表現とビジネスのあいだをどうディレクションするか?

書くということ。書き続けるということ。
これ、実は簡単にできる人もいればそうでない人もいます。もちろん、文章を書くことができる技術があるかということに関していえば、ほとんどの人が文章を書く技術は習得しています。だから、書くこと、書き続けることに関していえば、書けないのではなくて、書くのがむずかしいかそうではないかということに人それぞれ差が出てくるように思います。さっとかけてしまう人もいれば、なかなか書き始められなくて書くのにも時間がかかる人もいます。
僕はこれまでその差を努力や練習の量の差かなと単純に考えてしまっていたふしがあるけど、どうもそれだけではないような気が最近はしています。

なんでもかんでもブログを書くことをすすめればいいわけではないかもしれない

僕もたまにこのブログやリアルな場において気軽な気持ちで、他人にブログを書いてみることをすすめたりするけれど、実のところ、ブログであれなんであれ、書くということは必ずしも誰にでもできることではないのかもしれないなと最近思いはじめているんです。

書くという行為に限らず、話すという行為にしても、誰でも言葉を話し、文書を書くことができるといっても、それが必ずしもブログを書き続けたり、大勢の前で話をすることに直結するものではないだろうな、と。

ブログを書くのをすすめるのは「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない」や「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」で書いたような、瞬時に自分の考えていることを他人に伝える力を養うためのボキャブラリを増やすためだったりするのですけど、必ずしもそれはブログを書くことによって訓練する必要があるわけではありません。

本を読む量を増やしたり、他人と議論する機会を増やしたり、マインドマップツールを使って頭の中を整理する練習をしたり。決して、自分が使いこなせるボキャブラリ(使用語彙)を増やすのに、ブログを書くこと、書き続けることだけが練習の手段であるわけではありません。

ブログを簡単に他人にすすめるブロガーは僕も含めて、そのへんのことがいまいち理解できてないのかもしれなくて、自分が得意だからとすぐにブログを書くことをすすめる傾向があるように思います。でも、そういうブロガーが他人と議論をしたりするのが得意なのかというと必ずしもそうではなくて、実はブログを書くだけでは決して「瞬時に自分の考えていることを他人に伝える力を養う」ことになっていないこともわかります。

文章が書けることと文章を使った表現は地続きではない

書くという能力があることと、その能力を使った表現物をつくる行為のあいだには確実にひとつの壁があります。そして、その壁は表現の形式によって、それぞれ違いをもっている。

例えば、ブログを毎日書き続けられるからといって一冊の本が書き上げられるかというとそんなことはなく、それは毎日複数のお客さんと話をする営業マンが全6回のセミナーの講師を引き受けられるわけではないのとおなじくらい違います。先にも書いたように、ブログを毎日書けるからといって、「瞬時に自分の考えていることを他人に伝える力」があるわけでもありません。

僕らはどうも言葉を話すこと、文章を書くことは誰でもできることだからといって、それで人は努力さえすればどんな言葉を使った表現も簡単にできるようになるはずだと安易に考えてしまっている傾向があるのかもしれません。しかし、実際にはまったくそんなことはなく、言葉を使った表現も、ほかの別の素材を使った表現と同様に、ある程度、自分の思いどおりに表現できるようになるにはかなりの努力とそのための時間が必要です。もっというと努力をしても表現ができるようになるとは限らなかったりもします。

誰もが言葉を話し、文章を書く技術を習得しているからといって、それで言葉を使った表現・ものづくりができるかというと、そのあたりは決して地続きで考えられるものではないということに、僕らは案外気づいていなかったりします。

表現とビジネス

じゃあ、何が人にある表現を可能にし、別の表現をむずかしくさせてしまうのか、あるいは言葉を使った表現ができる人とそうでない人がいるのは何故かと問えば、それは結局のところ、根本的には技術の問題などではなく、表現に対する意欲の度合いなのかもしれないなと思います。

ほかの表現物と同様に、表現する意思、とにかく表現せずにはいられないという動機のようなものがなければ、いくら技術はあっても表現することはできないのです。
もちろん、意思や動機だけで、技術がともなわなければそれもまた問題ではありますが、すくなくとも言葉を使った表現の場合、文法的に正しい文章ならかける技術はたいていの人はもっていますから、当面書くということはできますし、それができればより豊かな表現技術をあとから手に入れることもできます。また、いくらやっても技術が向上しなくても、それによりなかなか他人に認められないということは起きたとしても、表現せずにはいられないという動機そのものを直接的に損なわせるにはいたりません。

で、そんな風に表現の動機というものと、そうした個々人の動機から生まれる表現物を土台にしたものづくりビジネスの関係について考えると、一般的に言われる「ビジネスなんだから」という常套句が実は非常にいびつな言葉であることに気づかされます。表現・ものづくりを促す言葉として「ビジネスなんだから」という台詞で簡単に片づけてしまおうという傾向がはびこっているように感じるのです。いったい、これはどういう事態なのか? とにかく強い違和感を感じます。

先日「客のつくりたいものじゃなく、自分たちがつくりたいものをつくる」というエントリーを書いたりもしましたが、実は僕らが普段意外とおろそかにしてしまいがちな「つくりたいものをつくる」という動機の有無は、ビジネスなんだから動機なんかより結果が大事なんていう考え以上に大事にすべきものなんじゃないかと思ったわけです。

販売会社とものづくり会社

もちろん、ビジネスなんだから自分の動機だけを満たす表現では話になりません。その場合、「ビジネスだから」というのは問題ないと思います。ビジネスなんだから、自分の動機と同時に他人の要求も満たす必要がある。これはとりあえず正しいと考えてもいいかなと思っています。

僕が問題視したほうがいいだろうと考えるのは、かといって「他人の要求も満たす」ことだけをものづくりの理由に据えてしまっていいものかということです。つくり手の動機を無視して、市場のニーズや顧客の要求だけでものづくりができると考えてしまうこと。もっといえば、何をつくるかなどはそっちのけで、その結果、どんだけ売れたか売れないかという数字だけしか見えなくなってしまうことに対する懸念です。そこまでいくと、つくり手が無視されているどころか、利用者さえ無視されてしまっています。人がどこにも存在しなくなり、単に数字だけがそこにある。

もちろん、売れる/売れないを一生懸命考え、売るための努力をするビジネスはあっていい。しかし、そういうビジネスをしている人間がものづくりをする人への敬意を忘れて、売るためだけにものづくりをさせるのは根本的に間違っていると感じます。そんな考えではものづくりをする人の動機を失わせてしまうでしょう。
つくる動機が弱ければできたものの魅力も損なわれるはずです。そしたら、結果売れにくくなる。売る側にとってもそれは損なはずです。

販売会社が気をつけなければいけないのは、つくり手の動機を無下にしてしまうことだけは避けなければいけないということでしょう。安易に「ビジネスだから」でなんでも説得しようとしてはいけないと思います。それは結局、自分たちが売りたい商品の魅力を損なうことにしかなりません。

一方でものづくり会社の人は、何としてでも自分たちのものづくりの動機を見失ってはいけないはずです。

表現とビジネスのあいだをどうディレクションするか?

松岡正剛さんが『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』のなかの内田繁さんとの対談のなかで、編集者不在の出版業界を嘆いていますが、まさにそれが表現とビジネスの関係をうまくディレクションできない現代の問題を象徴しているように感じます。
話はソットサスがオリベッティのために名作<バレンタイン>をデザインした話題からはじまります。

内田 あれはいい時代だったんです。オリベッティが工業を信じていた時代でした。いまはメーカーも工業を本当には信じていないでしょう。
松岡 そうだとすると、個と倶楽部と産業社会が相互に対立しながら闘うようなデザインはもう出てこないような気がしてしょうがないんです。編集の世界も同じようなものなんですが。
内田 そうなんですか。
松岡 出版社には編集者はいなくてオペレーターがいるだけです。筆者自身が編集するか、そうでなければプロダクションが編集者となるかいずれかです。
内田繁、松岡正剛「デザインと編集の知への誘い」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

まさにこの本当に信じるものがない、ものづくりを行っている時代が現代なのかもしれないなと感じます。ものづくり、表現をするための動機としての信念が限りなくグラついてしまっている(このへんの技術に対する信念・期待みたいなものが残っているのが情報技術やそれと深い関係のある認知科学的な分野だと思うのですが、どうも日本のものづくりの現場はこのへんが苦手なのか、うまいことものづくりのモチベーションにつなげられていなかったりするように感じます)。だから、それを補う誤魔化しの動機として「ビジネスだから」という言い訳がまかり通ってしまう。

先のオリベッティの話に限らず、柏木博さんの編・著による『近代デザイン史』を読んでいると、産業革命直後のモダンデザインの時代には、工業の力が本当に信じられていて、その力とともにものづくりの動機があったように感じます。

デザインの原理を意識した活動が行われるようになったのは、19世紀になってからといってよいだろう。その原動力は、イギリスからヨーロッパやアメリカ、やがては日本にも波及した産業革命であり、大々的なプロモーションの場は、殖産興業をメインテーマに掲げる博覧会事業だった。
橋本優子「プロダクトデザイン」
柏木博編・著『近代デザイン史』

しかし、いまや表現の根源となる力そのものが本当の意味では信じられてはいなくて、つくり手が疑問を感じたままものづくりをしてしまっている印象があります。
その上、さらに編集能力・ディレクション能力を失った編集者、ディレクターがつくり手の繊細な動機について理解せぬまま「ビジネスだから」とにかくつくれという。まったく完全にカネの亡者です(笑)。すべての思考の動機がカネに標準化されてしまっています。やれやれです。

ものづくり・表現をする人にとっては結構不幸な時代だなと感じますし、いいものを求める生活者にとっても不遇な時代かもしれません。

ブログを書ける人、書き続けられる人という話からずいぶん遠くまで来ましたが、表現やものづくりということを考えるためには、そのくらい個人のレベルの動機に触れるしかないと思うのです。そこにはビジネスが得意とする数字で考えることだけでは決して見抜くことができない繊細なものがある。
それを理解できるかどうかというところに、今後のものづくりビジネスの課題があるように思います。

 

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この記事へのコメント

  • みつ

    とても勉強になりました!

    ふらぁ~と訪れたんですが、
    感動しちゃいましたよ!
    表現とビジネスのあいだは、案件ごとに毎回
    考えなければなならない、課題で、いつも
    頭を使って四苦八苦しています。
    2009年04月21日 23:45
  • tanahashi

    みつさん、コメントありがとうございます。

    おかげでこんなことを書いていたんだと思いだせました。

    ここで書いている、つくる動機、信じるものがないということに関しては、僕なりに、これがひとつの答えになるだろうと思っているものを見つけました。

    ■お客さんから逃げない
    http://gitanez.seesaa.net/article/117823782.html

    で、書いていることがその一部ですので、よろしければご覧ください。
    2009年04月22日 00:17

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