開/2014年11月28日
ジャンル/[アクション] [戦争]
【theme : 戦争映画(第二次世界大戦)】
【genre : 映画】
tag : デヴィッド・エアーブラッド・ピットシャイア・ラブーフローガン・ラーマンマイケル・ペーニャジョン・バーンサルジェイソン・アイザックススコット・イーストウッドアナマリア・マリンカアリシア・フォン・リットベルク
『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』 最大の弱点を克服した!
【ネタバレ注意】
パズルのピースがはまるように、『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』とピタリと合う、その構成の妙が心地好い。
テレビシリーズ全26話のうち第24話までのストーリーをまとめた(だから総集編ではない)『追憶の航海』に続いて公開された『星巡る方舟』は、第24話と第25話のあいだに位置する物語だ。
コスモリバースシステムを受け取り、イスカンダルを後にしたヤマト。沖田艦長はまだ健在で、バラン星の亜空間ゲートに向かい、大マゼラン銀河を航行していた(だから『追憶の航海』では沖田の死が描かれない)。ガミラスではデスラーが死亡したと思われており、バラバラになった軍を掌握する必要に駆られていた。
ともかくガミラスとヤマトとの戦いは終わり、一路地球を目指すだけだと考えていたヤマトクルーを襲う危機。それが『星巡る方舟』の大事件だ。
これは作り手にとって危険な挑戦だ。
第24話と第25話のあいだでは、誰が死ぬわけでもない。ヤマトが大きく損傷するわけでもない。地球を目指す状況に変わりはない。テレビシリーズの1エピソードと同列の位置付けになってしまうから、ダイナミックな展開は難しい。
けれども映画として公開するからには、112分の上映時間をもたせるだけの大きな事件が必要だ。観客も劇場映画には"テレビ以上"のものを期待する。
作品全体で一つの大きな物語になっている『宇宙戦艦ヤマト2199』で、この相反する課題を解決する難しさたるや、一話完結の刑事ドラマの劇場版とは比べ物にならないだろう。
本作公開に合わせて放映された『劇場公開記念!!「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」発進SP』において、出渕裕総監督は困難に挑戦した心情を語っている。
「あくまでテレビシリーズのときの、『2199』のときのお話の中に納まって破綻のない形にするっていうのがこだわったとこです。ヤマトの映画っていうと、どうしても次の話、次の話っていう、翌年に巨大な敵がまた攻めてきて、それをやっつけてみたいな形じゃないですか。」
「昔からご覧になってるファンの方には、驚きというか、こういう作り方ってあるのっていう、今までのヤマトの映画の作り方とは違う形になっていますけど、それはそれで新鮮な驚きとして捉えていただいて楽しんでいただければ幸いです。」
宇宙戦艦ヤマトシリーズを見てきたファンならば、出渕総監督の気持ちが痛いほど判るはずだ。
大マゼラン銀河からの侵略者ガミラス帝国を倒したら、アンドロメダ銀河から白色彗星帝国がやってきて、次には二重銀河の暗黒星団帝国と戦い、そうかと思えばいつの間にやら天の川銀河はガルマン・ガミラス帝国とボラー連邦に二分され、にもかかわらずディンギル帝国なんて勢力もちゃっかり存在している。
新作のたびに、どこにいたのか不思議なほどの大帝国が出現し、次から次へと地球を、ヤマトを襲う繰り返しに、シリーズ全体を通しての世界像が破綻していると感じたファンも少なくあるまい。
だから敢えて『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界の中で新作をつくる。新たな大帝国は出さないし、『宇宙戦艦ヤマト2199』の大きな物語から逸脱しない。時系列的にも題名の2199年の範囲に留める。そういうことをやってみたかったのだろう。
たしかにヤマトの映画としては、とても新鮮な作り方だ。
■謎は明かされた!
この目論見を実現するため、出渕総監督はテレビシリーズの制作中から周到に準備を進めた。
新作映画の制作が決まったのは第五章(第15話~第18話)を上映している頃だったので、第六章(第19話~第22話)で『星巡る方舟』に向けた種まきをはじめたという。それが第20話での桐生美影の登場であり、フォムト・バーガーの生死不明の描写だ。
しかし、もっとも大きな仕込みは、テレビシリーズで張り巡らせた伏線を回収しなかったことに違いない。『宇宙戦艦ヤマト2199』には第七章(第23話~第26話)まで観ても語られない部分があった。
私は第四章(第11話~第14話)の感想にこんなことを書いていた。
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ましてや、前述したように旧ヤマトシリーズ全体を勘案しての再配置が行われているとすると、地球人やガミラス人の来歴についても深い配慮が期待される。
『宇宙戦艦ヤマト 完結編』のディンギル人が1万年前に地球から移住した地球人類であることや、ガミラス人が天の川銀河に栄えたガルマン民族の一支族であることからも判るように、ヤマトシリーズの世界観には、はるかな過去に行われた恒星間・銀河間の移住によって現在の星間国家が成立したという考えがある。
第四章では、ガミラス人と地球人に生物としての違いはないことが示された。
「我々はどこから来てどこへ行くのか。」
本作は、ゴーギャンの言葉を模したセリフをガミラス人に語らせている。
これからガミラス人について、地球人について、どのような由来が明らかにされるのか期待は高まる。
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第五章(第15話~第18話)の感想ではこうも書いた。
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これまで地球とガミラスの星間戦争を描くミリタリーSFのカラーが強かった『宇宙戦艦ヤマト2199』は、はるかな過去へと時間軸を伸ばし、文明の栄枯盛衰まで視野に入れた宇宙史の様相を呈してきた。
思えば、『宇宙戦艦ヤマトIII』には伝説の古代国家シャルバートが登場し、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』には銀河を回遊しながら星々に生命の恵みと試練を与える惑星アクエリアスが出現した。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズは、人類の起源に遡るほどの時間的スケールを持つ作品だった。
続編ができるたびに未知の文明が登場するのはいささか辻褄が合わなかったが、ヤマトの世界を熟考した上でつくられた本作は、これら超古代文明をも包含するのだろう。
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そのため、最終章となる第七章に大いに感動しながらも、地球人やガミラス人の来歴が語られないことに、超古代文明の謎に触れていないことに、いささか拍子抜けした。
だが、それは作り手の計算だった。
超空間ネットワークを構築したといわれる古代文明アケーリアス、アケーリアスの末裔を称するジレル人。テレビシリーズでは詳しく語られなかった謎の数々が、遂に『星巡る方舟』で明かされた。
『星巡る方舟』まで観ることで、はじめて『宇宙戦艦ヤマト2199』は完結する。ようやく胸のつかえが下りた気分だ。
『2199』のアケーリアス文明は、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』の回遊惑星アクエリアスに相当しよう。回遊惑星アクエリアスが複数の輪に取り巻かれていたように、『星巡る方舟』に登場する「静謐の星」も幾つもの輪に取り巻かれている。その「静謐の星」の正体が、アケーリアス文明の超巨大恒星間播種船であるという設定には膝を打った。生命の芽を与えるアクエリアスの役回りを汲み取りつつ、巨大建造物を好むアケーリアスらしさもちゃんと備えているからだ。
加えて地球人もガミラス人もジレル人も(おそらくイスカンダル人もザルツ人も)アケーリアスの蒔いた種を起源とすることが明らかにされ、宇宙のあちこちに(生殖できるほど)酷似した生物が存在する謎も解明された。
科学的に説明がつく話ではない。アケーリアスの「種」とは具体的に何を指し、地球人やガミラス人やジレル人がいつ、どのように分岐したのか、厳密に考えれば辻褄は合いそうにない。たかだか七万年前に分岐した日本人とヨーロッパ人ですら外見が異なるのだ。科学考証の半田利弘氏がパンフレットに寄せたコラムで「ただし、ガミラス人と地球人のようにDNAまで全く同じというのは偶然が過ぎる感じです。しかも、うり二つの人物が何組もいるなんて!」と書いているのももっともだ。
だが、本作はそれで構わないのだ。
同根のはずの地球人やガミラス人やジレル人が対立したり差別し合うのは、ほんの一握りの人間を祖先とする私たち人類が、今さら異国とか異民族などと呼び合ってしまう現状のメタファーだからだ。人類は過去何度も絶滅の危機に瀕してきた。全人口が一万人くらいまで激減したこともあるといわれる。今や70億人を超えて世界中で増殖し続ける人類だが、絶滅の危機を乗り越えてきた私たちはみんな同根なのだ。
地球人とガミラス人とジレル人が種を一つにする仲間であることを認識し、文字どおり手を取り合って輪になる構図は、いささか芝居臭いけれどクライマックスに相応しい。
■ダガーム大都督は知的じゃいけなかった
とはいえ現実に目を向ければ、同根だから仲良くできるものでもない。人類最初の殺人は、カインとアベルの兄弟で起きた。相互の理解が進んでも、利害が対立したら争いは起きる。
本作では地球人とガミラス人が七日間の試練を乗り越えて協同することに成功したが、これはフォムト・バーガーが望むヤマトとの戦いに必然性がなかったからだろう。
七色星団海戦で多くの仲間を失ったバーガー少佐は、ガミラス本国の停戦命令を無視してヤマトを討とうと考えていた。その動機は復讐心という感情だから、古代進と苦楽をともにして生まれた連帯感が強まれば、復讐心は消えてなくなる。もはや戦う意味はない。
もしもヤマトとの戦いにガミラスの命運がかかっていたなら、個人的に地球人と親しくなってもバーガーは戦いを止めなかったに違いない。
「異星人とも理解し合える」――古代進が口にする理想を踏みにじるように戦いを仕掛けてくるのが、ゴラン・ダガーム大都督の率いるガトランティス軍だ。
パンフレット掲載のインタビューで、出渕総監督は作品のテーマに反するようなガトランティスの振る舞いをこう説明する。
---
どうしても敵となる存在は必要ですからね。彼らだって同根のはずだし、野蛮で好戦的な民族だからといって戦って倒していいという理屈にはなりませんが、問答無用で襲いかかってきた以上どうしようもないということで、お目こぼしください(笑)。
---
総監督は"お目こぼしを"などとへりくだるが、大いなる和(Great Harmony ~for yamato2199)を主題歌とする本作だからこそ、和を築くことの難しさを理解して臨まねばならないのだろう。安易な理想論で思考停止しては、真の調和は築けない。
ガトランティスの小マゼラン遠征軍大都督たる"雷鳴"のゴラン・ダガームは、宇宙戦艦ヤマトシリーズには珍しいキャラクターだ。
これまでの敵は主義主張こそ違えども、それなりに知的で洗練されていた。愚鈍そうなゲールでさえ、狡猾さを備えていた。だがダガームは野蛮で凶暴で、あまり知的には見えない。サーベラーに叱責される様は、まるで『勇者ライディーン』で妖魔大帝バラオに叱られる激怒巨烈や、『超電磁ロボ コン・バトラーV』で女帝ジャネラに叱られる将軍ダンゲルだ(ダンゲルも隻眼だし)。ダガームがこのような人物像にされたのは、問答無用で襲いかかるタイプとして描くためだろう。
加えてダガーム麾下のガトランティスの面々もこれまでにないタイプだ。出撃の際に太鼓を打ち鳴らしたり、豊かな髭を蓄えたり、頭に剃り込みを入れたりと、ガミラスには蛮族に見えるような異質な習俗が強調された。
この異質さはどこから来るのだろうか。
ヤマトシリーズの星間国家には、しばしばモデルとなる国があった。ガミラスはドイツ第三帝国、ボラー連邦はソビエト連邦、大ウルップ星間国家連合のSUSは米国を模しており、地球は日本そのものだった。
一方、本作のガトランティスは、ダガームが『三国志』の陸遜でお馴染みの大都督を称していたり、サーベラーが諸葛孔明と同じ丞相だったり、キスカ遊撃隊を指揮する"疾風"のイスラ・パラカスがフー・マンチューのような口髭であったりと、中国を連想させる要素が多い。これまでのヤマトシリーズでは、わずかにディンギル帝国の固有名詞がシュメール文明から採られていたり、大ウルップ星間国家連合のアマールが中近東を模していたりしたものの、アジア、特に中央アジア以東が主要敵国のモデルになるのははじめてのことだ。
本作においてガミラス、地球の共通の敵となるガトランティスは、ガミラスからも地球からも異質に見えなければならない。
その答えが中国とはたいへん面白い。本来漢民族は頭に剃り込みを入れたりしないから、ガトランティスのモチーフはモンゴル、満州を含めた東アジア・北アジア全般なのだろう。
そもそも『宇宙戦艦ヤマト2』(本作に火焔直撃砲が出てくるということは、『さらば宇宙戦艦ヤマト』ではなく『ヤマト2』を想起すべきだろう)のガトランチスの特徴は、一ヶ所に定住せず、宇宙を巡りながら資源を勝ち取ることだった。これは遊牧民の暮らし方に似通っている。ガミラスはガトランティスを蛮族呼ばわりしていたが、かつて遊牧民がユーラシア大陸全域にまたがるほどのモンゴル帝国を打ち立てたことを思えば、ガトランティスこそもっとも恐るべき敵なのかもしれない。
そう考えてハッとした。
これはまるで梅棹史観ではないか!?
世には西洋、東洋という言葉がある。西洋といえば欧米、東洋といえばトルコ以東(あるいは東アジア)を思い浮かべる人が多いだろう。このような分け方からすると、ユーラシアの東端に位置する日本は同じく東の中国に似ており、西の端に近いドイツは遠い存在ということになる。
梅棹忠夫氏は『文明の生態史観』及びそれに続く論文で、このような分類を一蹴した。「東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき」(1958年)では、下のような概念図で表現している。
ユーラシア大陸の中央には乾燥地帯があり、ここでは遊牧民が跋扈している。遊牧民の脅威にさらされる乾燥地帯の周辺では、中国(I)、インド(II)、ロシア(III)、イスラム(IV)といった専制国家が成立し、遊牧民に対抗している。ユーラシア大陸の端にある日本や西ヨーロッパは、遊牧民と専制国家の争いに巻き込まれることもなく、ゆっくりだが着実に文明を発達させてきた。したがって日本と西ヨーロッパは同様のポジションにあり、似た者同士なのである。
文明の生態史観を念頭に置けば、遊牧民と専制国家を模したガトランティスに対して、日本とドイツを模した地球とガミラスの方が連携しやすく見えるのはとうぜんだ。ガトランティスに比べれば、地球とガミラスは似た者同士なのだ。
ガトランティスの出現が梅棹史観を想起させるとは驚きだ。『宇宙戦艦ヤマト2199』の作品世界は一層骨太になったと思う。
■沖田を超えた古代進
『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』の工夫は細部にも至る。
まず注意を引かれるのは、オープニングの主題歌がインストゥルメンタルになったことだ。さすがである。
宇宙戦艦ヤマトシリーズの特徴であると同時に弱点なのは、第一作の主題歌『宇宙戦艦ヤマト』を超える曲を作りえなかったことにある。もちろん素晴らしい曲が数々作られはしたけれど、『宇宙戦艦ヤマト2』でも『宇宙戦艦ヤマトIII』でも主題歌は変えられず、もうイスカンダルは出てこないのに「♪銀河をはなれ イスカンダルへ」と歌われ続けた。
イスカンダルに到着した後を描く『星巡る方舟』でも、悪びれずにささきいさお氏の歌声を流すのかと思いきや、ボーカル部分を葉加瀬太郎氏のヴァイオリンで置き換えるとは考えたものだ。おかげで、馴染み深い主題歌を楽しみつつ、物語から乖離した歌詞に違和感を覚えることもなくなった。
私は第七章の記事で沖田艦長の戦術の変化に触れ、敵の前で逃げなくなったことを肯定的に受け止めたが、実をいえば一抹の寂しさがあった。『宇宙戦艦ヤマト』の素晴らしさの一つは、撤退をためらわないことにあったからだ。敵を前にしても撤退できることの大切さは、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の記事に書いたとおりだ。
本作では艦長、副長に変わって指揮を執る古代進が、敵を前にして逃げろと命令してくれた。テレビシリーズで我慢していたつかえが取れたような爽快さだ。
アケーリアス文明とジレル人の関わり方も愉快である。
ジレル人のセレステラとミレーネルが暗躍した第14話「魔女はささやく」に関連して、私はC・L・ムーアのSF小説や処女戦士ジレルについて記したが、『星巡る方舟』ではいよいよC・L・ムーアの代表作ノースウェスト・スミスシリーズでも名高い『シャンブロウ』が登場した。なんとジレル人が生き残っていた星の名がシャンブロウなのだ。
C・L・ムーアの『シャンブロウ』は、妖艶な宇宙の魔女に魅入られて取り込まれてしまう話だが、さすがに本作はそこまで艶っぽい展開にはならない。
代わりにシャンブロウに降り立った古代進たちは、奇妙なホテルに閉じ込められ、殺し合いへと駆り立てられる。スタンリー・キューブリック監督のホラー映画『シャイニング』を彷彿とさせる展開だ。『シャイニング』では閉ざされたホテルで次々怪現象が起こり、人々は狂気に蝕まれていった。本作では狂気を振り払い、いかに試練の七日間を乗り切るかが見どころである。
ちなみに『シャイニング』の主人公格の少年が超能力で意思の伝達を図ったり、霊的な存在を感知できたりするように、『星巡る方舟』の語り部となる桐生美影はクルー随一の言語学の専門家で、異星人の言葉にも反応できる。他者とのコミュニケーションがキーである本作において、多言語を操れることは超能力にも匹敵しよう。
かように『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』は、世界の映画やSF小説に目配せしつつ、これまでにも増して旧シリーズを見事に再現・変奏している。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の作品世界は、ますます豊かになったのだ。
『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』 [あ行]
総監督・脚本/出渕裕 原作/西崎義展
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 諏訪部順一 中村繪里子 近木裕哉 園崎未恵 大塚芳忠 大友龍三郎 久川綾 麦人 鈴村健一 桑島法子 千葉繁
日本公開/2014年12月6日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
パズルのピースがはまるように、『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』とピタリと合う、その構成の妙が心地好い。
テレビシリーズ全26話のうち第24話までのストーリーをまとめた(だから総集編ではない)『追憶の航海』に続いて公開された『星巡る方舟』は、第24話と第25話のあいだに位置する物語だ。
コスモリバースシステムを受け取り、イスカンダルを後にしたヤマト。沖田艦長はまだ健在で、バラン星の亜空間ゲートに向かい、大マゼラン銀河を航行していた(だから『追憶の航海』では沖田の死が描かれない)。ガミラスではデスラーが死亡したと思われており、バラバラになった軍を掌握する必要に駆られていた。
ともかくガミラスとヤマトとの戦いは終わり、一路地球を目指すだけだと考えていたヤマトクルーを襲う危機。それが『星巡る方舟』の大事件だ。
これは作り手にとって危険な挑戦だ。
第24話と第25話のあいだでは、誰が死ぬわけでもない。ヤマトが大きく損傷するわけでもない。地球を目指す状況に変わりはない。テレビシリーズの1エピソードと同列の位置付けになってしまうから、ダイナミックな展開は難しい。
けれども映画として公開するからには、112分の上映時間をもたせるだけの大きな事件が必要だ。観客も劇場映画には"テレビ以上"のものを期待する。
作品全体で一つの大きな物語になっている『宇宙戦艦ヤマト2199』で、この相反する課題を解決する難しさたるや、一話完結の刑事ドラマの劇場版とは比べ物にならないだろう。
本作公開に合わせて放映された『劇場公開記念!!「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」発進SP』において、出渕裕総監督は困難に挑戦した心情を語っている。
「あくまでテレビシリーズのときの、『2199』のときのお話の中に納まって破綻のない形にするっていうのがこだわったとこです。ヤマトの映画っていうと、どうしても次の話、次の話っていう、翌年に巨大な敵がまた攻めてきて、それをやっつけてみたいな形じゃないですか。」
「昔からご覧になってるファンの方には、驚きというか、こういう作り方ってあるのっていう、今までのヤマトの映画の作り方とは違う形になっていますけど、それはそれで新鮮な驚きとして捉えていただいて楽しんでいただければ幸いです。」
宇宙戦艦ヤマトシリーズを見てきたファンならば、出渕総監督の気持ちが痛いほど判るはずだ。
大マゼラン銀河からの侵略者ガミラス帝国を倒したら、アンドロメダ銀河から白色彗星帝国がやってきて、次には二重銀河の暗黒星団帝国と戦い、そうかと思えばいつの間にやら天の川銀河はガルマン・ガミラス帝国とボラー連邦に二分され、にもかかわらずディンギル帝国なんて勢力もちゃっかり存在している。
新作のたびに、どこにいたのか不思議なほどの大帝国が出現し、次から次へと地球を、ヤマトを襲う繰り返しに、シリーズ全体を通しての世界像が破綻していると感じたファンも少なくあるまい。
だから敢えて『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界の中で新作をつくる。新たな大帝国は出さないし、『宇宙戦艦ヤマト2199』の大きな物語から逸脱しない。時系列的にも題名の2199年の範囲に留める。そういうことをやってみたかったのだろう。
たしかにヤマトの映画としては、とても新鮮な作り方だ。
■謎は明かされた!
この目論見を実現するため、出渕総監督はテレビシリーズの制作中から周到に準備を進めた。
新作映画の制作が決まったのは第五章(第15話~第18話)を上映している頃だったので、第六章(第19話~第22話)で『星巡る方舟』に向けた種まきをはじめたという。それが第20話での桐生美影の登場であり、フォムト・バーガーの生死不明の描写だ。
しかし、もっとも大きな仕込みは、テレビシリーズで張り巡らせた伏線を回収しなかったことに違いない。『宇宙戦艦ヤマト2199』には第七章(第23話~第26話)まで観ても語られない部分があった。
私は第四章(第11話~第14話)の感想にこんなことを書いていた。
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ましてや、前述したように旧ヤマトシリーズ全体を勘案しての再配置が行われているとすると、地球人やガミラス人の来歴についても深い配慮が期待される。
『宇宙戦艦ヤマト 完結編』のディンギル人が1万年前に地球から移住した地球人類であることや、ガミラス人が天の川銀河に栄えたガルマン民族の一支族であることからも判るように、ヤマトシリーズの世界観には、はるかな過去に行われた恒星間・銀河間の移住によって現在の星間国家が成立したという考えがある。
第四章では、ガミラス人と地球人に生物としての違いはないことが示された。
「我々はどこから来てどこへ行くのか。」
本作は、ゴーギャンの言葉を模したセリフをガミラス人に語らせている。
これからガミラス人について、地球人について、どのような由来が明らかにされるのか期待は高まる。
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第五章(第15話~第18話)の感想ではこうも書いた。
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これまで地球とガミラスの星間戦争を描くミリタリーSFのカラーが強かった『宇宙戦艦ヤマト2199』は、はるかな過去へと時間軸を伸ばし、文明の栄枯盛衰まで視野に入れた宇宙史の様相を呈してきた。
思えば、『宇宙戦艦ヤマトIII』には伝説の古代国家シャルバートが登場し、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』には銀河を回遊しながら星々に生命の恵みと試練を与える惑星アクエリアスが出現した。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズは、人類の起源に遡るほどの時間的スケールを持つ作品だった。
続編ができるたびに未知の文明が登場するのはいささか辻褄が合わなかったが、ヤマトの世界を熟考した上でつくられた本作は、これら超古代文明をも包含するのだろう。
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そのため、最終章となる第七章に大いに感動しながらも、地球人やガミラス人の来歴が語られないことに、超古代文明の謎に触れていないことに、いささか拍子抜けした。
だが、それは作り手の計算だった。
超空間ネットワークを構築したといわれる古代文明アケーリアス、アケーリアスの末裔を称するジレル人。テレビシリーズでは詳しく語られなかった謎の数々が、遂に『星巡る方舟』で明かされた。
『星巡る方舟』まで観ることで、はじめて『宇宙戦艦ヤマト2199』は完結する。ようやく胸のつかえが下りた気分だ。
『2199』のアケーリアス文明は、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』の回遊惑星アクエリアスに相当しよう。回遊惑星アクエリアスが複数の輪に取り巻かれていたように、『星巡る方舟』に登場する「静謐の星」も幾つもの輪に取り巻かれている。その「静謐の星」の正体が、アケーリアス文明の超巨大恒星間播種船であるという設定には膝を打った。生命の芽を与えるアクエリアスの役回りを汲み取りつつ、巨大建造物を好むアケーリアスらしさもちゃんと備えているからだ。
加えて地球人もガミラス人もジレル人も(おそらくイスカンダル人もザルツ人も)アケーリアスの蒔いた種を起源とすることが明らかにされ、宇宙のあちこちに(生殖できるほど)酷似した生物が存在する謎も解明された。
科学的に説明がつく話ではない。アケーリアスの「種」とは具体的に何を指し、地球人やガミラス人やジレル人がいつ、どのように分岐したのか、厳密に考えれば辻褄は合いそうにない。たかだか七万年前に分岐した日本人とヨーロッパ人ですら外見が異なるのだ。科学考証の半田利弘氏がパンフレットに寄せたコラムで「ただし、ガミラス人と地球人のようにDNAまで全く同じというのは偶然が過ぎる感じです。しかも、うり二つの人物が何組もいるなんて!」と書いているのももっともだ。
だが、本作はそれで構わないのだ。
同根のはずの地球人やガミラス人やジレル人が対立したり差別し合うのは、ほんの一握りの人間を祖先とする私たち人類が、今さら異国とか異民族などと呼び合ってしまう現状のメタファーだからだ。人類は過去何度も絶滅の危機に瀕してきた。全人口が一万人くらいまで激減したこともあるといわれる。今や70億人を超えて世界中で増殖し続ける人類だが、絶滅の危機を乗り越えてきた私たちはみんな同根なのだ。
地球人とガミラス人とジレル人が種を一つにする仲間であることを認識し、文字どおり手を取り合って輪になる構図は、いささか芝居臭いけれどクライマックスに相応しい。
■ダガーム大都督は知的じゃいけなかった
とはいえ現実に目を向ければ、同根だから仲良くできるものでもない。人類最初の殺人は、カインとアベルの兄弟で起きた。相互の理解が進んでも、利害が対立したら争いは起きる。
本作では地球人とガミラス人が七日間の試練を乗り越えて協同することに成功したが、これはフォムト・バーガーが望むヤマトとの戦いに必然性がなかったからだろう。
七色星団海戦で多くの仲間を失ったバーガー少佐は、ガミラス本国の停戦命令を無視してヤマトを討とうと考えていた。その動機は復讐心という感情だから、古代進と苦楽をともにして生まれた連帯感が強まれば、復讐心は消えてなくなる。もはや戦う意味はない。
もしもヤマトとの戦いにガミラスの命運がかかっていたなら、個人的に地球人と親しくなってもバーガーは戦いを止めなかったに違いない。
「異星人とも理解し合える」――古代進が口にする理想を踏みにじるように戦いを仕掛けてくるのが、ゴラン・ダガーム大都督の率いるガトランティス軍だ。
パンフレット掲載のインタビューで、出渕総監督は作品のテーマに反するようなガトランティスの振る舞いをこう説明する。
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どうしても敵となる存在は必要ですからね。彼らだって同根のはずだし、野蛮で好戦的な民族だからといって戦って倒していいという理屈にはなりませんが、問答無用で襲いかかってきた以上どうしようもないということで、お目こぼしください(笑)。
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総監督は"お目こぼしを"などとへりくだるが、大いなる和(Great Harmony ~for yamato2199)を主題歌とする本作だからこそ、和を築くことの難しさを理解して臨まねばならないのだろう。安易な理想論で思考停止しては、真の調和は築けない。
ガトランティスの小マゼラン遠征軍大都督たる"雷鳴"のゴラン・ダガームは、宇宙戦艦ヤマトシリーズには珍しいキャラクターだ。
これまでの敵は主義主張こそ違えども、それなりに知的で洗練されていた。愚鈍そうなゲールでさえ、狡猾さを備えていた。だがダガームは野蛮で凶暴で、あまり知的には見えない。サーベラーに叱責される様は、まるで『勇者ライディーン』で妖魔大帝バラオに叱られる激怒巨烈や、『超電磁ロボ コン・バトラーV』で女帝ジャネラに叱られる将軍ダンゲルだ(ダンゲルも隻眼だし)。ダガームがこのような人物像にされたのは、問答無用で襲いかかるタイプとして描くためだろう。
加えてダガーム麾下のガトランティスの面々もこれまでにないタイプだ。出撃の際に太鼓を打ち鳴らしたり、豊かな髭を蓄えたり、頭に剃り込みを入れたりと、ガミラスには蛮族に見えるような異質な習俗が強調された。
この異質さはどこから来るのだろうか。
ヤマトシリーズの星間国家には、しばしばモデルとなる国があった。ガミラスはドイツ第三帝国、ボラー連邦はソビエト連邦、大ウルップ星間国家連合のSUSは米国を模しており、地球は日本そのものだった。
一方、本作のガトランティスは、ダガームが『三国志』の陸遜でお馴染みの大都督を称していたり、サーベラーが諸葛孔明と同じ丞相だったり、キスカ遊撃隊を指揮する"疾風"のイスラ・パラカスがフー・マンチューのような口髭であったりと、中国を連想させる要素が多い。これまでのヤマトシリーズでは、わずかにディンギル帝国の固有名詞がシュメール文明から採られていたり、大ウルップ星間国家連合のアマールが中近東を模していたりしたものの、アジア、特に中央アジア以東が主要敵国のモデルになるのははじめてのことだ。
本作においてガミラス、地球の共通の敵となるガトランティスは、ガミラスからも地球からも異質に見えなければならない。
その答えが中国とはたいへん面白い。本来漢民族は頭に剃り込みを入れたりしないから、ガトランティスのモチーフはモンゴル、満州を含めた東アジア・北アジア全般なのだろう。
そもそも『宇宙戦艦ヤマト2』(本作に火焔直撃砲が出てくるということは、『さらば宇宙戦艦ヤマト』ではなく『ヤマト2』を想起すべきだろう)のガトランチスの特徴は、一ヶ所に定住せず、宇宙を巡りながら資源を勝ち取ることだった。これは遊牧民の暮らし方に似通っている。ガミラスはガトランティスを蛮族呼ばわりしていたが、かつて遊牧民がユーラシア大陸全域にまたがるほどのモンゴル帝国を打ち立てたことを思えば、ガトランティスこそもっとも恐るべき敵なのかもしれない。
そう考えてハッとした。
これはまるで梅棹史観ではないか!?
世には西洋、東洋という言葉がある。西洋といえば欧米、東洋といえばトルコ以東(あるいは東アジア)を思い浮かべる人が多いだろう。このような分け方からすると、ユーラシアの東端に位置する日本は同じく東の中国に似ており、西の端に近いドイツは遠い存在ということになる。
梅棹忠夫氏は『文明の生態史観』及びそれに続く論文で、このような分類を一蹴した。「東南アジアの旅から―文明の生態史観・つづき」(1958年)では、下のような概念図で表現している。
ユーラシア大陸の中央には乾燥地帯があり、ここでは遊牧民が跋扈している。遊牧民の脅威にさらされる乾燥地帯の周辺では、中国(I)、インド(II)、ロシア(III)、イスラム(IV)といった専制国家が成立し、遊牧民に対抗している。ユーラシア大陸の端にある日本や西ヨーロッパは、遊牧民と専制国家の争いに巻き込まれることもなく、ゆっくりだが着実に文明を発達させてきた。したがって日本と西ヨーロッパは同様のポジションにあり、似た者同士なのである。
文明の生態史観を念頭に置けば、遊牧民と専制国家を模したガトランティスに対して、日本とドイツを模した地球とガミラスの方が連携しやすく見えるのはとうぜんだ。ガトランティスに比べれば、地球とガミラスは似た者同士なのだ。
ガトランティスの出現が梅棹史観を想起させるとは驚きだ。『宇宙戦艦ヤマト2199』の作品世界は一層骨太になったと思う。
■沖田を超えた古代進
『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』の工夫は細部にも至る。
まず注意を引かれるのは、オープニングの主題歌がインストゥルメンタルになったことだ。さすがである。
宇宙戦艦ヤマトシリーズの特徴であると同時に弱点なのは、第一作の主題歌『宇宙戦艦ヤマト』を超える曲を作りえなかったことにある。もちろん素晴らしい曲が数々作られはしたけれど、『宇宙戦艦ヤマト2』でも『宇宙戦艦ヤマトIII』でも主題歌は変えられず、もうイスカンダルは出てこないのに「♪銀河をはなれ イスカンダルへ」と歌われ続けた。
イスカンダルに到着した後を描く『星巡る方舟』でも、悪びれずにささきいさお氏の歌声を流すのかと思いきや、ボーカル部分を葉加瀬太郎氏のヴァイオリンで置き換えるとは考えたものだ。おかげで、馴染み深い主題歌を楽しみつつ、物語から乖離した歌詞に違和感を覚えることもなくなった。
私は第七章の記事で沖田艦長の戦術の変化に触れ、敵の前で逃げなくなったことを肯定的に受け止めたが、実をいえば一抹の寂しさがあった。『宇宙戦艦ヤマト』の素晴らしさの一つは、撤退をためらわないことにあったからだ。敵を前にしても撤退できることの大切さは、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の記事に書いたとおりだ。
本作では艦長、副長に変わって指揮を執る古代進が、敵を前にして逃げろと命令してくれた。テレビシリーズで我慢していたつかえが取れたような爽快さだ。
アケーリアス文明とジレル人の関わり方も愉快である。
ジレル人のセレステラとミレーネルが暗躍した第14話「魔女はささやく」に関連して、私はC・L・ムーアのSF小説や処女戦士ジレルについて記したが、『星巡る方舟』ではいよいよC・L・ムーアの代表作ノースウェスト・スミスシリーズでも名高い『シャンブロウ』が登場した。なんとジレル人が生き残っていた星の名がシャンブロウなのだ。
C・L・ムーアの『シャンブロウ』は、妖艶な宇宙の魔女に魅入られて取り込まれてしまう話だが、さすがに本作はそこまで艶っぽい展開にはならない。
代わりにシャンブロウに降り立った古代進たちは、奇妙なホテルに閉じ込められ、殺し合いへと駆り立てられる。スタンリー・キューブリック監督のホラー映画『シャイニング』を彷彿とさせる展開だ。『シャイニング』では閉ざされたホテルで次々怪現象が起こり、人々は狂気に蝕まれていった。本作では狂気を振り払い、いかに試練の七日間を乗り切るかが見どころである。
ちなみに『シャイニング』の主人公格の少年が超能力で意思の伝達を図ったり、霊的な存在を感知できたりするように、『星巡る方舟』の語り部となる桐生美影はクルー随一の言語学の専門家で、異星人の言葉にも反応できる。他者とのコミュニケーションがキーである本作において、多言語を操れることは超能力にも匹敵しよう。
かように『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』は、世界の映画やSF小説に目配せしつつ、これまでにも増して旧シリーズを見事に再現・変奏している。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の作品世界は、ますます豊かになったのだ。
『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』 [あ行]
総監督・脚本/出渕裕 原作/西崎義展
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 諏訪部順一 中村繪里子 近木裕哉 園崎未恵 大塚芳忠 大友龍三郎 久川綾 麦人 鈴村健一 桑島法子 千葉繁
日本公開/2014年12月6日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】