1つ1つのインプットにこだわる眼力があってこその経験値

うーん。人間ってインプット→処理→アウトプットする機械ではないんだと思うんだけど。

経験値を増やしたいのであれば、場数を増やして自分でやってみるのもいいと思うし、あと色んな人の話を聞くのもいいんじゃないかな。
一つ一つのインプットにとらわれすぎるのはどうかと。

インプットってそんな機械的なものじゃないでしょう。同じ場に身を置いても、同じように他人の話を聞いても、得られる経験は人それぞれ違うはずです。
それはいわゆるインプットが決して外部の物事をそのまま受け取るという実践ではないからです。同じ物事に接しても人それぞれ受け取るものは異なる。逆に多くの異なるものに接しても何の違いも感じない人だっているでしょう。

つまり、インプットそのものが生成なのです。
インプット→処理→アウトプットをしているのではなく、インプットそのものが処理であり、アウトプットの生成なわけです。

感じるということ自体が生成なのですから、場数を増やすとか、人の話を聞くというのも単に回数を増やしただけではダメで、その場で前とは違ったものを感じ取る感覚自体を研ぎ澄ませるよう、努力しないとダメでしょうというのが先の「スタートを早めるためには、意図的に過去の経験の蓄積を増やさなくてはいけない」の主旨なわけです。

インプットは生成である

インプットが生成であるということに関して、もうすこし書いておきます。

インプットとしての人間の感覚は、決して外部をそのまま受け入れることは意味しないはずです。外部を感覚的に捉えるときにすら、僕らは身体的に感覚を生成している。赤いスクリーンを見た僕らは、単に「赤を見る」のではなく「赤を生成している」のです。

reding

この感覚は、明らかに彼が作り出すものだ。それは、彼がスクリーンを見遣るまでは存在せず、目を閉じれば消えてなくなる。

クオリア。赤というクオリア。人間におけるインプットをこのクオリア、主観的な感覚から切り離して考えることはできないはずです。

意識は個体の歴史から切り離すことのできないプロセスである

ましてや意識的に物事を捉える場合であれば、外部の物事から意味を生成しているはず。
意味は外部の物事のうちに存在するのではなく、外部とそれを感知する人間のあいだに生成されるものだと考えるべきでしょう。

意識は、個体の身体と脳、さらにはその個体の歴史から切り離すことのできないプロセスである。

生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。
佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』

感覚、意識は、「個体の身体と脳」だけではなく、「その個体の歴史から切り離すことのできない」ものです。であればこそ、個々の経験を問う必要があり、経験するということ自体、意識的な鍛錬によって磨いていく必要があるものだということができるのではないかと思うのです。

自分の眼で「一つ」を発見すること、それを創作と言う

さらに科学の分野での言及から離れても、こんな言葉が見出せます。
先日、「目利き。」というエントリーの最後に「買ったまま、読まずにほったらかしていた『天才 青山二郎の眼力』なんて本もそろそろ読んでみてもいいかなと思う」と書いた、白洲信哉さんの『天才 青山二郎の眼力』からの引用です。

「優れた画家が、美を描いた事はない。優れた詩人が、美を歌ったことはない。それは描くものではなく、歌ひ得るものでもない。美とは、それを観た者の発見である。創作である」(「日本の陶器」)と青山は言う。見向きもされない百万もの中から、自分の眼で「一つ」を発見すること、それを創作と言う。青山らしい言葉だ。
白洲信哉『天才 青山二郎の眼力』

ここでは発見こそが創作ととらえられています。
それは先の感覚を生成ととらえる科学の視点に非常に近い。

当時、あまり価値のない雑器として扱われ、事実、優れた名器は「百万中に一つなり」と青山自身も書いた朝鮮李朝の焼き物を、自身が朝鮮から買い付けてきた2000点の陶磁器、木工品、金工品を展示販売した「朝鮮工芸品展覧会」の開催によって、一気に李朝ブームを巻き起こし、李朝陶器の価値を高めた青山二郎の眼力は、それこそ他の人には見分けのつかない100万中の1つを見分ける力をもっていたといえるのでしょう。

「いまだ多くの人が気づいていないことに、いかにして早く気づくことができるか」という意味でのスピードを身につけるために

僕が経験によって磨いていく必要があると思っているのは、こうした類いの眼力です。それには場数が必要ですし、多くの自分とは異なる他人に触れる必要があるでしょう。

しかし、ただ触れればいいわけではない。ましてや「一つ一つのインプットにとらわれすぎ」ないで、どうして他の人に見えない微細な違いを身につけていく、自分自身の経験の「歴史から切り離すことのできないプロセス」として身につけていくことができるのでしょう?

無意識的に過ごしていたら経験値など増えるはずがないと僕は思います。
何より日々過ごしていく中での自分の感覚や、そうした感覚を多様にする異なる場や異なる人との触れ合いを積極的に求める実践力を意識的に大切にしていかない限り、「スタートを早めるためには、意図的に過去の経験の蓄積を増やさなくてはいけない」で問題にしたような、「いまだ多くの人が気づいていないことに、いかにして早く気づくことができるか」という意味でのスピードを身につけることはむずかしいと思っています。

外の物事に接して何かを感じるということ自体が生成なのです。
経験そのものが創作的なのです。

   

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