デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く/内田繁/松岡正剛 編著

携帯電話が入らないのは衣服のデザインの問題なのか?」や「包むデザイン:身体を包む衣服、都会に包まれる衣服」で、衣服のデザインについて書きはじめてちょっと気づいたことがあります。

それは、もしかするとWebの話やIT、科学や経済、ライフハックやAV機器について語る際には饒舌なブロガーも実は、ファッションあるいは生活雑貨のように個人に根ざした感覚的な要素が多分にあって、理屈や論理で語れないものを前にすると途端に寡黙になってしまうのでは?ということです。

ちなみにここで「ファッション」と記述していますが、それは必ずしも流行服の意味で使っているのではなく、衣服全般の意味で使っています。衣服と書くよりも、ファッションと書いたほうが、機能的な側面よりも、趣味的なもの、個人的なセンスに関わるものという雰囲気が伝わりやすいのではないかと考え、この語を用いています。

普段どんなに、好きなことをやるとか、自分しかできないことをやればいいとか、一見感覚的にも思えることを書いていても、結局はそれも道徳的あるいは倫理的な感覚のもとで書かれたものでしかないのではないか。社会の枠組みと照らし合わせることでようやく語ることが可能な、後出しじゃんけん的な言説なのではないかと気づいたわけです。
カウンター的な表現はあっても、もっと個人の趣味や感覚に根差した好悪のようなものが表出していないのではないか。そう思ったんですね。そして、それはちょっと論理に偏りすぎているのではないか、と。

ファッションを語る言説

ファッションや生活雑貨の好みについて、機能的な面以外から語ろうとすれば、それは単にすでに確定された社会的枠組みだけでは語りえません。それを語るには、自身の生活における試行錯誤の繰り返しによって得られた、センスが問われる個人的な感覚も含めて語ることが必要になってきます
とうぜん、実際の生活において、自分で服をいろいろと選んでみたり、服を買うこと・着ること自体に楽しみを見い出せない人、ファッションセンスという言葉にたじろぐ感覚をおぼえる人には語ることがむずかしい事柄になるでしょう。

もちろん、ファッションについては語れないということ。それはそれでなんの問題もありません。ファッションにこだわりがない人が無理にそれを語る必要はないのですから。興味のないことを語らないのは当たり前のことです。
しかし、問題は興味がなく愛着もないくせに語ってしまうという人がいることです。興味のないことを無理やり語ろうとして、かつ語るのに必要なセンス(つまり、日々の試行錯誤により育まれた知見)ももたないがゆえに、センスや趣味の問題を抜きにして機能や社会的枠組みだけで語ったあげく、自らの不十分な語り口のつまらなさをもともとファッション=衣服それ自体のつまらなさに読み替えて、否定的な態度をみせる人がいるから困ったものです。

デザインを語る言説

桑沢デザイン塾での2000年の特別講座「デザインの二十一世紀」をもとに再構成された『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』という本を読んで感じたのは、そうした物事を語る2つの語り口の存在でした。
一方で、社会的な枠組みや科学的な言説の論理を使い容易に交換が成り立つ言説で語る方法があり、もう一方に、1回性の個人的な経験や主観的な感覚で捉えた内容をどうにか言葉で表現しつつ語る方法があります。

この2つの語り口は、デザインに課せられたまったく正反対の2つの要求にも対応しているようにも思うのです。
1つは、計画的で機能的で科学的確定性が求めれる側面。もう1つは偶発的で感覚的で芸術的な不確実性が求めれる側面です。
この本を読み終えたいま、僕はその2つの技術と技が統合されたところにこそ、デザインはあるのではないか、語ることが可能なものと語りえぬもののあいだにあってそれでも語り表現する行為としてデザインはあるのだろうと感じています。

それが先のファッションの話をどう書くかという話ともつながってくる。僕自身はその語をその意味で用いるのはどうも好きじゃないのですが、世に言う「クリエイティビティ」や世間一般でいう狭義の「デザイン」の好悪を感覚的に語るのを執拗に避けつつ、ファッションの話を、機能面からではなくセンスの側面から語りえない人のデザイン論はどこか信用できないなと思います。
デザインを理屈で語るのはそれはそれでだいじだと思いますから、僕自身も普段そうしていますが、だからといってデザインを感覚的な創造性の側面から語れなくなったらアウトです。そこから逃げるためだけに理屈を用いるのは邪道です。デザインをエンジニアリングと同様のものと考えていたら大きな間違いです。

センスという知のあり方

たかだか自分のための目利きさえもできないくせに、自身のセンスから語るのを巧妙に避けつつ、理屈のみでデザインの否定をするような無様な真似をするくらいなら、デザインを語る前にまずはセンスを磨くべきでしょう。もちろん、センスがよくなる必要はありませんが、デザインの現場で働く人のセンスに敬意を抱くくらいの目は養ったほうがいい。それにはとにかく経験を積むしかないありません。それは以前に書いた「「わかる」ためには引き出しを増やさないと」とまったくおなじ話です。言葉として表現するのが容易なものだけが知ではないということです。センスのような言葉として言い表しくいものも含めて知だということです。

例えば、松岡正剛さんは、「年の功だとか、日本型の知の普遍化としての型だとか」で紹介した、楽焼15代目となる樂吉左衛門さんについて、こんなことを述べています。

量に向かうことは、質の変化に克明につき合うことを意味します。そうした経験が、できた瞬間に茶碗を壊すかどうかといった判断力につながるはずです。
内田繁/松岡正剛「エピローグ・デザインの二十一世紀へ」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

ここでも判断力ですね。「何が起こっているのかわからない状態を脱するための9つの工程」や「判断力は情報デザイン力、物語化の能力」で判断力については、プロセスの側面を明示的に書きましたが、と同時に、「年の功だとか、日本型の知の普遍化としての型だとか」で書いたように、そのプロセスは経験・修練の積み重ねによって暗示的になるものです。そうした暗示的なプロセスによる判断を養うという、センスとしての知のあり方があるのだと思うのです。それは社会的な枠組みの上で容易に他者と交換可能な知とは別の方向性をもつものとしてある。そして、そのセンスを磨く方法こそ、アウトプットの<量>を追求する方法論です。

創作の方法論としての多作

松岡さんは、<社会を読むには、自分の量、速度、位置を可変状態に置かないといけないんです。社会の枠で自己を見た途端に自己像は固定されますから、変化の状態にないと個は活性化されない>とも言っています。そして、個の活性化のためには<量>が必要だとし、その一例をアーティストの日比野克彦さんの活動に求めています。

個を越えるには、現代では<量>も必要です。トヨタ、ギャップ、ユニクロ等は膨大な量を出しますが、個人でも量を質に変えてゆける方法論を持てるはずで、日比野さんはそのことに意識的です。ダンボール作品でも自画像でも海外のドローイングでも、大量に制作してすぐに個展を開く。そうした行為から個が出てくる救いを感じます。
内田繁/松岡正剛「エピローグ・デザインの二十一世紀へ」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

アウトプットを重ねることの重要性に関しては、「小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス」や「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」をはじめとするエントリーを通じて、このブログでは何度も言及してきたことです。
ここで付け加えるなら、そのアウトプットを重ねる際には誰がもがわかるような特別なことよりも、きわめて主観的で感覚的な事柄にも配慮して個人の感覚というものを養う方向で、修練を重ねることも必要なのかなと感じます。

この点に関しては、松岡さんが例に挙げた日比野さん自身がこんなことを言っているんですね。

特別な経験だけが創作の刺激になるのではなくて、ポンと背中を押してくれるような日常的なことに、モノづくりの原点があるような気がするんです。その方が、自分らしさが出ます。強烈な刺激に対しては、みんなの反応がオーバーアクションになって、結構似てきてしまうでしょう。
日比野克彦「ワークショップ・立ち話の採集」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

<ポンと背中を押してくれるような日常的なことに、モノづくりの原点がある>。
日比野さんは、街で普通の人びとが何気なく話している立ち話を採集して、それをみんなで発表しあうというワークショップを通じて、そのことを伝えようとしています。それは観察=オブザーベションを中心にした深沢直人さんのワークショップとも通じます。

もちろん、そうしたことがデザインのヒントとなるためには、それ以前に自分自身に「何かを伝えたい」、「何かをよくしたい」という気持ちがなくては、いくら日常の光景や人びとの声の採集を行っても、そこに気づきを得ることはできないでしょう。僕はそこにセンスの問題があると思っていて、それはきわめて私的なものでありつつ、私的であるがゆえに、一般につながっていくようなセンスなんではないか、と。

微細な違いを知る力

結局、特別な事柄に目を向けることは誰にだってできるわけです。もちろん、それに目を向けてはいけないということではなくて、『フラジャイル 弱さからの出発』で松岡さんが書いていたように、<大声によるプロパガンダを拒否し、あて小さな声に耳を傾ける>ことができるかということではないかと思います。

そういうことを考えるうえで、養老孟司さんの話は興味深かった。
養老さんによると、虫のミトコンドリアをDNA鑑定すると一千万年前にできた現在の日本の四島とは異なる系統関係が確認でき、それが四島が集合する前の群島の分かれ方と一致するそうです。さらに、<このブロック化とほぼ重なるのが縄文式土器の型式です>と養老さんは言います。

土器の形や模様はまさにデザインですが、それが一千万年前の虫の系統と重なります。縄文人は自然の中で暮らしていましたから、自然の微妙な形の違いを感受して、作る土器のデザインの違いとなりました。
養老孟司「生物と表現のパラドックス」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

縄文人たちは、自分たちのまわりにいる虫を観察して、その模様を土器に反映しました。「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」でも紹介しているように、その後も日本人は、自然の風景を生活のなかに映し込んできました。季節の移ろいを心に写し、それをまた襖や屏風に映し出していたのです。

年の功だとか、日本型の知の普遍化としての型だとか」で紹介したように、樂吉左衛門さんは、日本の文化の特徴として<相対性、非構造、不確定性に加担する姿勢>を挙げていました。
しかし、最初に書いたように、現在の日本では、なにかを相対的に評価したり、非構造的な価値観を追及したり、不確定性に加担したりすることができなくなっているように感じます。社会的枠組みや科学的客観性を用いることでしか語ることができなくなっているようです。逆に個人的主観で語ろうとすれば、キレ気味のネガティブ発言になってしまったりすることもあるでしょう。

そうではなく、いま必要なのは、自身の経験の<量>によって語る、非常に私的で、趣味的かつ主観的なセンスにおける語りであるように感じます。衣服や生活雑貨、食べ物や植物の成長や変化のようなごく当たり前の日常をどのように自分自身と照らし合わせて語れるか。それがデザインする姿勢に求められるものだと感じています。

もはや20世紀のように、工学的なエンジニアリング思考だけで、生活を切り開くことができる時代ではないのでしょう。
個人の日常の暮らしから生まれる感性をどのようにして、<南無阿弥陀仏>に代表される日本的な知の普遍性に結びつけることが可能かということが、生活のデザインにこそ問われているのだと感じました。



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