東越中島立坑~越中島駅(概説) - 京葉線新東京トンネル(6)



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■東越中島立坑:3km569m12~3km587m92(L=18.80m)
▼参考
京葉線工事誌 467~482、520ページ

工期:1985(昭和60)年10月~1986(昭和61)年10月(シールド工事は1989(平成元)年3月まで)

●概説

丸で囲んだ部分の中心が東越中島立坑本体
(C)国土交通省 国土情報ウェブマッピングシステムカラー空中写真データ(平成元年)に筆者が加筆


潮見駅の先で地下に入った京葉線は塩浜トンネル、東越中島トンネルを通り、江東区越中島3丁目の汐見運河脇に設けられた東越中島立坑に到達する。この東越中島立坑は前述の東越中島トンネルの上下各1基ずつと後述する越中島トンネル1基の合計3基のシールドマシンが同時発進するという、新東京トンネル建設工事の重要な拠点となった。この付近は塩浜トンネルと同様軟弱な沖積層が地下30m付近まで分布しており、立坑掘削時は周囲の地盤沈下防止のため壁式の地中連続壁を施工した。地中壁の施工に際しては、この土地にかつて存在した印刷工場と隣接する汐見運河に設けられていた水門の基礎杭が地中に残存していたことから、これらの撤去を行っている。完成後の立坑は東越中島トンネルと越中島トンネルの谷底部分に位置するため、立坑下部に貯水槽を設けて排水ポンプ室として常時使用するほか、避難階段とトンネル火災時の排煙機能も有している。

なお、京葉線工事誌では昨年レポートした総武・東京トンネルと異なり立坑についても個別に項目を設けて詳細に解説されているが、特にこの東越中島立坑についてはある興味深い記述が見られる。そう、読者のみなさんが一番気にしているであろうあの路線についてである。該当する部分を引用すると…

京葉線工事誌 467ページ~ 「第3節立坑 - 1 東越中島立坑 - (1)概要及び地質」

東越中島立坑は、東京起点3km578m52に位置するシールドトンネル到達発進基地用の立坑である。
(略)
なお、本立坑の用地は旧成田新幹線用地として約1,500m2を取得済みであり、立坑構築基地及びシールドトンネル3基同時発進基地としての必要面積を考慮して工事着手前に約1,300m2を借地し、合計約2,800m2を確保して施工した。

(注:太字は引用者による)


また、東越中島トンネルの項目の中にも関連する記述がある。

京葉線工事誌 520ページ 「第4節シールドトンネル - 1 土圧バランス型シールドトンネル - (1)東越中島トンネル - イ.平面線形」

平面線形の決定要因は次による。
(略)
(キ)越中島3丁目の立坑用地で工事が効率よく行える位置に構造物を施工する。(立坑用地は成田新幹線の計画時に確保されており、都心線はそれを利用する計画である。)
(ク)立坑用地に隣接する(株)日進印刷の印刷工場は、成田新幹線の計画時に用地買収と、新幹線が通過するに支障のないようアンダーピニングが施工されておりこの施設を利用する。

(注:太字は引用者による)



東越中島立坑用地の変遷。左から1974年、1979年、1989年の順。1989年の「↓」の先の建物が東越中島立坑本体。 ※クリックで拡大
(C)国土交通省 国土情報ウェブマッピングシステムカラー空中写真データ(昭和49・54・平成元年)に筆者が加筆


つまり、この立坑用地はあの成田新幹線用にすでに取得されており、イコールこの土地が成田新幹線のルートだったというのである。参考までに上の画像は東越中島立坑用地の1974(昭和49)年、1979(昭和54)年、1989(平成元)年の航空写真をそれぞれ比較したもので、成田新幹線の計画決定から間もない1974年の時点ではまだ工場が建っているが、用地買収開始後の1979年になると空き地に変化していることがわかる。やはり工事誌の記述は間違っていないのだ。しかし、トンネルの着工は成田新幹線の建設が正式に凍結された1983(昭和58)年以降であり、これまで数多く言われてきた「既に完成している成田新幹線のトンネルを転用した」という説では時期的に辻褄が合わない。また、工事誌に描かれている図面によるとシールドトンネルの内径はどの工区もおよそ6mとなっており、これでは在来線よりも車体が大きく、架線電圧が10倍以上高い新幹線は入ることすらできない。よって以上の事実を総合すると、この東越中島立坑周辺に関しては「成田新幹線の用地を流用して京葉線を建設した」と断定して差し支えないだろう。

●現地写真
→次の越中島トンネルとまとめて掲載予定

■越中島トンネル:2km947m08~3km569m12(L=622.04m)
▼参考
京葉線工事誌 559~572、686~694ページ

工期:1987(昭和62)年6月~1989(平成元)年3月(シールド掘進のみ)

●概説

越中島トンネルの位置 ※クリックで拡大
(C)国土交通省 国土情報ウェブマッピングシステムカラー空中写真データ(平成元年)に筆者が加筆


東越中島立坑から先は再び上下線が別トンネルの越中島トンネルに入る。線形は東越中島トンネルから続く半径1200mのカーブで特別区道144号線の地下に入った後、直線で越中島駅に向かっており、一貫して6パーミルの上り勾配となっている。この越中島トンネルでもルート上に杭基礎を持つ構造物が3つあり、トンネル建設に際して以下のような措置が取られている。(項目の番号は上の航空写真の中にある番号と対応している。)

1、都立三商前歩道橋(工期:1987(昭和62)年1月~1989(平成元)年3月)
都立三商前歩道橋はその名の通り東京都立第三商業高校前の交差点に架かる歩道橋である。この交差点は越中島トンネルが地下を通る区道144号線、豊洲方面へ向かう都市計画道路補助200号線、深川方面へ向かう区道125号線の3本がややずれて交わる変則的な構造となっており、歩道橋も区道144号線の越中島駅方向に向かって左下の桁が長い「H形」に架かる特殊な形状となっている。この歩道橋の北側の橋脚基礎杭が越中島トンネルの上り線に支障することとなったが、管理者である都や警視庁との協議の結果、歩道橋全体の形状が特殊であることから桁自体は現在のものをそのまま維持し、杭の受け替えのみを行うこととした。受け替えに際しては負担する荷重が小さいため、これまでのように杭をトンネル断面外に移設するのではなく、シールドトンネル天井付近にCJG工法による地盤改良を行い、荷重を分散させることでトンネル壁面のみで歩道橋を支えている

2、福山通運東京支店(工期:1987(昭和62)年10月~1988(昭和63)年3月)
都立三商前歩道橋がある交差点の北側には福山通運東京支店の倉庫・事務所の建物があるが、この建物の南端10mが越中島トンネルの下り線に支障した。当初は運送関係の営業に影響しない方法で基礎杭を造り変えることも検討されたが、後の協議でトンネルに支障する範囲の建物を取り壊して杭を引き抜く工法に変更された。工事は福山通運側が建物と基礎コンクリートの撤去を、鉄道建設公団側が基礎杭の引き抜き・埋め戻しをそれぞれ担当している。

3、越中島歩道橋(工期:1987(昭和62)年1月~1989(平成元)年1月)
江東区立深川第三中学校前に架かる越中島歩道橋も都立三商前歩道橋と同様杭基礎がトンネルに支障する。しかも、こちらの場合はトンネルの位置の関係上、道路両側の橋脚基礎杭がトンネル断面内に位置してしまうため、桁のスパンを広げる必要がある。しかし、現在の桁では補強をしても歪みが発生することや強風時に十分な強度が保てないことが判明し、そのまま流用するのは不可能とされた。一方、この歩道橋は近くに横断歩道があるため日常的に利用するのは近くの小学校に通う児童数名だけという状況であったことから、一時的に撤去しても問題ないと判断され橋脚以外は全て新品に交換することとした

シールド掘進は上記の支障物撤去と並行して東越中島立坑から開始されたが、東越中島トンネルとは異なりシールドマシンは1基のみであり、東越中島立坑から下り線トンネルを掘削したシールドマシンが越中島駅端部の立坑でUターンし、上り線トンネルを掘削して東越中島立坑に戻るという方法が採られている。以下に越中島駅端部におけるシールドマシンの回転の手順を述べる。


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<回転の手順>
1、越中島駅端部の立坑に到達したシールドマシンを6m引き出し、回転台に載せる。
2、右に12度回転させる。
3、1.2m後退させた後、右に79度回転させる。
4、少し前進させた後、右に36度回転させる。
5、1m前進させ、32度回転させる。
6、右に21度回転させた後、壁側に2.3m移動させて据え付け完了。

シールドマシンの引き抜きの際は立坑の躯体とシールドマシンの間に隙間ができるため、ここから地下水やセグメントの裏込め材が流出する恐れがあった。そのため、エクジットと呼ばれるパッキンをシールドマシンの外周に巻きつけ、隙間を埋めながら引き抜きを行った。なお、完成後のトンネルは東越中島トンネルと同様全区間で移動式の型枠を用いた二次覆工が行われており、この型枠もシールドマシンと同様越中島駅で回転させることで上下線トンネルを1台で施工している。

(つづく)
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