『マグニフィセント・セブン』 トランプを大統領にする国(その2)
(前回「『沈黙‐サイレンス‐』 トランプを大統領にする国(その1)」から読む)
「もし神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」
――「ローマ人への手紙」8:31――
■『マグニフィセント・セブン』と『荒野の七人』と『七人の侍』の関係
2016年10月、『七人の侍』の4Kデジタルリマスター版が公開された。改めて『七人の侍』を絶賛する声が上がり、「観ていない人はぜひ観るべき」と云われる中、私はいささか異論があった。
黒澤明監督の『七人の侍』は世界最高の映画の一つだし、本物を求める人ならいつか必ずたどり着く作品だろう。観ればきっと満足するはずだ。
けれど、いかに精緻に作られた映画であっても、公開から60年以上も経てば考証や社会観等の面で見直す余地が生まれるものだ。だから、名作『七人の侍』を観るのもいいけれど、それ以上に大事なのは、『七人の侍』にインスパイアされたクリエイターが時代に即した新作を世に送り出すことだと考えていた。
1954年公開の『七人の侍』に関しては、百姓の描き方がしばしば指摘の対象になる。
『七人の侍』では、武器を取って戦ったことのない百姓たちが、侍の指導の下で野武士と戦う訓練をする。偉くて強い侍と、弱くて下層の百姓の、身分や気質の違いがはっきりした中でのドラマだった。
だが、現実には戦国時代の百姓は武器を手に殺し合うことも辞さない者たちだったから、こんなに弱々しく受け身のはずがなかった。この点については、呉座勇一氏の「戦う戦国の村~『七人の侍』のウソとマコト~」を参照されたい。
フィクションだから現実と違っていても構わないのだが、そもそも物語の前提となる社会の捉え方に、労働争議が激しかった公開当時の社会情勢や考え方が色濃く影響しているように思う。
もちろん『七人の侍』の映画としての価値は不滅だが、一方で『七人の侍』にインスパイアされることで、時代に即した優れた作品が生み出されてもいる。
もっとも成功した例はスター・ウォーズ・シリーズだろう。『七人の侍』にベトナム戦争の経験を織り込んだこのシリーズは、70年代、80年代の『七人の侍』ともいえる作品だった。
そして今、2010年代の『七人の侍』として誕生したのが、アントワーン・フークア監督の『マグニフィセント・セブン』だ。
本作はオマージュとかインスパイアとかではなく、『七人の侍』の正統なリメイクだ。プロデューサーのウォルター・ミリッシュが東宝から『七人の侍』の権利を買ってリメイクした1960年の西部劇『荒野の七人』、これを踏まえてミリッシュ自身が再びリメイクしたのが2016年の『マグニフィセント・セブン』である。『七人の侍』の脚本家黒澤明、橋本忍、小国英雄は、『荒野の七人』ではノンクレジットだったが、本作では原作者としてクレジットされている。
だから登場人物やエピソードの多くは『七人の侍』に準じているが、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』で加えられたアイデアも活かされており、その上、現在ならではのアレンジも施されている。
ここで、『マグニフィセント・セブン』と『荒野の七人』と『七人の侍』の主人公七人に関して、私が考えた対応表を載せておこう。必ずしも全員が一対一で対応するわけではなく、複数人の特徴が一人に束ねられたり、逆に一人の特徴が複数人に分散されたりしているから、参考程度にご覧いただきたい。
各作品の登場人物が一対一に対応しないだけでなく、本作では人物とエピソードの組み替えも行われている。たとえば、隠れ潜んでいるところをリーダーに見つかって仲間になる流れは、『荒野の七人』ではロバート・ヴォーン演じるリーのエピソードだが、本作ではリーに当たるグッドナイト・ロビショーではなく、バスケスのエピソードとして描かれる。
そのバスケスはムードメーカーという点でベルナルド・オライリーや林田平八と一緒に括ったが、ベルナルドや平八が柔和な人柄で場の緊張をほぐすのに対して、バスケスは野卑な軽口で盛り上げるタイプだったりする。
興味深いのは、『七人の侍』では重要な位置にありながら『荒野の七人』にほとんど引き継がれなかった参謀役の片山五郎兵衛が、本作ではマウンテンマンのジャック・ホーンとして復活していることだ。
やはり、大勢の敵と戦うには優れた戦略・戦術が必要になる。『荒野の七人』はガンマンたちの銃の腕で乗り切ったが、本作ではより大勢の敵を相手にするために、策を練り、罠を張る人物を必要としたのであろう。
十代の頃に『荒野の七人』と『スカーフェイス』(1983年)を観たのが映画監督を目指すきっかけで、本作の監督をオファーされたとき『七人の侍』の偉大さを思って躊躇したというアントワーン・フークア監督だけあって、過去の作品をよく理解した上でパワーアップを図っている。
■神の是認の声
アントワーン・フークア監督といえば、『エンド・オブ・ホワイトハウス』の衝撃は今でも忘れられない。こんにちの米韓同盟の危機をいち早く取り上げ、2013年の時点で映像化した感度の高さは尋常ではない。
そのフークア監督だけに、『マグニフィセント・セブン』も現在の社会のあり様を鋭く投影した作品になっている。
当初、本作は2017年1月13日の公開とされていたが、ソニー・ピクチャーズは公開日を2016年9月23日に変更した。的確な判断だと思う。2017年1月13日といえば、第45代アメリカ大統領に選出された人物が就任式を行う一週間前だ。そこにぶつければ盛り上がったかもしれないが、もっと盛り上がるのは2016年7月に共和党と民主党の大統領候補が確定してから2016年11月8日の一般投票で大統領が決まるまでの、両党候補が激突する三ヶ月半だ。そのド真ん中に公開日をもってきたことが、本作の狙いを端的に物語っている。
第45代大統領を選ぶ選挙は、米国が真っ二つに分かれての熾烈な戦いだった。渡辺由佳里氏はこれを「トランプがはじめた21世紀の南北戦争」と呼んでいる。
今の私たちは、大富豪ドナルド・トランプが第45代大統領に就任し、難民の受け入れ停止や他国からの入国制限を命令し、とりわけ隣国メキシコとのあいだに壁を作り、人々の往来を制限するように命じてメキシコと険悪になったことを知っている。しかし、本作の作り手たちは大統領選の何年も前からこの映画を計画し、2014年にはキャスティング等も詰めていたわけだから、その思いと眼力に驚かされる。
物語は、西部にある白人の町ローズ・クリークの教会からはじまる。住民はここで集会を開き、大富豪バーソロミュー・ボーグに与するか、ボーグに逆らうかで対立していた。それはまさに共和党候補の大富豪ドナルド・トランプに投票するか、反対票を入れるか、米国を真っ二つに割った対立の縮図といえる。
この西部の教会は、現代の米国で多数の信者を集めるメガチャーチに相当しよう。2016年の調査ではテキサス州のレイクウッド教会が礼拝出席者数5万2千人で全米最大規模を誇るが、ここのカリスマ牧師ジョエル・オスティーンはドナルド・トランプを称賛したことで知られるという。
本作は教会にはじまり教会に終わる。途中でも、たびたび教会の場面が挿入される。それは、ボーグに従うか否か(トランプを支持するか否かに相似する問題)が信仰の問題でもあるからだろう。
森本あんり氏は宗教をウィルスに例えている。ウィルスが感染して増殖すると、宿主である身体にさまざまな影響を及ぼすが、同時にそのウィルス自体も宿主に適応して変化し、「亜種」が生まれる。宗教も同じようなものだというのだ(誤解してはいけないが、ウィルスは宿主に悪い影響を及ぼすばかりでなく、宿主が生きていく上で欠かせない働きをするものもある。)。
米国のキリスト教は大きく様変わりした亜種だという。氏はこう述べる。
---
その変容ぶりを示すのが、この世の成功に対する考え方である。アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
(略)
トランプ氏も、その価値観の中で評価されている。あれほどキリスト教の理念とかけ離れた言動を続ける人物を、何と白人福音派の8割が支持したという。なぜか。彼らはこう考えるのである。
「たしかに彼は人間的に見て困ったところもある。だが、神の目はどこか違うところを見ているに違いない。彼には、人の知らないよいところがあって、それを神が是認しているのだ。だから彼はあんなに成功しているのだ」
トランプ氏本人も、彼の支持者も、大観衆の声を通して聞いているのは、神の是認の声なのである。
---
第45代大統領が決まったとき、一枚の写真が出回って話題になった。大喜びしているトランプ陣営の中、一人だけ嬉しそうではない人が写っていたのだ。ドナルド・トランプ本人である。神妙な顔つきで、じっと座ったままの彼は、莫大な富を彼に与え、今また彼を大統領にした神の声に耳を傾けていたのかもしれない。
トランプ政権の人事も神がかっている。閣僚に大富豪たち――神に祝福された人たち――を指名し、なかでも教育長官には、宗教を教えることが禁じられている公立学校よりもキリスト教的教育を推進できる私立学校を重視する人物を据えた。
テキサス州の白人の主婦は、トランプ大統領に期待する。
「今、何が私の身の回りに起こっているか、ですって。私の住んでいる田舎町にまで、肌の浅黒い見知らぬ外国人がどんどん入ってきて、治安が悪くなっているんですよ。トランプさんはこんな状況から私たちをきっと救い出してくれると信じています」。
外国人の増加と治安の悪化は必ずしも因果関係で語れるものではないのだが、こういう思いを抱いている人もいるわけだ。
成功を目指すのは悪いことではないし、成功した人が神に感謝するのは大切なことかもしれない。しかし、成功を神の祝福の証と捉え、成功しないのは神に見放されているからだと考えるなら、それははなはだ危険である。
『マグニフィセント・セブン』の中で、入植者を殺したことを責められた大富豪ボーグはこう云い放つ。
「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
(If God didn't want them to be sheared, he wouldn't have made them sheep.)
これは『荒野の七人』で無法者たちの首領カルヴェラが口にしたのと同じセリフだ。
残酷な言葉に聞こえるが、誇張があるとはいえこれは米国の信仰の行き着く先ではないだろうか。
ボーグが臆することなく攻めてくるのも、神の後ろ盾があると信じるからだ。米国のキリスト教シオニズムでは、中東戦争でイスラエルが勝利してきたのは、イスラエルが神に守られ、神から祝福されているからだと考えるそうだが、それと同じことだ。
20世紀の極東にも神州不滅を唱えて戦争した(そして滅亡した)帝国があったから、日本人にとっても他人事ではない。
追いつめられたボーグが教会に逃げ込むのも、彼を生かすかどうかは神が決めることだからだ。神に祝福されている彼は、神の庇護を受けられるはずだからだ。
■神話の創出
映画の冒頭、教会の集会で、バーソロミュー・ボーグに立ち向かおうと呼びかけた男性は、この土地に移ってきてようやく生活できるまでになったのに、ボーグの云いなりになるのかと訴える。
この言葉は、移民を嫌がる現代の白人たちも、元をたどれば移民だったことを思い出させるものだ。
そんな反対派の呼びかけに応じて集まったのが、マグニフィセント・セブン――崇高な七人――である。
前述の表で判るように、本作の七人は過去作の七人におおむね対応しているけれど、それだけに留まらない新鮮さと素晴らしさがある。たった七人なのに、多様性に満ち満ちているのだ。
人種も違えば宗教も違う。敵味方の間柄だったこともある。実に工夫を凝らしたメンバー構成だ。
そんな彼らが白人の町を守るために協力し合い、命懸けの戦いに身を投じてくれる。外国人が入ってくるのが嫌だなんて云っている白人たちの狭い了見を一蹴するような、マグニフィセントな七人なのだ。
しかも、黒人はもとより、メキシコ人の役者がメキシコ人を演じ、東洋人の役者が東洋人を演じ、ネイティブ・アメリカンの役者がネイティブ・アメリカンを演じている。これがハリウッドではなかなかできないことなのは周知の事実だ。
フークア監督がスタジオの幹部と会ったときに最初に見せられた俳優のリストも白人ばかりだった。それを引っくり返したフークア監督は、歴史的事実を反映させただけだと云う。「黒人のカウボーイはたくさんいたし、ネイティブ・アメリカンもたくさんいた。鉄道建設で働く東洋人もたくさんいた。本当の西部は、これまで映画が描いてきたよりもずっと現代的だったんだ。」
フークア監督のこの言葉は、かつては白人だけの「古き良き米国社会」があったのに、という思い込みを粉砕してかっこいい。
七人の中でも特に重要なのが、ネイティブ・アメリカンのレッドハーベストだ。
『七人の侍』の中であえて主人公を一人に特定するなら、リーダーの勘兵衛ではなく、三船敏郎さん演じる菊千代であることは以前の記事で述べたとおりだ。したがって、菊千代に相当すると思われるレッドハーベストは、菊千代同様、主人公級の重い物を背負っているはずだ。
セリフこそ少ないものの、彼が菊千代と同じものを背負っているのは一目で判る。レッドハーベストは、ここ一番というときに星条旗の化粧をするのだ。顔を赤と青に塗り分け、青地の部分に白い斑点をあしらう化粧が表しているのは、アメリカ合衆国の国旗に他ならない。
米国の映画には、しばしば星条旗が登場する。旗に国家を象徴させることもあるが、もっと重要なのは国家や国民が掲げるべき理念や目的を象徴させる使い方だ。映画のテーマや、作り手がもっとも伝えたいことを語る場面で星条旗を映すことで、星条旗に意味を持たせ、今後星条旗を見るたびに観客が作り手のメッセージを思い出すように仕向けるのだ。
代表的な例が、クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』だろう。イーストウッド演じる主人公が「娼婦を傷つけるな」と叫ぶところで星条旗がはためく。娼婦が国家を象徴するわけではない。この旗を掲げる国は、国民は、他者を傷つけるようなことをしてはならないと訴えているのだ。
レッドハーベストが星条旗のような化粧をするのも同じことだ。黒人や白人やラティーノや東洋人やネイティブ・アメリカンが仲間になって一致団結するなんてことが、19世紀の米国であったはずはないのだが、こういうことを米国は、米国民は目指すべきだと、最後に加わったレッドハーベストの星条旗の化粧が訴えている。『七人の侍』が侍と農民の身分差を背景とする中で、侍でも農民でもない菊千代に身分違いの克服を象徴させたのと同じなのだ。
森本あんり氏は云う。「移民国家アメリカは、目的をもつことで統一を作り出してきた国である。アメリカを動かしてきたのは、自分で自分に課した使命である。」
その使命とは何か。
その一番大切なことをレッドハーベストは体現している。
さらにレッドハーベストの特異な位置づけを強調するため、フークア監督は白人男性ばかりのボーグの軍勢にネイティブ・アメリカンの戦士を加えている。全員が侍の中にただ一人農民出身の菊千代が交じっていた『七人の侍』とは異なり、七人の人種や出自がバラエティ豊かな本作では、ネイティブ・アメリカンのレッドハーベストが埋もれてしまいかねない。それを避けるために、ネイティブ・アメリカンだけは敵側にも配することで、レッドハーベストが人種や民族の違いを乗り越えてマグニフィセントな側についたことを目立たせているのだ。
しかも本作では、ヘイリー・ベネット演じる未亡人のエマも大活躍する。さすがにマグニフィセント・セブンの一員にはならないものの、『荒野の七人』や『七人の侍』の女性のようにならず者の襲撃から隠れてばかりではない。
戦うのは男、女は銃後で隠されているだけという前世紀の観念に囚われない作品にすることも、現代にリメイクする意義だろう。
南北戦争当時、南部の男性たちは徴兵反対運動を起こしたが、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けたという。徴兵反対運動をした男性たちは「男のくせに情けない」「意気地なし」「とても結婚相手にできない」と罵倒され、その後、運動は挫けてしまう。
本作のエマは銃を取って戦うだけではない。ガンマンたちを集めて戦わせるのもエマなのだ。
そして彼ら、ボーグに立ち向かう者たちがよりどころにするのも教会だ。
劇中、教会は戦いの要所となり、クライマックスの対決も教会で迎えることになる。
ここで戦うことで、両者は神の審判を仰いでいるのだ。白人ばかりで固まり、富と権力を追い続けるボーグと、マイノリティも含めて助け合い、力を貸しあうマグニフィセント・セブンと町の住民たちの、どちらを神は祝福するか。どちらが神に祝福されるべきなのか。それを映画は神に、観客に問うている。
米国では2044年に有色人種の人口が50%を超え、白人のほうがマイノリティになると予測されている。そんな中、本作は米国の新しい神話として語り継がれるべき作品だ。
しかし――私は懸念する。映画全体を見渡せば、町の住民の側もまた、戦いに勝利するのが神に祝福された証と考える構造になっていることを。勝利しなければ祝福されたと感じられない構造になっていることを。
結局、敗者――弱き者――に居場所はあるのだろうか。
第45代大統領を決する選挙戦は、ドナルド・トランプの勝利に終わった。
『マグニフィセント・セブン』 [ま行]
監督/アントワーン・フークア
脚本/ニック・ピゾラット、リチャード・ウェンク、ジョン・リー・ハンコック(ノンクレジット)
原作/黒澤明、橋本忍、小国英雄
出演/デンゼル・ワシントン クリス・プラット イーサン・ホーク ヴィンセント・ドノフリオ イ・ビョンホン マヌエル・ガルシア=ルルフォ マーティン・センスマイヤー ヘイリー・ベネット ピーター・サースガード マット・ボマー ルーク・グライムス ヴィニー・ジョーンズ
日本公開/2017年1月27日
ジャンル/[アクション] [西部劇]
「もし神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」
――「ローマ人への手紙」8:31――
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2016年10月、『七人の侍』の4Kデジタルリマスター版が公開された。改めて『七人の侍』を絶賛する声が上がり、「観ていない人はぜひ観るべき」と云われる中、私はいささか異論があった。
黒澤明監督の『七人の侍』は世界最高の映画の一つだし、本物を求める人ならいつか必ずたどり着く作品だろう。観ればきっと満足するはずだ。
けれど、いかに精緻に作られた映画であっても、公開から60年以上も経てば考証や社会観等の面で見直す余地が生まれるものだ。だから、名作『七人の侍』を観るのもいいけれど、それ以上に大事なのは、『七人の侍』にインスパイアされたクリエイターが時代に即した新作を世に送り出すことだと考えていた。
1954年公開の『七人の侍』に関しては、百姓の描き方がしばしば指摘の対象になる。
『七人の侍』では、武器を取って戦ったことのない百姓たちが、侍の指導の下で野武士と戦う訓練をする。偉くて強い侍と、弱くて下層の百姓の、身分や気質の違いがはっきりした中でのドラマだった。
だが、現実には戦国時代の百姓は武器を手に殺し合うことも辞さない者たちだったから、こんなに弱々しく受け身のはずがなかった。この点については、呉座勇一氏の「戦う戦国の村~『七人の侍』のウソとマコト~」を参照されたい。
フィクションだから現実と違っていても構わないのだが、そもそも物語の前提となる社会の捉え方に、労働争議が激しかった公開当時の社会情勢や考え方が色濃く影響しているように思う。
もちろん『七人の侍』の映画としての価値は不滅だが、一方で『七人の侍』にインスパイアされることで、時代に即した優れた作品が生み出されてもいる。
もっとも成功した例はスター・ウォーズ・シリーズだろう。『七人の侍』にベトナム戦争の経験を織り込んだこのシリーズは、70年代、80年代の『七人の侍』ともいえる作品だった。
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本作はオマージュとかインスパイアとかではなく、『七人の侍』の正統なリメイクだ。プロデューサーのウォルター・ミリッシュが東宝から『七人の侍』の権利を買ってリメイクした1960年の西部劇『荒野の七人』、これを踏まえてミリッシュ自身が再びリメイクしたのが2016年の『マグニフィセント・セブン』である。『七人の侍』の脚本家黒澤明、橋本忍、小国英雄は、『荒野の七人』ではノンクレジットだったが、本作では原作者としてクレジットされている。
だから登場人物やエピソードの多くは『七人の侍』に準じているが、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』で加えられたアイデアも活かされており、その上、現在ならではのアレンジも施されている。
ここで、『マグニフィセント・セブン』と『荒野の七人』と『七人の侍』の主人公七人に関して、私が考えた対応表を載せておこう。必ずしも全員が一対一で対応するわけではなく、複数人の特徴が一人に束ねられたり、逆に一人の特徴が複数人に分散されたりしているから、参考程度にご覧いただきたい。
マグニフィセント・セブン | 荒野の七人 | 七人の侍 |
サム・チザム(デンゼル・ワシントン) リーダー、黒ずくめのガンマン、家族を奪われた過去を持つ | クリス・アダムス(ユル・ブリンナー) リーダー、黒ずくめのガンマン | 島田勘兵衛(志村喬) リーダー 菊千代(三船敏郎) 家族を奪われた過去を持つ |
ジョシュ・ファラデー(クリス・プラット) ギャンブラー、サブリーダー格、二番目に参加 | ヴィン(スティーブ・マックイーン) サブリーダー格、二番目に参加 | 片山五郎兵衛(稲葉義男) 参謀役、二番目に参加 |
グッドナイト・ロビショー(イーサン・ホーク) PTSDの狙撃手、町の住民の教官役、リーダーとは旧知の仲だが袂を分かつ | リー(ロバート・ヴォーン) 凄腕だが心的外傷を負っている ハリー・ラック(ブラッド・デクスター) リーダーとは旧知の仲だが袂を分かつ | 七郎次(加東大介) リーダーとは旧知の仲、村人の教官役 |
ジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ) 狩人、防戦のため罠を仕掛ける、町の女性と親しくなる | チコ(ホルスト・ブッフホルツ) 村の女性と親しくなる | 片山五郎兵衛(稲葉義男) 参謀役 岡本勝四郎(木村功) 村の女性と親しくなる |
ビリー・ロックス(イ・ビョンホン) 暗殺者、ナイフの達人 | ブリット(ジェームズ・コバーン) ナイフ投げの達人 | 久蔵(宮口精二) 居合の達人 |
バスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ) 無法者のメキシコ人、ムードメーカー | ベルナルド・オライリー(チャールズ・ブロンソン) メキシコ人とアイルランド人の混血、ムードメーカー | 林田平八(千秋実) ムードメーカー |
レッドハーベスト《血の収穫》(マーティン・センスマイヤー) 戦士、ガンマンではない、ネイティブ・アメリカンと白人の架け橋、最後に参加 | チコ(ホルスト・ブッフホルツ) 農民とガンマンの架け橋 | 菊千代(三船敏郎) なかなか侍とは認められない、農民と侍の架け橋、最後に参加 |
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そのバスケスはムードメーカーという点でベルナルド・オライリーや林田平八と一緒に括ったが、ベルナルドや平八が柔和な人柄で場の緊張をほぐすのに対して、バスケスは野卑な軽口で盛り上げるタイプだったりする。
興味深いのは、『七人の侍』では重要な位置にありながら『荒野の七人』にほとんど引き継がれなかった参謀役の片山五郎兵衛が、本作ではマウンテンマンのジャック・ホーンとして復活していることだ。
やはり、大勢の敵と戦うには優れた戦略・戦術が必要になる。『荒野の七人』はガンマンたちの銃の腕で乗り切ったが、本作ではより大勢の敵を相手にするために、策を練り、罠を張る人物を必要としたのであろう。
十代の頃に『荒野の七人』と『スカーフェイス』(1983年)を観たのが映画監督を目指すきっかけで、本作の監督をオファーされたとき『七人の侍』の偉大さを思って躊躇したというアントワーン・フークア監督だけあって、過去の作品をよく理解した上でパワーアップを図っている。
■神の是認の声
アントワーン・フークア監督といえば、『エンド・オブ・ホワイトハウス』の衝撃は今でも忘れられない。こんにちの米韓同盟の危機をいち早く取り上げ、2013年の時点で映像化した感度の高さは尋常ではない。
そのフークア監督だけに、『マグニフィセント・セブン』も現在の社会のあり様を鋭く投影した作品になっている。
当初、本作は2017年1月13日の公開とされていたが、ソニー・ピクチャーズは公開日を2016年9月23日に変更した。的確な判断だと思う。2017年1月13日といえば、第45代アメリカ大統領に選出された人物が就任式を行う一週間前だ。そこにぶつければ盛り上がったかもしれないが、もっと盛り上がるのは2016年7月に共和党と民主党の大統領候補が確定してから2016年11月8日の一般投票で大統領が決まるまでの、両党候補が激突する三ヶ月半だ。そのド真ん中に公開日をもってきたことが、本作の狙いを端的に物語っている。
第45代大統領を選ぶ選挙は、米国が真っ二つに分かれての熾烈な戦いだった。渡辺由佳里氏はこれを「トランプがはじめた21世紀の南北戦争」と呼んでいる。
今の私たちは、大富豪ドナルド・トランプが第45代大統領に就任し、難民の受け入れ停止や他国からの入国制限を命令し、とりわけ隣国メキシコとのあいだに壁を作り、人々の往来を制限するように命じてメキシコと険悪になったことを知っている。しかし、本作の作り手たちは大統領選の何年も前からこの映画を計画し、2014年にはキャスティング等も詰めていたわけだから、その思いと眼力に驚かされる。
物語は、西部にある白人の町ローズ・クリークの教会からはじまる。住民はここで集会を開き、大富豪バーソロミュー・ボーグに与するか、ボーグに逆らうかで対立していた。それはまさに共和党候補の大富豪ドナルド・トランプに投票するか、反対票を入れるか、米国を真っ二つに割った対立の縮図といえる。
この西部の教会は、現代の米国で多数の信者を集めるメガチャーチに相当しよう。2016年の調査ではテキサス州のレイクウッド教会が礼拝出席者数5万2千人で全米最大規模を誇るが、ここのカリスマ牧師ジョエル・オスティーンはドナルド・トランプを称賛したことで知られるという。
本作は教会にはじまり教会に終わる。途中でも、たびたび教会の場面が挿入される。それは、ボーグに従うか否か(トランプを支持するか否かに相似する問題)が信仰の問題でもあるからだろう。

米国のキリスト教は大きく様変わりした亜種だという。氏はこう述べる。
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その変容ぶりを示すのが、この世の成功に対する考え方である。アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
(略)
トランプ氏も、その価値観の中で評価されている。あれほどキリスト教の理念とかけ離れた言動を続ける人物を、何と白人福音派の8割が支持したという。なぜか。彼らはこう考えるのである。
「たしかに彼は人間的に見て困ったところもある。だが、神の目はどこか違うところを見ているに違いない。彼には、人の知らないよいところがあって、それを神が是認しているのだ。だから彼はあんなに成功しているのだ」
トランプ氏本人も、彼の支持者も、大観衆の声を通して聞いているのは、神の是認の声なのである。
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第45代大統領が決まったとき、一枚の写真が出回って話題になった。大喜びしているトランプ陣営の中、一人だけ嬉しそうではない人が写っていたのだ。ドナルド・トランプ本人である。神妙な顔つきで、じっと座ったままの彼は、莫大な富を彼に与え、今また彼を大統領にした神の声に耳を傾けていたのかもしれない。
トランプ政権の人事も神がかっている。閣僚に大富豪たち――神に祝福された人たち――を指名し、なかでも教育長官には、宗教を教えることが禁じられている公立学校よりもキリスト教的教育を推進できる私立学校を重視する人物を据えた。
テキサス州の白人の主婦は、トランプ大統領に期待する。
「今、何が私の身の回りに起こっているか、ですって。私の住んでいる田舎町にまで、肌の浅黒い見知らぬ外国人がどんどん入ってきて、治安が悪くなっているんですよ。トランプさんはこんな状況から私たちをきっと救い出してくれると信じています」。
外国人の増加と治安の悪化は必ずしも因果関係で語れるものではないのだが、こういう思いを抱いている人もいるわけだ。
成功を目指すのは悪いことではないし、成功した人が神に感謝するのは大切なことかもしれない。しかし、成功を神の祝福の証と捉え、成功しないのは神に見放されているからだと考えるなら、それははなはだ危険である。
『マグニフィセント・セブン』の中で、入植者を殺したことを責められた大富豪ボーグはこう云い放つ。
「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
(If God didn't want them to be sheared, he wouldn't have made them sheep.)
これは『荒野の七人』で無法者たちの首領カルヴェラが口にしたのと同じセリフだ。
残酷な言葉に聞こえるが、誇張があるとはいえこれは米国の信仰の行き着く先ではないだろうか。
ボーグが臆することなく攻めてくるのも、神の後ろ盾があると信じるからだ。米国のキリスト教シオニズムでは、中東戦争でイスラエルが勝利してきたのは、イスラエルが神に守られ、神から祝福されているからだと考えるそうだが、それと同じことだ。
20世紀の極東にも神州不滅を唱えて戦争した(そして滅亡した)帝国があったから、日本人にとっても他人事ではない。
追いつめられたボーグが教会に逃げ込むのも、彼を生かすかどうかは神が決めることだからだ。神に祝福されている彼は、神の庇護を受けられるはずだからだ。
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映画の冒頭、教会の集会で、バーソロミュー・ボーグに立ち向かおうと呼びかけた男性は、この土地に移ってきてようやく生活できるまでになったのに、ボーグの云いなりになるのかと訴える。
この言葉は、移民を嫌がる現代の白人たちも、元をたどれば移民だったことを思い出させるものだ。
そんな反対派の呼びかけに応じて集まったのが、マグニフィセント・セブン――崇高な七人――である。
前述の表で判るように、本作の七人は過去作の七人におおむね対応しているけれど、それだけに留まらない新鮮さと素晴らしさがある。たった七人なのに、多様性に満ち満ちているのだ。
- サム・チザムは南北戦争で北軍に所属した黒人ガンマン。
- そのチザムにとっては敵だった元南軍の白人がグッドナイト・ロビショー。
- ジョシュ・ファラデーはメキシコ人を中傷する米国人。
- 中傷の対象となる(現代でもトランプに中傷される)メキシコ人がバスケスだ。
- ビリー・ロックスは長年にわたり白人に差別されてきた東洋人。
- ジャック・ホーンはネイティブ・アメリカンのクロウ族を大量に殺し、頭の皮を剥いだ白人キリスト教徒。
- レッドハーベストは、白人の支配に頑強に抵抗したコマンチ族の一員。
人種も違えば宗教も違う。敵味方の間柄だったこともある。実に工夫を凝らしたメンバー構成だ。
そんな彼らが白人の町を守るために協力し合い、命懸けの戦いに身を投じてくれる。外国人が入ってくるのが嫌だなんて云っている白人たちの狭い了見を一蹴するような、マグニフィセントな七人なのだ。
しかも、黒人はもとより、メキシコ人の役者がメキシコ人を演じ、東洋人の役者が東洋人を演じ、ネイティブ・アメリカンの役者がネイティブ・アメリカンを演じている。これがハリウッドではなかなかできないことなのは周知の事実だ。
フークア監督がスタジオの幹部と会ったときに最初に見せられた俳優のリストも白人ばかりだった。それを引っくり返したフークア監督は、歴史的事実を反映させただけだと云う。「黒人のカウボーイはたくさんいたし、ネイティブ・アメリカンもたくさんいた。鉄道建設で働く東洋人もたくさんいた。本当の西部は、これまで映画が描いてきたよりもずっと現代的だったんだ。」
フークア監督のこの言葉は、かつては白人だけの「古き良き米国社会」があったのに、という思い込みを粉砕してかっこいい。
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『七人の侍』の中であえて主人公を一人に特定するなら、リーダーの勘兵衛ではなく、三船敏郎さん演じる菊千代であることは以前の記事で述べたとおりだ。したがって、菊千代に相当すると思われるレッドハーベストは、菊千代同様、主人公級の重い物を背負っているはずだ。
セリフこそ少ないものの、彼が菊千代と同じものを背負っているのは一目で判る。レッドハーベストは、ここ一番というときに星条旗の化粧をするのだ。顔を赤と青に塗り分け、青地の部分に白い斑点をあしらう化粧が表しているのは、アメリカ合衆国の国旗に他ならない。
米国の映画には、しばしば星条旗が登場する。旗に国家を象徴させることもあるが、もっと重要なのは国家や国民が掲げるべき理念や目的を象徴させる使い方だ。映画のテーマや、作り手がもっとも伝えたいことを語る場面で星条旗を映すことで、星条旗に意味を持たせ、今後星条旗を見るたびに観客が作り手のメッセージを思い出すように仕向けるのだ。
代表的な例が、クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』だろう。イーストウッド演じる主人公が「娼婦を傷つけるな」と叫ぶところで星条旗がはためく。娼婦が国家を象徴するわけではない。この旗を掲げる国は、国民は、他者を傷つけるようなことをしてはならないと訴えているのだ。
レッドハーベストが星条旗のような化粧をするのも同じことだ。黒人や白人やラティーノや東洋人やネイティブ・アメリカンが仲間になって一致団結するなんてことが、19世紀の米国であったはずはないのだが、こういうことを米国は、米国民は目指すべきだと、最後に加わったレッドハーベストの星条旗の化粧が訴えている。『七人の侍』が侍と農民の身分差を背景とする中で、侍でも農民でもない菊千代に身分違いの克服を象徴させたのと同じなのだ。
森本あんり氏は云う。「移民国家アメリカは、目的をもつことで統一を作り出してきた国である。アメリカを動かしてきたのは、自分で自分に課した使命である。」
その使命とは何か。
その一番大切なことをレッドハーベストは体現している。
さらにレッドハーベストの特異な位置づけを強調するため、フークア監督は白人男性ばかりのボーグの軍勢にネイティブ・アメリカンの戦士を加えている。全員が侍の中にただ一人農民出身の菊千代が交じっていた『七人の侍』とは異なり、七人の人種や出自がバラエティ豊かな本作では、ネイティブ・アメリカンのレッドハーベストが埋もれてしまいかねない。それを避けるために、ネイティブ・アメリカンだけは敵側にも配することで、レッドハーベストが人種や民族の違いを乗り越えてマグニフィセントな側についたことを目立たせているのだ。
しかも本作では、ヘイリー・ベネット演じる未亡人のエマも大活躍する。さすがにマグニフィセント・セブンの一員にはならないものの、『荒野の七人』や『七人の侍』の女性のようにならず者の襲撃から隠れてばかりではない。
戦うのは男、女は銃後で隠されているだけという前世紀の観念に囚われない作品にすることも、現代にリメイクする意義だろう。
南北戦争当時、南部の男性たちは徴兵反対運動を起こしたが、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けたという。徴兵反対運動をした男性たちは「男のくせに情けない」「意気地なし」「とても結婚相手にできない」と罵倒され、その後、運動は挫けてしまう。
本作のエマは銃を取って戦うだけではない。ガンマンたちを集めて戦わせるのもエマなのだ。
そして彼ら、ボーグに立ち向かう者たちがよりどころにするのも教会だ。
劇中、教会は戦いの要所となり、クライマックスの対決も教会で迎えることになる。
ここで戦うことで、両者は神の審判を仰いでいるのだ。白人ばかりで固まり、富と権力を追い続けるボーグと、マイノリティも含めて助け合い、力を貸しあうマグニフィセント・セブンと町の住民たちの、どちらを神は祝福するか。どちらが神に祝福されるべきなのか。それを映画は神に、観客に問うている。
米国では2044年に有色人種の人口が50%を超え、白人のほうがマイノリティになると予測されている。そんな中、本作は米国の新しい神話として語り継がれるべき作品だ。
しかし――私は懸念する。映画全体を見渡せば、町の住民の側もまた、戦いに勝利するのが神に祝福された証と考える構造になっていることを。勝利しなければ祝福されたと感じられない構造になっていることを。
結局、敗者――弱き者――に居場所はあるのだろうか。
第45代大統領を決する選挙戦は、ドナルド・トランプの勝利に終わった。
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監督/アントワーン・フークア
脚本/ニック・ピゾラット、リチャード・ウェンク、ジョン・リー・ハンコック(ノンクレジット)
原作/黒澤明、橋本忍、小国英雄
出演/デンゼル・ワシントン クリス・プラット イーサン・ホーク ヴィンセント・ドノフリオ イ・ビョンホン マヌエル・ガルシア=ルルフォ マーティン・センスマイヤー ヘイリー・ベネット ピーター・サースガード マット・ボマー ルーク・グライムス ヴィニー・ジョーンズ
日本公開/2017年1月27日
ジャンル/[アクション] [西部劇]

tag : アントワーン・フークア黒澤明デンゼル・ワシントンクリス・プラットイーサン・ホークヴィンセント・ドノフリオイ・ビョンホンマヌエル・ガルシア=ルルフォマーティン・センスマイヤーヘイリー・ベネット
『沈黙‐サイレンス‐』 トランプを大統領にする国(その1)
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「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
刺激的な宗教映画が相次いで公開された。一つは一世紀半ほど昔の話、もう一つは四世紀近く昔の話だが、どちらも極めて今日的な作品だ。
マーティン・スコセッシ監督の『沈黙‐サイレンス‐』は、波乱万丈の展開と観客の心をキリキリ締め付ける緊張感で、抜群に面白い。
文明人の鑑たる前任者が、世界の果ての秘境に行って変節してしまったという報が届く。『アメイジング・スパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールドと『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のアダム・ドライヴァーが演じる二人の若者は、自分たちこそが秘境に文明をもたらし、前任者を救出するのだと意気込んで、世界の果てにあるという、野蛮で不思議に満ちた国・日本に向かう。そこで彼らを待ち受ける、冒険、冒険、また冒険。
さすがは『ヒューゴの不思議な発明』のマーティン・スコセッシというべきか、実話に基づくとは思えないほど、ファンタジー・アドベンチャーの定石を踏まえている。
モデルになったのはイタリアのイエズス会宣教師、ジュゼッペ・キアラ神父だ。1643年、彼は仲間とともにキリシタン弾圧が激しい日本に潜入し、イエズス会の管区長代理クリストヴァン・フェレイラ神父の救出を試みる。なんとフェレイラは、キリスト教を広める宣教師でありながら、弾圧下の日本でキリスト教を棄ててしまったらしい。
本作はクリストヴァン・フェレイラ役に『ギャング・オブ・ニューヨーク』の神父や『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』の偉大なジェダイ・マスターを演じたリーアム・ニーソンを配し、ジュゼッペ・キアラ神父を架空のポルトガル人セバスチャン・ロドリゴ神父に置き換えつつ、おおむねジュゼッペ・キアラの生涯をそのままたどっている。
ファンタジー・アドベンチャーらしい描き方ではあるものの、本作は愉快で楽しい映画ではない。棄教させられるほど恐ろしい目に遭ったフェレイラ神父を救出するはずのジュゼッペ・キアラ神父もまた、日本人の過酷な拷問に苦しめられ、遂には棄教したとされるからだ。本作の中心をなすのは、肉体的、精神的な拷問の描写である。
162分の上映時間のほとんどが拷問に次ぐ拷問だ。来日した神父や隠れキリシタンたちは、熱湯を浴びせられたり、すまきにされて海に放り込まれたり、逆さ吊りにされたり、問答無用に首をはねられたりするが、その多くは信仰を棄てることなく責め苦の末に死んでいく。
「なぜ彼らはこれほど苦しまなければならないのだ。」ロドリゴ神父は問い続ける。
肉体的な拷問以上に主人公を苦しめるのが、精神的な拷問だ。幕府は、ロドリゴ神父に見せつけるように多くの者を拷問し、殺していく。彼が棄教しない限り、それは終わることがない。そのうえ幕府側の井上筑後守や通辞から、キリスト教は日本に根付かないと繰り返し諭される。
やるせないのは、命を捨てて信仰を貫くキリシタンたちこそが、キリスト教が日本に根付かないことを証明してしまっていることだ。
ロドリゴ神父は、日本のキリシタンたちがロザリオの珠や十字架を欲しがることに不安を覚える。ロザリオはカトリック教会でよく使われるものだから、それを持ちたいと思うのはもっともだ。だが、ロザリオは数珠状に連なる珠を使って次にどの祈りを唱えるか確かめるための道具だから、バラバラになった珠を一つだけ持っても意味がない。にもかかわらず、隠れキリシタンたちはたった一つの珠をもらうだけで喜び、ありがたがっている。もはや祈りを唱える道具を欲しているのではなく、珠や十字架といった物を信仰の対象にしているとしか思えない。これは、カトリック教会が教えていることとはまったく違う(プロテスタントはロザリオすら持とうとしない)。

また、ロドリゴは隠れキリシタンに「死んだらパライソ(天国)に行くんですね?」と問われてビックリする。キリスト教では必ずしも死んだら天国に行くとは教えていないのだが、日本人は「死んだら成仏する」というのと同じノリで天国に行くものだと思っているらしい。
彼らが信仰しているのはたしかにキリスト教のはずなのだが、少し異質で、日本独自に変化してしまっているのだ。
棄教するようにロドリゴを説得する井上筑後守は、「この国は沼だ」と云い、「キリスト教は根付かない」と説明する。そして太陽を指差して云うのだ、「日本人が信仰しているのはあれだ」と。沼に木を植えても根付かないが、沼を照らす太陽のような自然物なら信仰の対象たり得るのだ。
自然崇拝は世界各地に見られるし、とりわけ太陽の神格化は多くの神話・信仰に見られるところだが、先進国になってもこれほど自然物への崇拝が濃厚なのは日本の特徴かもしれない。日本各地には、太陽を神格化した天照大御神を祀る神社があり、今も多くの参拝客を集めている。
本作の原作者、遠藤周作氏が意識したのも、日本におけるキリスト教の変容と自然崇拝の濃厚さだろう。
何もキリスト教が弾圧された江戸時代だけのことではない。憲法第20条で信教の自由が保障された現在の日本でも、キリスト教は日本の風土と折り合いをつけて変化している。
キリスト教徒が行う地鎮祭はその一例だろう。日本には家を建てたり土木工事に取り掛かる前に地鎮祭を行う風習がある。これはその名のとおり、土地の神を鎮める祭りのことだ。土地の神を信仰していなければ必要ないはずなのだが、家を建てるときに地鎮祭を行うキリスト教徒は珍しくない。さすがに地鎮祭とは呼ばずに起工式と呼んだりするが、同じことである。
キリスト教だけの話ではない。劇中、浅野忠信さんが演じる通辞は、キリスト教のみを信奉するロドリゴ神父に「日本には仏教がある。我々は仏教徒だ。」と主張するが、仏教とて日本の沼の深さにはかなわない。現に仏式の地鎮祭(起工式)を行う人がいる。土地の神への信仰は、仏教とは関係ないにもかかわらずだ。
仏教が日本に伝来して千五百年ほど経つが、仏教の基本となる組織「僧(サンガ)」が日本に成立したことはないという。それどころか、「僧」という言葉はサンスクリット語で「集団」を意味する「サンガ(samgha)」が語源なのに、日本では仏門に入った個人を僧と呼んで済ませたりする。
そもそも日本の伝統仏教は、釈迦の入滅から数百年経ってからサンスクリット語で書かれた仏典を、さらに中国語に訳したものを輸入し、その過程で翻案・解釈された教えに基づいている。だから、釈迦が語った言葉に近いパーリ語を学び、パーリ語の仏典を集め、パーリ語仏典に通じたミャンマーやスリランカの高僧に教えを乞うたオウム真理教のメンバーに「日本の仏教はすべてニセモノだ」と云われても反論できないという。カルト集団の伸張を止められないのだ。
こんな日本の自称「仏教徒」が、イエズス会からじきじきに派遣されたロドリゴ神父に向かって「日本には仏教がある」と主張するのだから、とんだお笑いぐさだ。
■土着化する宗教
もっとも、宗教が変容してしまうのは日本だけのことではない。
典型的なのがクリスマスだろう。イエス・キリストが12月25日に誕生したわけでもないのに、世界各地のキリスト教徒はこの日にイエスの降誕(誕生)を祝っている。
キリスト教化する前から、欧州北部ではこの日にゲルマン神話の主神オーディンに豚などを捧げていたし、欧州南部もギリシャ・ローマ神話に登場するワインの神バッカス(ディオニッソス)の生誕を12月25日として祭りを行っていたという。ゾロアスター教やミトラ教の神ミトラの生誕祭も12月25日だ。
この日は、北半球で日照時間が短くなっていく日々が終わり、これからは日が伸びるめでたいときなのだ。だから、キリスト教に関係なく、まず12月25日頃にお祝いをする冬至祭の習俗が世界中にあり、新興のキリスト教はその影響を受けたというわけだ。
19世紀になると、オーディンが起源とも云われるファーザー・クリスマスが、ローマ帝国の司教・聖ニコラオスと同化されるようになり、現在のサンタクロース像が形作られていく。
クリスマスツリーもキリスト教とは何の関係もなかった。あれはゲルマン人の樹木信仰を受け継いだもので、冬でも緑を保つ常緑樹を生命力や繁栄の象徴として祀っているのだ。その意味では、日本の松飾りと同じである。樹木信仰と関係ないはずのキリスト教徒がツリーを飾るよりも、自然崇拝が濃厚な日本人が飾るほうがまだ似合っているかもしれない。
そして宗教の変容は、マーティン・スコセッシ監督が生まれ育った米国でも起きている。
マーティン・スコセッシ監督が『沈黙』を映画化したのは、何も四世紀も昔の、遠い日本の出来事を撮りたかったわけではないだろう。この物語が信仰や生き方といった普遍的なテーマを抱えているのはもちろんだが、宗教が土着化し、本来信仰していたものとは違ったものになってしまう状況が、スコセッシ監督を取り巻く米国社会に似ていたからではないだろうか。
マーティン・スコセッシは1942年にニューヨークで生まれた。彼の祖父母はイタリアのシチリア島からの移民であり、彼は敬虔なカトリックの家庭で育った。カトリックの司祭を目指して15歳で神学校に入った彼は、けれども1年で退学してしまう。[*1]

同じキリスト教徒なのに、なぜそこまで争うのか――と傍からは思ってしまうが、松本佐保氏によれば、「カトリックではその頂点である教皇がトップなので、英国やアメリカでは、国王や大統領より教皇に忠誠を誓うカトリックを、裏切り者で国家主権を脅かす者」とみなしたのだという。
自身が非WASP、すなわちイタリア系のカトリックの子だったスコセッシ監督が、『ギャング・オブ・ニューヨーク』で非WASPのリーダーとして戦いの先頭に立ったがために殺されるヴァロン神父を演じたリーアム・ニーソンに、本作ではカトリック教会の指導的立場にありながら拷問に屈して棄教してしまうフェレイラ神父を演じさせたのは象徴的だ。『ギャング・オブ・ニューヨーク』ではヴァロン神父の命懸けの抵抗がレオナルド・ディカプリオ演じる息子に受け継がれ、カトリックによるプロテスタントへの復讐が行われるのだが、本作のフェレイラ神父は、かつての教え子ロドリゴ神父に棄教するよう説得する側に回る。
フェレイラは単に本作の中で棄教するだけではないのだ。同じリーアム・ニーソンが演じることで、『ギャング・オブ・ニューヨーク』でカトリックの仲間のために死ぬまで戦った神父像をも打ち砕いてしまうのだ。[*2]
信仰とは何なのか。ここにはマーティン・スコセッシの深い苦悩が刻まれている。
とりわけ米国のキリスト教の変容ぶりを示すのが、この世の成功に対する考え方であるという。森本あんり氏は次のように要約する。
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アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
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20世紀、プロテスタントのマーブル協同教会で60年以上にわたり牧師を務めたノーマン・ヴィンセント・ピールは、ポジティブシンキングを唱えて米国に大きな影響を与えた。1952年に出版したポジティブシンキングの本は一躍ベストセラーとなり、今も世界中で読まれている。
ポジティブシンキングには良い面もあるだろう。ポジティブシンキングを実践することで幸せに暮らす人もいるかもしれない。
しかし、成功を神の祝福の徴(しるし)と考えることに、危うさも感じてしまう。神が祝福したのは、成功者だけなのだろうか。現に苦しみ、成功からほど遠い人は、神に祝福されていないのだろうか。神に祝福されないのなら、弱者は何をよすがに生きていけばよいのだろうか。ピールの教えは、弱者に対して極めて残酷になりかねない。
ピールは、米国の第37代大統領リチャード・ニクソンや第40代大統領ドナルド・レーガンと親しい間柄だったという。2017年に第45代大統領に就任した大富豪のドナルド・トランプはピールの信奉者であり、最初の結婚式をこの教会で、ピールの司式で挙げている。トランプは大統領に就任するや否や、難民の受け入れ停止やいくつもの国からの入国制限を命令して、大騒ぎを引き起こした。
興味深いことに、かつてあれほど対立した米国のカトリックとプロテスタントは、20世紀に入ると反共産主義で一致し、妊娠中絶やフリーセックスを肯定する60年代のカウンター・カルチャーへの反発を強めていく。
そんな中、まさに60年代に青春時代を過ごしたマーティン・スコセッシは、聖職者になるのではなくロックや映画にのめりこんでいた。
スコセッシ監督は、本作の公開に際して今の世相や時代を意識しているかを問われ、こう答えている。
「私としては、時代に対して響くことを願っています。否定するのではなく、受け入れるということを描いている映画ですので、それも伝わるといいなと思っています。まさに映画の中で、キチジローが「このような世の中において弱き者が生きる場はどこにあるのか?」と問うたように、この作品は弱き者をはじくのではなくて、彼らを受け容れ、抱擁するものでなくてはならない。弱き者が強くなっていくこともあれば、そう上手くはいかない場合もある、しかし、人が人として生きることの真価とは何なのだろうかということについての議論を、この映画は少なくとも触発することが出来るのではないか。必ずしも、社会に生きる誰もがバットを振り回すことが出来るような、強き者でなければならないということはない、強くあることが、文明を維持していく上で唯一必要な手段であるということはないのです。」
この言葉を聞けば、『沈黙‐サイレンス‐』が遥か昔の遠い異国の物語ではなく、今現在の米国に向けた作品であることが判るだろう。
これは遠藤周作氏が、そしてスコセッシ監督が神の声について物語る作品なのだ。どんなに拷問を受けても棄教を迫られても、信仰を持ち続けたロドリゴ神父の姿を通して、スコセッシ監督はすべての弱き者と強き者に真摯に問いかけている。
「強き者」「弱き者」という言葉が様々な意味を含んでいることにも留意が必要だろう。それは富者と貧者や、権力者と隷属する者を意味するだけでなく、確固たる信仰を持ち、強く主張できる人と、信心が揺らぎ、ときに懐疑心を抱く人をも指している。本作のキチジローのように。神学校に進んだりやめたりするスコセッシ監督のように。

劇中、踏み絵を迫られた隠れキリシタンたちは絵を踏むことができない。十字架に唾を吐くことができない。物を信仰の対象にしてしまう彼らだから、女や男の像がかたどられた木や金属版を差し出されて、これが聖母マリアだ、イエス・キリストだと云われれば踏めなくなってしまうのだ。ただの木や金属の板なのだから踏んでしまえば良いものを、死の苦しみを味わってもそれができない。
はじめはロドリゴ神父も絵踏みができなかった。しかし、「踏むがいい」というイエスの言葉を聞くことで、遂に彼は踏み絵を踏めるようになり、感極まって泣き崩れる。それからの彼は絵を踏むことに抵抗を覚えなくなるし、紙に「棄教します」と書いて提出するのも平気になる。それらはただの絵や文字でしかなく、彼の心の中の信仰とは何の関係もない物体だったからだ。
遠藤周作氏の弟子・加藤宗哉氏によれば、この点に関して遠藤周作氏には後悔があったという。
ロドリゴが信仰を棄てていないことが日本の読者には判りにくかったと、遠藤周作氏は気にかけていたそうだ。ロドリゴが「私は転びます」という書を何度も書く場面は、そのたびに彼が信仰を取り戻していたことを読者に知らせる意図だったそうだが、それを汲み取れない読者が多かったという。
映画の観客も、ロドリゴが絵踏みして泣き崩れる場面を観て、もしかしたらロドリゴが棄教したと思ったかもしれない。しかし映画は、ロドリゴがキリスト教のしるしを死ぬまで手放さなかったことを映像で示し、彼の信仰の深さを表現している。
スコセッシ監督は語る。
「信じるということは、おのずと享受できるものではないと思っています。自らが欲して勝ち取らなければならないものです。日々考えたり、書いたり、映画を作ったりして人間とはなんなのか、人間とは良いものなのか、悪しき存在なのか」
そして、信仰に迷い、ときには信仰を棄ててみせるキチジローについて、「キチジローは我々を代表しているキャラクターだ」とまで述べている。
スコセッシ監督も、神父を目指したり、神学校をやめたり、信仰をテーマにした映画を撮ったりすることを通じて、信じるということをみずから欲して勝ち取ろうとしているのだろう。

踏み絵を前にしたロドリゴ神父が「踏むがいい」というイエスの言葉を聞くように、本作の神は沈黙していない。なのに、題名で多くの読者に誤解を与えてしまったことを遠藤周作氏は悔やんだそうだ(遠藤周作氏が用意していた題は『日向の匂い』)。
加藤宗哉氏は、スコセッシ監督が「踏むがいい」を「It's all right.…… Step on me」と訳したことを絶賛している。踏みにじるようなニュアンスではなく、「踏んでもいいんだよ」という優しいイメージを打ち出したスコセッシ監督の感性に感嘆したという。
これがスコセッシ監督の人間を見る目の根底にあるものなのだろう。本作が描くのは強き者の決断ではなく、圧力に屈しない強い信念でもなく、弱き者がおずおずと一歩前へ踏み出す、そのささやかな(それでいて大切な)瞬間なのだと思う。
スコセッシ監督はこうも云っている。[*1]
「20歳か21歳のころ、神父を題材とした映画を撮りたいと考えていました。神父はエゴやプライドを捨てて、一歩を踏み出そうとする人を導くのです。映画『沈黙』に取り組みながら、これがまさにその話だと気づきました。別の映画で触れてはきましたが、若いころから自分の中にあったテーマを60年たってやっと作品にできたのです。」
『沈黙‐サイレンス‐』は、キリスト教徒であるとないとに関わらず、人生について、人の世について考えさせる見応えある作品だ。
だが……この映画は、成功は神の祝福の徴と考える人に響くだろうか。そんな考えを是とする社会を変えられるだろうか。
現に成功している人は、こう云い放つのではないだろうか。
「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
まるで本作から抜き出したようなセリフだが、これは『沈黙‐サイレンス‐』の一節ではない。
『沈黙‐サイレンス‐』に続けて公開された映画『マグニフィセント・セブン』は、この言葉を巡る宗教戦争を描いていた。
(「『マグニフィセント・セブン』 トランプを大統領にする国(その2)」につづく)
[*1] マーティン・スコセッシ監督インタビュー BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」 NHK BS1 2017年1月2日 21時00分放映
[*2] フェレイラ神父役には、当初ダニエル・デイ=ルイスが予定されていたという。たび重なる撮影延期のため降板することになったが、『ギャング・オブ・ニューヨーク』でカトリックを虐殺しまくった彼がフェレイラ神父を演じていたら、やはり大きなインパクトがあったに違いない。
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監督・脚本・制作/マーティン・スコセッシ
脚本/ジェイ・コックス 原作/遠藤周作
出演/アンドリュー・ガーフィールド 窪塚洋介 アダム・ドライヴァー リーアム・ニーソン イッセー尾形 浅野忠信 笈田ヨシ 塚本晋也 小松菜奈 加瀬亮 キアラン・ハインズ
日本公開/2017年1月21日
ジャンル/[ドラマ] [時代劇]

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