よく聞く言葉ですけど、「見つからない」要因について考えてみたことあるのでしょうか?
「見つからない」のは、視力の問題じゃないかと思うのです。
物事見る目。目利きの力が不足してるんじゃないか、と。
やりたいことは自分の目の前にはなくても、世の中のどこかには存在している
やりたいと思えることについて、ちゃんと考えてみれば、- すでに世の中には存在していることを自分でもやりたくなるか
- いまだ自分がやりたい形では世の中には存在しないが、すこし異なる形だったり、いくつかの要素を組み合わせて編集することでやりたいことになるような形では世の中に存在しているか
の2つに1つであることがわかります。
つまり、完成形であるか素材の状態であるかは別にして、すくなくとも将来的にやりたくなることは世の中に存在しているはずなのです。
それは自分の目の前にはなかったとしても、世の中のどこかには存在している。ゼロからやりたいことをつくる人など稀だと思いますので、やっぱり、それは見つかるか/見つからないかという問題なのでしょう。
「やりたいことを見つけられる」目利きの能力には何が必要なのか?
「やりたいことが見つからない」というのは、視力の問題、自分がやりたいことを見分ける目を持っているかどうかの問題だと思っています。目の前にある物事の価値を目利きできるかどうかで、やりたいことが見つかる確率も変わってくるのではないかと思うのです。
じゃあ、その「やりたいことを見つけられる」目利きの能力には何が必要なんでしょう?
少なくとも、やりたくないことがわかるだけじゃダメだと思うんです。やりたいことは決してやりたくないことの反対のものじゃないはずです。やりたいことであってもどこか一箇所くらいはやりたくないことも混ざっていたりするものですから。
だから、やりたことを見つけるためには、様々な物事に接したときに、自分がどれだけその物事に対してやる気が起きるか、そして、それは物事のどの要素から来ているかを理解できる必要があるはずです。
簡単に言うと、自分がやっていることの中におもしろさを見出す力、です。
白馬の王子様を夢見る乙女だって
「やりたいことが見つからない」と思ってる人は、どこか自分がまだ見ぬ場所にそれがあるんじゃいかと夢想しているのではないでしょうか?白馬の王子様を夢見る乙女じゃないんだって、実際に現れる王子様が白馬にまたがって現れるとは思っていないはずです。王子様はもっと普段から見慣れた男性と似たような装いをした、ごくごく普通の人であることはわっているはずです。
しかし、そのごくごく普通の見た目の王子様が、他のあまたの男たちとは違うことを乙女は見分けるわけです。
「やりたいことを見つける」ことだって、それと変わらないはずです。
「やりたいこと」は決してほかの様々な「やれること」、「やっていること」と見た目に大きく異なるものではないはずです。
であれば、「やりたことが見つからない」と言っている人の中には、単に自分がすでに目にしている、やっていることのなかに、「やりたいこと」が紛れていることを見逃してしまっているの人もいるのではないか。「やりたことが見つからない」のは、「やりたいこと」に出会う機会がないからではなく、「やりたいこと」を見分ける目が養われていないからではないかと思うのです。
「やりたいこと」は実践のなかにある
夢見ているだけでは、「やりたいこと」は見つかりません。「やりたいこと」は夢のなかにあるのではなく、日々生きている世の中にある、やれることをやり、やれることを増やしていきながら新しいことにチャレンジしていく実践のなかにあるはずです。自分がいま何をやっているのかということを真正面から考えてみることもなく、本当はやれることを躊躇してやろうとしなかったりしていたら、「やれることが見つからない」のは当たり前なんだと思います。
つまり、自分のこだわりは何かを自分自身に問い続けていかない限り、「やりたいこと」など見つかるはずがない。そして、自分のこだわりの発見は自分の目の前にないものをシミュレーションしながら行うのではなく、自分が日々実践しているもののなかにあるこだわりを見逃していないかを実践のなかで考えていくことではないかと思うのです。
日々の実践を大切に過ごす
昨日の「スタートを早めるためには、意図的に過去の経験の蓄積を増やさなくてはいけない」でも書きましたが、経験とは外から偶然に与えられるだけのものではなく、自分で積極的に求めていくものです。経験を増やすことで新たに出会うもののなかに何かを発見する可能性も高まります。ようするに目が利くようになる。目利きの能力を磨くというのは、まさに多くの物事を経験するということです。
利休の観察力はあまたの茶人の歴史でも群を抜いている。
岡倉天心や幸田露伴ならいざしれず、とても利休にはかなう者はいない。
あの造形力は観察の賜物である。器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった。
「やりたいことを見つける」「やりたいことを自分でつくりだす」ための観察力、造形力を養い磨き上げるためには、やっぱり毎日過ごす時間、日々の自分自身の活動のなかで、より多くの物事に触れ、それらの微細な違いを感じ取りながら経験を増やしていくことこそが大事なはずです。
使える時間の量は変わらない
どんな人にとっても使える時間の量そのものは変わりません。同じだけの時間量を過ごしながら、それでも得られる経験の量が異なるのは、もはや同じだけの時間をどう過ごすかという意識やそれに伴う行動の違いでしかありません。
「やりたいことを見つけたい」と思うなら、まずやれることをやってみることだと思います。日々、やっていることの「やりたくない」部分にばかり目を向けるのではなく、いいところはないかと意識して考えてみることが大事なはずです。
きっと、いまやっていることだって、最初からイヤイヤはじめたことではなかったのではないでしょうか? ほんのわずかでも「やりたい」と思える部分が、いや、すくなくとも「やってみてもいいか」と思う部分があったはずです。
であれば、自分がそう思ったのはどうしてか、というところにこそ目を向けるべきではないでしょうか? きっと、そこに「やりたいこと」を見つけるヒントがある。
「やりたいこと」はどこか遠いところに存在するのではなく、自分が立っている足下にこそ存在しているはずです。
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この記事へのコメント
成功者ファクトリー
それは自分の目の前にはなかったとしても、世の中のどこかには存在している。
本質を突いた言葉ですね!
まずは一歩動いてみる事が発見につながる事は
多いですよね~
tanahashi
「一歩動いてみる事が発見につながる」。
そのとおりですね。逆に言えば、動かなければ発見はできないのでしょうね。
マルセル・プルーストがこんなことをいっています。
「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新しい目を持つことなのだ。」と。
やりたいことが目の前に存在していないのだとしたら、それは景色の問題ではなく、視点の問題なんでしょう。
そのためにも自分自身の思考を動かさなくてはいけない。そのためにも経験を増やして自分の考えを変えていかなくてはいけないのだと思っています。
べろんちょ
私も「やりたい事が見つからない」病の感染者でした(あるいは今でもそうなのかも知れません)。私の場合は昨年の6月から「自分のやりたい事って何だろう?」と考え始め、様々な本や企業、そして人と出会った結果、未だその答えは得られていません。
そこで自分なりに出した結論は「自分にはまだやりたい事は見つかっていない、それでいいんじゃないか」というものです。
自分が何がしたいのかわからない。何が出来るのかわからない。だから、働く。きっと「生きてるうちに何かをやってやるぞ!」という気持ちさえ失わなければ、例えどんな環境に身を置いていたとしても辿り着く場所は一つなんじゃないか。そう考えるようになりました。
りょうこ
私も、自分の本当にやりたいことについてずっと悩んでいる20代女子です(・ω・)
最近は悩みすぎてどうしたらいいのかわからなくなっています。
だけど、視点を変えてみるという発想は今まで自分の中になかった捉え方だったので、じっくり読ませていただきました。
そして、何より自分に足りない部分なのかもしれないと考えさせられたんですが、考えている内に、自分の好きなことさえわからなくなってしまいました。
欲がないわけではないんですが、例えると仙人のような状態で過ごしています。心の中が無です。
自分の人生の作り方を私は見つけたいんです。
自分の好きなこと、やりたいことで作られていく人生を望んでいる人なら、どうしたらそのレールに乗れるのか、最終目標を見据えることができますが、好きなこと、やりたいことを見つける材料探しから始めなければいけない、しかも何を作りたいのかは不明‥踏み出す最初の一歩さえどこに踏み出していいのかわかりません。
視点を変えることで何か見えてくるのでしょうか?
もし、ご意見などありましたらぜひよろしくお願いします!
長くなってしまって申し訳ないです(´_ ゝ`)