▲ 「タイプトレース道〜舞城王太郎之巻」ドミニク・チェンほか 2007(写真:divi.dual)
これまでも公開講座として開催されてきた「ダイアログとデザインの未来」というシリーズの第7弾として、今回は「アートがもたらすイノベーションの可能性」というテーマで、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事であり、株式会社ディヴィデュアルの共同設立者であるドミニク・チェンさんと、Takuro Someya Contemporary Artというコマーシャルギャラリーの代表をつとめている染谷卓郎さんのお2人のトークセッションを中心に一部会場も巻き込みセッションが行われていました。
僕は、最近のアートへの興味(その越境性と人を巻き込む力)と、僕自身がいま一番関心をもっている「これからの社会で個人や社会が自分たちを開いていった時に何が起こり、その際、何が自分たちの姿勢やスキルとして必要になるか」ということを関連づけて動かしていくことはできないかを考えているので、ぜひ参加してみようと思ったわけです。
まあ、動機としてはすこし前に奥入瀬でのアートキャンプに参加させていただいたことの延長線上にあるわけです。
創造のプロセスを開いていく
実際にお話をうかがう中で、特にドミニク・チェンさんの話にいろんな気づきがありました。まず1つは、チェンさん自身も作家の1人として、2007年に東京都写真美術館で開催された「文学の触覚」展という展覧会に発表した「TypeTrace」という作品〜プロジェクトに関するものです。
この作品では「デジタル時代の生原稿」をコンセプトに、小説家の舞城王太郎さんが小説を書く過程を情感が伝わったり、どこでどんな修正が成されたかなどを再現するような形で表現されています。
この記事の冒頭の写真がその作品です。
先に、作品〜プロジェクトと書いたのは、のちにチェンさんがこのしくみをWebで公開するプロジェクトに発展させたからで、チェンさんはこの作品をきっかけにご自身が共同設立者でもあるディヴィデュアルという会社を立ち上げらえたそうです。
そのディヴィデュアルでは、いま「TypeTrace」のほかに、「リグレト」というWebコミュニティも運営されていますし、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンの理事をつとめているということで、チェンさんがオープン・コミュニティ寄りの方であるのはわかるかと思います。
「TypeTrace」という作品でも「作家が本来開示しないプロセスをオープンにする」ことをテーマにしていたそうです。創造のプロセスを開いていき、そこに他者が参加できる環境をつくることで何が起こるのか? チェンさんはそこに関心をもっていらっしゃるようです。
「創造性をデザインする」という創造性
そのチェンさんがご自身がいまテーマとしていることとして"「創造性をデザインする」という創造性"ということと"Generativity(1.次世代へ継承する価値 2.予測不可能な生成力)"を挙げていました。作家の創造プロセスに限らず、従来開示されない創造過程をオープンにし、そこに複数のプレイヤーが参加していっしょに創造を行う(コ・クリエーション)形は、ビジネスの分野におけるオープン・イノベーションに通じるところがあります。また、いろんな人が参加するコンテンツ生成という観点では会場でも参加者から話が出ていましたが、初音ミク的なものにも通じます。さらに、もっとわかりやすいところでいえばAppleのiTunesやApp store的なエコシステムもそれにあたるでしょう。
オープンにすることで、従来のような1人の作家や1つの企業からだけでは生まれえない表現のバリエーションが生まれてきます。
この創造のプロセスをオープンにすることで「予測不可能な生成力」が生まれるというところが、まさに僕自身の関心もあるところです。
オープン・イノベーションの父と呼ばれるヘンリー・チェスブロウもこう書いています。
内部の知識は洞察力が深いかもしれないが、範囲に限界がある。単一の組織では複数の実験を準備・実行することはできない。ところが市場に対してオープンならば、同時に複数のことが進められる。同時進行が多いほど、バリエーションや選択の幅が増えて、イノベーションが加速する。ヘンリー・チェスブロウ『オープン・サービス・イノベーション』
オープンにすることでバリエーションが増える。これは単体の商品からiPhone/iPadのようなサービスプラットフォームへの移行を想起すればよくわかるはずです。
こうしたバリエーションを豊かにするオープン化をいかに進めるかが僕たちの社会の課題であるように思っています。
もちろん、ただ開いただけでは、そこで創造性につながるような交流は生まれません。
だから、オープンな場が創造性を生み出すことができるように「創造性をデザインする」ことが必要なのです。
創造が生まれてくる場、プラットフォームの創造性とはいかなるものか?
それが僕がすこし前から言っている「参加のプラットフォーム」であり、僕が藤浩志さんのようなアーティストがやられているリレーショナル・アート的なものに惹かれる理由です。
▲ 「藤浩志の美術展 セントラルかえるステーション ~なぜこんなにおもちゃが集まるのか?~」の展示風景より
プロジェクトをアーカイブ化する
もう1つ関心をもって聞いていたのは、アートのアーカイブ化というお話でした。このアーカイブ自体もオープン化が進んでいて、話には出てきませんでしたが、Europeanaのような国や美術館の枠組みを超えてアート作品や関連する資料のアーカイブを行なう動きも出てきています。
僕がなぜ、このアーカイブ化の興味をもって聞いたかというと、従来のようなモノとしてのアート作品であればアーカイブ化も可能ですが、アートプロジェクト(例えば、藤浩志さんのそれのような)に関しては、どうアーカイブ化するのだろうということに関心があったからです。
アートプロジェクトのアーカイブ化に関してもすでに活動は進められていて、すこし前に脚を運んだ「TRANS ARTS TOKYO展」でも、日比野克彦さんらによるアートプロジェクト「種は船~航海プロジェクトfrom舞鶴」の記録である写真や映像、資料をもとに、アートプロジェクトをアーカイブし、分析し、その評価の仕方を研究する活動「船は種」が公開されていました。
アーカイブ化が大事だと思うのは、そこが作品なきあとのアートの活動をいかにマネタイズするかを考える際に、どのような形でプロジェクトをアーカイブ化するのかは1つのポイントになってくるだろうと思うからです。
質疑応答の時間に質問をさせていただいた際にも話したことですが、このアート作品とアートプロジェクトの関係を、そのままビジネスに対比させると、商品とサービスの関係と同じであるように思います。
この場合、サービスといっているのは、インターネットサービスや先のiTunesのようなオープン性をもったものをイメージしています。
まさに藤浩志さんの子供がおもちゃを交換するしくみを通じて遊びの場を形成するかえっこなどはオープンなサービスプラットフォームそのものです。ただし、それが従来のアート作品のように商品としてのマネタイズができるかというとそうではないはずです。
もともとアートのマーケット自体、大量生産による商品が生まれ、見本市が成立してきた近代以降に成立したもので、近代以降のアート作品は最初から商品として登場してきたことは、白川昌生さんの『美術、市場、地域通貨をめぐって』などを読めばわかります。
歴史的に見て、今日、「美術」と呼ばれている文化現象が社会的に定着したのは、ヨーロッパの場合、18世紀以降の近代資本主義体制の成立と軌を一にしている、と言われている。(略)近代的な意味での「美術家」の出現は、近代都市とブルジョア階層の成立の後で見られるのである。つまり美術も、資本主義の生み出した市場の成立後に、その市場制度を受け入れる形で自らの制度を作り出し、近代美術として成立した、また美術家も、ひとつの職業として社会内に受肉したと言えるだろう。
- 近代資本主義社会に大量生産品である商品とともに社会に受肉したアート作品は、このビジネス的にも商品経済が危機的状況に陥っている状況でどのような生き残りをはかるのか
- それはビジネスがモノとしての所有される商品から、イベント的に体験されるサービスへと変わることで新しい価値を社会に提供しようとしているようにプロジェクトにその価値を移行していくのか
そんなあたりに興味をもっています。
現在、歴史は迷路のようでそこで意味を生産しなければならない
ところで、こうした藤浩志さんのアートプロジェクトのような形で、何らかの社会的な関係性を生むアートのことをリレーショナル・アートと呼ぶそうです。リレーショナル・アートという観点からは、フランス出身の理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオーについても、チャンさんにご紹介いただきました。
"Relational Aesthetics"(『関係性の美学』)という本を1998年に刊行しているブリオーは、2009年に自身が企画したテート・トリエンナーレで「オルターモダン」というコンセプトを提示しています。
以下は、その「オルターモダン」というコンセプトについて話すブリオーのインタビューですが、ここで「ポストモダンは矢のように真っ直ぐに進む歴史観を前提としていた。けれど、現在、歴史は迷路のようでそこで意味を生産しなければならない」と言っています。
まさに右肩上がりの成長を前提としていた歴史観はいまはまったく成り立たなくて、そもそもの方向性を定める軸もゆらいで、僕らはその確かな活動の土台も失ったような世界で、新しく意味と同時に意味を支える土台をも生成していく活動をしていかなくてはいけません。
翻訳/吹き替え/旅/軌跡/放浪
そのテート・トリエンナーレの際にブリオーが発表した「オルターモダン宣言」の内容がこれまた興味深いので、芸術係数blogさんが翻訳しているなかから気になった点を引用します。私たちは字幕が偏在し、吹き替えが全面化した世界へ向かっている。今日のアートはテキストとイメージ、時間と空間、それらを編み込むつながりを探すのだ。アーティストは記号であふれた文化の風景を横断し、複数の表現やコミュニケーションの間の経路を創造する。
これってまさにアフターインターネットの世界で、作家も素人の狭間もなくオープンに翻訳や模倣、異なるバリエーションの生成が行われている状況そのもので、ここから無縁のアート作品も、商品もあり得ないはずです。
それが無縁に思えるとしたら、社会に対して自分たちの領域を守りたくて門徒を閉ざした人たちだけではないでしょうか?
そして、この開かれた世界で翻訳や吹き替えが日々怒っていることを踏まえると、なぜ創造の過程をオープンにすると「バリエーションや選択の幅が増えて、イノベーションが加速する」かもわかってくるはずです。それはたくさんの人びとが自由な立場で参加するオープンな創造的な空間で、繰り返しの翻訳や吹き替えでアイデアが展開していくブレインストーミングのようなものなのですから。
ブリオーはさらにこう続けています。
アーティストは「旅する人」になる。それはオルターモダンの時代の旅人のモデルとなる。記号と形式の間の彼の軌跡は、現代的な運動、旅、横断の体験の証言となる。この進化は制作方法の変化にあらわれる。新しい形式が出現しつつある。空間と時間の両方に引かれた線によって、到達点ではなく軌跡を具現化する、旅という形式。凝固した空間-時間ではなく、放浪の過程を表現する形式。
到達点ではなく、放浪の過程を表現した軌跡。まさにモノから体験へという現在の変化そのものです。
そして、僕はこういうことを考えると、やはりマクルーハンが『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』で「印刷以前の執筆活動はオリジナルな行為というよりも、モザイクの作製であった」と書いていたことを思い起こします。
不思議なことだが、著者であるとか、偽作の問題にひとびとが関心を持ちはじめるのは、消費者中心の文化なのである。写本文化は製作者中心の文化、つまりほとんど完全な手作り文化であるといってよかった。そして、扱っている事実がどこから由来したかということよりも、それ自体として目的にかなっているかどうか、役立つかどうかが問題にされた。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
いまのオープン化の流れは、まさにアートの世界でも、ビジネスの世界でも、ここでマクルーハンが言及しているような近代資本主義以前の中世までの様相に似たところがあるのではないかと思います(このあたりの話は「おしゃべり化する社会のなかで、UIのデザインは人間が離れた場所から目を向けるグラフィカルな視覚重視のものから、人が内部に参加する形でそれを体験する建築的なものへと移行する」を参照)。
それは消費者がつくる現場から切り離された消費社会ではなく、話題の『MAKERS』でも描かれるような消費と生産が垣根なくつながるような社会へとシフトしていくでしょう。
ただし、喜んでばかりはいられないはずです。そのとき、僕らはどうやって自分たちの経済を成立させるかという課題が残るからです。
そうしたことを考えるのに、いまアートというのはとてもよいテーマであるように感じるのです。
これからもこのあたりをすこし掘り下げていきたいなと思います。
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