この本を読んで「これだ!」と思ったのは、「コラボレーションにおける"仮設の場"の活用」でも書きましたが、日本に根付いた仮設文化とそれを集約した茶道-茶室における共同作業の身体性や空間-時間性です。
何ごとにもとらわれることのない自在な空間の創造は、社会の束縛から逃れ、個人の内面だけにはたらきかける空間の創造でもあります。日本の空間とは、そうした自在な変化を前提としたものでした。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』によれば、茶室では、「ある茶会のために特別な美術品が運びこまれると、それにあわせて、ほかの一切のものは、この中心主題の美しさを引き立てるよう選ばれ、整えられ」るそうです。
茶室の中にその時々で運び込まれるもの、そして、その時々で顔ぶれの変わる客人によって、茶室という空間は自在に変化します。茶会では、個々人が自身の内面に働きかけると同時に、普段の社会的身分を越えて繰り広げられる共同作業によって場が創造されます。
こうした場のあり方に、これから必要になるはずの新しいワークスタイルとしてのコラボレーションのヒントがあるように思うのです。
先に書評を書いた岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』を読んだのも、もちろん、この本を読んで、茶道や茶室についてもっと知りたくなったからです。
ウツを重視する日本の仮設文化
岡倉天心は『茶の本』のなかで、日本の茶道に対する道教や禅の影響をみています。もちろん、それは間違いではないのですが、道教や禅的なもの影響以上に、数奇屋、空き屋とも呼ばれる茶室には、より古来からある日本的なものの影響も強く残っています。それが仮設文化です。
長くなりますが、重要だと思うので引用します。
「ウツ」は、からっぽ、「空・虚」を意味します。「ウツワ」と同根の言葉であります。器は何も入っていないがゆえに、何かによって満たされます。すでに満たされているなら、新たにものを入れることはできません。また「ウツ」は、「ウツロヒ」の語源です。「ウツロヒ」はさらに、「ウツル」=移る、「ウツス」=映す、「ウツシ」=写しへと展開します。「移る」とは変遷すること、固定化されないこと、「映す」は光や影が映し出されるように、別の何ものかを映し出すことです。そして「写し」とは「映し」出されたものを何らかの方法で定着させることでした。これらの言葉は「ウツ」という空虚なものがもつ、自在な可能性を示しています。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
内田さんは、「日本では、空間はつねに「ウツ」の状態にあることが望ましいと考えられて」きたといいます。
それは、
空間を強固に仕切ると、高温多湿な環境では空気の流通を妨げ、ものを腐らせ、病気を生む原因にもなります。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
という日本固有の自然環境、気候の特性が反映されたものです。
こうした高温多湿な自然環境が日本の仮設文化をつくるきっかけになったといえるのでしょう。
環境が文化を独自に進化させる
「学習や経験の力をなめてはいけない」では、マーク・S・ブランバーグの『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』から、生物進化や個体発育における「種特有の発育環境が種の特殊性を生む」という進化における環境の重要性について紹介しました。この日本の仮設文化が日本の自然環境において形成されたことも類似の環境の重要性を物語っているように感じます。
茶の湯には「野だて」という様式があります。これは自然のなかで行われる茶会ですが、地面に一枚の敷き物を敷くだけで茶会が行われます。この場合、敷き物は仮設の茶室です。たった一枚の敷き物が建築を表現するものです。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
この敷き物の茶室と同じように、日本家屋では、障子やふすま、暖簾や衝立など可動性があり、物理的防御性のほとんどないもので部屋と部屋を分割し、物理的にではなく、意識・認識のレベルの仕切りを用います。
また、こうした仮設文化は、20年に一度、内宮や外宮などの建物だけでなく、五十鈴川にかかる宇治橋、御装束神宝と呼ばれる正殿の内外を奉飾する御料525種、1,085点も同時に新しいものに調製される伊勢神宮の式年遷宮などの行事にもみられるものです。
こうした様々な点に、空間はつねに「ウツ」の状態にあることが望ましいと考える日本の仮設文化の特徴がみられます。
日本独自の環境が日本独特の文化を生んだといってよいのでしょう。
ハレとケのリズム
こうした「ウツ」の状態を望ましいと考える日本の文化においては、道具や調度にも「いつでもしまったり出したり、簡便な移動性」をもつことを強います。日本のデザインは、折りたたむことのできることが基本です。季節や儀礼とともにものは出され、それらの終了とともに、即座にしまわれます。そうした瞬時、瞬間のものの移動によって、室内は鮮やかに変化します。そのためには日本の家にはものをしまうための「蔵」が必要でした。しまわれたものはいつか使われるときを待って、じっと蔵にこもり続けます。こもることによって、カミの呪力がものに与えられます。カミの呪力を与えられたものは、ふたたび出現したときには、いっそう輝くわけです。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
もちろん、こうしてしまわれたり出したりして使われるものには、雛飾りや鯉幟も含まれます。
日本の文化には節句というものがありました。節句とは、節日、すなわち人日の一月七日、上巳の三月三日、端午の五月五日、七夕の七月七日、そして一般に菊の節句ともいわれる重陽の九月九日・・・・・このような式日が節句です。これは日常の単調な時間を活性化するために用意された時間でした。日常、すなわち「ケ」が持続すると、「ケ」が枯れて「ケガレ」の状態になります。これらを回復するために「ハレ」の時間を用意したわけです。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
岡倉天心が「茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である」とした茶会も、「ケ」と「ハレ」のあいだ、日常と非日常のあいだに位置するものです。
こうしたリズムを個々人がそれぞれ感じていたのが古来の日本の文化であったのかもしれません。そこにおいては空間も時間も科学的に固定されたものではなく、個々人それぞれがさまざまに異なる時間を生きることが可能である自在性をもっていたのかもしれません。
日常生活とデザイン
こうした思考のなかで内田さんはデザインをとらえています。日常生活の動作は、デザインにとってもっとも重要です。日常生活を送るために繰り返されるさまざまな基本的動作を観察し、研究することで、人と向き合ったデザインを生み出すことができるでしょう。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
付け加えれば、日常生活の動作を固定的に見るのでは、仮設文化という日本文化をとらえたデザインはできないのかもしれません。しまって出される道具や調度、ウツの空間である茶室に持ち込まれる美術品や花、そして、茶会というコラボレーションにその時々に集う客人たち。「空間を強固に仕切ると、高温多湿な環境では空気の流通を妨げ、ものを腐らせ、病気を生む原因にもなる」独特の環境における日本ならではのデザインというものがあっていいのだろうという気がしています。
そして、そうしたデザインを生むための日本独自のワークスタイルというものがあってよいだろうと。
今日のユニヴァーサル・デザインは、誰でもどこでも使えるものをよしとしますが、誰でもどこでも使えるようなものは、ものと人間の交流を薄くします。使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします。ガラスは落とすと割れるからこそ、人はていねいにあつかいます。そして、人はものに愛着を感じることになります。自転車は練習しなければ乗れません。しかしそれを達成したときの喜びは大きいものです。そうした経験こそ、人とものとの触れ合いになるのです。内田繁『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
そう。ユーザビリティを超えて。西洋的なHCD/UCDを超えて。です。
ユーザビリティとかややこしい話じゃないんです。
つくったものを人に使わせるか(人を道具に従わせるか)、人につかってもらえるようものづくりをするか(人に道具をあわせる)の違いです。
人にフォーカスしたものづくり、そのための新しい働きかたが必要なんだとあらためて考えさせられた一冊でした。
関連エントリー
- コラボレーションにおける"仮設の場"の活用
- 新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想/岡倉天心著、大久保喬樹訳
- 伊勢神宮:2 20年周期の式年遷宮にみる4次元デザイン
- 学習や経験の力をなめてはいけない
- 小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス
- UCDは経営陣のサポートなしに社内で実施することはできない
- 「ふつう」の価値
- ふつうの山の登り方
この記事へのコメント