下記で紹介してきたような本を読むと、かつての日本にはいまのものづくりとは異なる、暮らしのデザイン手法、ものづくりの方法が確かにあったことがわかります。しかし、それがいつしかすっかり失われてしまいました。
- 茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁
- 普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁
- ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎
- 庭と日本人/上田篤
- 鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち/長町美和子
- デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く/内田繁/松岡正剛 編著
- 玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし/柏木博
もちろん、それが失われた時期はわかっています。何がそれにとって代わったのかも。しかし、問題はどうしてこれほどまで極端な変化が可能だったのかということ。あるいは具体的にその変化はどのようにして成し遂げられたのかということでしょうか。
近代デザインの出発は、誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提を条件のひとつにしていた。柏木博「近代デザインに向かって」
柏木博編・著『近代デザイン史』
そう。出発点はここにあったのかもしれません。
日本においては8世紀以降、中国をお手本とした律令格式がありました。そこには衣服や色づかいなどのデザインに関する規制(約束事)が含まれていました。江戸期において規制の内容そのものは変わっても、紫の服は高位の者しか身につけてはいけないとか喪服についての規制がありました。そうした規制が逆に江戸の町民文化に鼠色・茶色・青色を基調にした粋の文化を生み出したりもしました。
おなじことは西洋にもいえ、デザインは社会的制度や宗教と深く結びついていたものです。
それが突然、自由・平等・博愛などの時代の理念と重なり合うことで「誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができる」ことが前提となるユニバーサルなデザインが近代には求めらるようになったのです。
近代デザイン史を概観する
もちろん、突然、自由なデザインが求められたとしても、すぐには言葉通りの自由なデザインなどは生まれませんでした。新たな生活様式を提案するようなデザインを生み出すことはできず、デザイナーは歴史主義と呼ばれる過去の歴史的様式を折衷したスタイルを提案するしかなかったのです。折しも博覧会と博物館の時代であり、世界をものとしてカタログ的に一覧できるようにすることが喜ばれた時代でもありました。そうした過去の遺産にすがることなく、まったく新たなデザインの方法が近代に生み出されるためには19世紀末から20世紀初頭のアール・ヌーヴォーを待つ必要があったのです。そして、モダンデザインの歩みはその批判が噴出してくる1960年代を迎えるまで、それぞれの分野で独立的に、そして、他の分野との関連ももちながら一気に世界の生活様式を塗り替えていくことになるのです。それはかつて世界がもっていた民族や地域に根付いた生活様式や文化を一変させることになった近代化の流れを物理的に支える力となったのです。その力がなければ現代のグローバリズムなど存在しえなかったでしょう。
柏木博編著による『近代デザイン史』は、そんな近代デザインの辿った歴史を以下のような構成で分野別に紐解いていく内容となっています。
目次
- 序論 デザイン史の現在
- 第1章
- 1.近代デザインにむかって
- 2.近代デザインの展開
- 第2章 グラフィックデザイン
- 第3章 エディトリアルデザイン
- 第4章 ファッションデザイン
- 第5章 クラフトデザイン
- 第6章 プロダクトデザイン
- 第7章 建築
- おわりに モダニズムの展望
各章はそれぞれ20ページ前後でまとめられており、全体でも200ページほどの内容ですので、各章はそれぞれの分野の近代デザイン史の流れをざっと概観してみた程度のものになっています。しかし、そうした概要をたどっていくだけでも十分に近代の歴史がいかに強引に、そして理念的かつ実験的に人々の生活様式を刷新していったかがうかがい知ることができます。
ユニバーサル・デザイン
この本ではそれぞれの分野で独立した各章を異なる著者が書き記した構成となっています。ただ、近代デザインの歴史が各分野で独立した発展を遂げつつも、たがいに他の分野からの影響を受けつつ発展していたことが別々に描かれた各分野の歴史からも感じとることができます。そして、そのデザインの理念は先に引用したように、「誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができる」ことを実現しようとするものであったし、その理念ゆえに対象となる人を限定することなく、国や地域、階級や民族性を超えて誰もが等しくおなじものを使えることを目指すユニバーサル・デザインでした。
ドイツで1920年代に登場した機能主義の建築とデザインは、別名「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と呼ばれるように、歴史や文化の違いを超越した客観的「規格」であるところに、その世界的な浸透力があった。樋田豊郎「第5章 クラフトデザイン」
柏木博編・著『近代デザイン史』
産業革命に由来するもの作りの最終目標は、世界の思想文化をフォーマルな機能主義デザインに委ねることだったのである。橋本優子「第6章 プロダクトデザイン」
柏木博編・著『近代デザイン史』
インターナショナル・スタイルという用語はユニバーサル・デザインの同義語であるとも考えられ、建築においても用いられますが、ただし建築における「インターナショナル・スタイル」はアメリカの建築家フィリップ・ジョンソンがミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビジュエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスらの建築家による建築をあとから総称してつくりあげた概念としての様式であり、それらの建築家が理念として追い求めたものではないという点には注意が必要です。
ただし、それはいったん様式として認められると標準的な規格化を求める産業界が利用しやすい道具となり、建築のみならずあらゆる分野でインターナショナル・スタイル、ユニバーサル・デザインは標榜されることになります。
それを一歩先に進めたのが、フォード生産方式など、文字通り規格化された効率のよい生産方式を武器に、大衆化社会を実現したアメリカであり、2つの世界大戦をきっかけに一気にアメリカが世界をリードしていくようになるのはみなさんもご存じの歴史です。
近代デザイン批判
しかし、産業界、そして、大衆化社会と結びついて時代を変えた近代デザインにも1960年代になると批判が広がっていきます。近代主義(モダニズム)あるいは近代への急進的批判が広がったのは1960年代のことである。それは、60年代末に起こった対抗文化運動と連動していた。それは、文化のメインストリームに対抗するという位置を持つと同時に、自らの生活環境を構成してきた近代主義に対する批判を含んでいた。デザインの領域では、近代主義批判とともに、過剰な消費社会に結びついたデザインへの批判が広がった。柏木博「おわりに モダニズムの展望」
柏木博編・著『近代デザイン史』
しかし、その批判は近代を改善する方向には働かず、単に無力化しただけの方向にしか作用しなかった。80年代のポストモダンは近代を批判するつもりで近代が退けた無数の装飾を現代に持ち込みはしたが、それは現代の記号の渦に巻き込み、情報過多の状況に追いやって、あらゆる価値がフラットで交換可能な状況を生み出しただけで、いっさいの新たな価値も生活様式も生み出さずに終わったというのが割と近い過去の歴史でしょうか。
理想的生活や環境へのプロジェクトを思い出すには
そして、「近代デザインのプロジェクトは、今日ではほとんど忘れられている」状況です。それは理想的生活や環境へのプロジェクトとしてあった。それらが忘れ去られた現在では、デザインは、「市場システム」のゲームとして展開されたり、あるいは、どうせ捨てられるものとして「とりあえず」使うものとしてデザインされている。柏木博「おわりに モダニズムの展望」
柏木博編・著『近代デザイン史』
近代デザイン批判は、単に近代デザインの問題点を指摘しただけでなく、近代デザインの理念そのものも完全に破壊し、忘れ去られた存在にしてしまいました。
しかし、そこで忘れ去られたのは「理想的生活や環境へのプロジェクト」にほかなりません。骨抜きになったデザインが生み出すのはいまや、どうせ捨てられる「とりあえず」使うものだけという悲しすぎる現実。
僕らはいまだからもう一度「デザインってスゴイんだってことをもっと本気で言わなきゃダメだと思う」。だって、柏木さんがいうように「デザインは多様な生活のモデルを提示することが可能であることを、歴史的に学んだ」のだから。
僕たちデザインに関わる人間は、理想的生活や環境へのプロジェクトをもう一度思い出し、生活や暮らしのデザインを再びやり直す必要があるのではないでしょうか。
消費されないにはどうしたらいいか? ただ交換価値にばかり目を取られるのではなく利用価値に目を向けさせるためにはどうしたらいいか? すべての価値=情報があまりにもフラットになってしまった状況で、いかにして意味のある生活を支える提案を再びデザインが行えるようになるためにはいったい何が必要なのか?
それにはもう一度、歴史を学びなおす必要があるのではないでしょうか。
どうしてこんなことになってしまったのか?と、デザインに関わるひとりひとりが問い直す必要があるように感じます。
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