早く多く間違えよう

土曜日のデザイン思考のワークショップで、また1つ気づきがありました。
それは「早く多く間違えると、進展は早い」ということです。

今回のワークショップでも、例によって2チームに分かれて、それぞれおなじ課題をやってもらいました。
大抵の場合、そうなるのですが、どういうわけか、2チームに分けると片方の出来がよく片方がわるいという結果になるんです。なぜだかわからないんですが、大抵はそういう結果になる(これが3チームだとそうならない。なんでだろ?)。

ところが、土曜日のワークショップでは、いままで以上に2チームの差が大きかったんです。それは片方がいままでと比べて著しく出来が悪かったからではなく、片方がこの手のワークショップをやって以来、はじめてというほど、出来がよかったからなんです。悪い方はまあ平均的だったのですが、よい方が圧倒的によかったので、その差が目立ってしまいました。
だって、最後に感想を聞いた際に出てくるコメントが、いままで一度も出てきたことのないようなハイレベルの理解がなされた上でのコメントばかりでしたから。あー、うまくいくと、たった一日でもここまでいけるんだと目から鱗でした。

そこで、その出来のよかったチームって、ほかのチームと何が違うんだろうと考えたんですが、実はその答えは「ほかのどのチームよりも数多く間違えてた」からなんです。

実はそもそも間違いじゃないものはない

なぜほかより数多く間違えたチームの結果がほかに比べて圧倒的によくなったのか?

ひとつには、間違えてくれれば、僕が適切なアドバイスができるからです。
もうひとつには、間違えれば、おなじチームのほかのメンバーが違和感を抱いて意見がいえるからです。
そうやって、僕なり、おなじチームのメンバーに間違いとその理由を指摘されると、自分で作業をやった上の結果だから、なぜ間違ったのか、なにがよくなかったのかを、当の本人が理解できるのです。それは自分の行動の結果だから、頭だけの知識ではなくしっくりとした実感となる。

そうした間違い~修正の繰り返しが、間違いの数が多いほど、多くなるのです。それはつまり気づきが得られる機会が増えるということでもあります。

ようするに、まとめると、こうなります。

  • 手が早い:間違えなど気にせずやってみる
  • 早く間違える:間違いを他人に指摘してもらえる
  • 早く気づく:何が間違いかを教えてもらえるのは自分が考えたあとでのことだから間違った理由がピンとくる
  • 早く2度目、3度目のチャレンジができる:早く間違えれば同じ時間内でもチャレンジできる回数が増える
  • 何度も間違えられる:チャレンジするチャンスが増えると間違える機会も増える。つまり気づきの機会が多くなる

早く手を動かせれば間違えるチャンスが増え、アドバイスや気づきが多くなる。なんでこの方法が有効なのかというと、実はそもそも間違いじゃないものはないからなんですね。

すべての結果は間違いを含んでいる

早く手を動かしてできるだけ多く間違うことの利点は、結局、すべての結果は間違いを含んでいるということから生じているんです。

正解があるのではなく間違ってはいけない点が数多くあるだけです。アレとコレとソレをクリアすればOKっていうものでもない。100%完璧という状態がなくて、青天井なわけです。
どこまで行っても結果は必ず間違いを含んでいて、いくらでも修正可能な点は残る。じゃあ、いくらやっても無駄かというと、そうではなくて、徐々に改善されてはいく。つまり、1つ1つ間違いを修正していけば必ずいいものに近づいていく。
ようは、どれだけの数の間違いをいくつつぶせるかということであって、正解を探るというのとは根本的に考え方が違うんです。

それをあらかじめひとつの正解があると勘違いしてしまい、間違えて恥ずかしい思いをしないために一気に正解を見つけようとするからハマる。だって、正解は青天井のはるか手の届かないところにあるわけで、回避すべき対象と考えられている間違いなんて無数にある。つまり四方八方間違いだらけ。そんなもの避けようとするのが無駄なわけです。

無限の果てと有限のゴール

先のみえない無限の遠方に向かおうとするのに、そこに行き着くための計画を完璧に練ろうとしても無駄です。

そうした方法が有効なのは、ぼんやりとでも到着地がみえている場合です。ゴールが有限の距離にあり、さらにはそこまでの距離やそのあいだの障害などの情報が手元にある場合です。ゴールが有限の距離にあり、そこまでの距離や障害に関する情報を手にしているなら、そこに行き着くプランをデザインすることはできます。
ただし、それはゴールが無限の遠方にある場合には通用しません。

ようするに、納期とゴールが決まっている仕事上のプロジェクトであれば、プロジェクトはデザイン可能ですが、それが自分の人生となると別なのといっしょです。
人生のゴールを有限の距離にあるものとして、どこかしらの地点において人生プランを立てたりする人がいますが、僕はどうなのかな?って思います。有限の距離にあるゴールを先に設定して、そこから逆算して、そこに辿りつくプランを練るのも可能ですけど、それって楽しいの?とは思います。

だって、最初から自分の行きつく先を規定してそのためにいまを犠牲にしているわけでしょ? そりゃ、将来に夢なんてもてませんよね。だって、自分で夢を否定してかかっているわけですから。だって、ゴールに辿りついてもそれは単に予定通りというだけで、多くの場合、その最善のゴールからどれだけマイナスが出たかという負の結果しか残らないわけですから。
そうした将来のゴールに対して、いまを犠牲にする。それって「ハレの時間(とあるワークショップの感想を兼ねて)」で書いた古代の人の考えとは真反対ですね。

一歩一歩の積み重ねといっても足し算じゃない

話が逸れました。元に戻します。

行先が無限の遠方である場合、必要なのはゴールから逆算して分析的に行程を計画することではなく、実はいまいるところからとりあえず一歩一歩進むことです。そして、その一歩一歩を重ねながら、ときどきその歩みの積み重ねが創発して相転移が起こるようにする。そう。一歩一歩の積み重ねといっても単なる足し算じゃないんですね。

はじめの話に戻すと、間違いとその修正の積み重ねはあるとき、相転移を起こして、位相の異なる気づきを生むんですね。基本的にはKJ法で小さなグループにラベルをつけ、それをさらに大きなグループにしようとするときに思わぬ発想が生まれるのとおなじです。間違い~修正が何度か繰り返されると、そこに別のレベルの気づきが生まれる。

ここで一気にレベルがあがるんですね。間違いを恐れて身動きのとれなくなっている人たちとの差が一気に広がる。さらにそれを繰り返すと、差はもはやちょっとやそっとでは埋められない差になっていくんです。

スキルだの頭のよさだのの差じゃなくて行動する早さの差

実は人生においては、そういうことが頻繁に起こっているんだろうと気づいたのです。

有限の距離にあるゴールに向かうための正しいプラン、やり方ばかりを気にしていると、無限の遠方を目指す間違いを繰り返しながらの一歩一歩の積み重ねという歩みができなくなってしまう。そうすると、間違いの創発が起こるチャンスはすくなくなって、とにかくチャレンジしてみて間違えて覚えるということを繰り返している人との差はどんどん広がっていくのだろうなと思ったんです。

これって、スキルだの頭のよさだのの差じゃなくて、ふだんの生活でどれだけ好奇心をもってそれをすぐさま自分の行動に移せるかどうかの差なんだろうなと気づいたんです。
とにかく行動のはやさ。脊髄反射的なレスポンス。これって重要! まさに「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」ですね。
あー、人生プロトタイピングだなーって思いました。

そう考えると、どうなんだろ? いまの教育の基本そのものが大きくズレてるんじゃないかという気がするのです。

続編「間違いを犯すなら自分サイズで



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この記事へのコメント

  • pent

    おととい、初めてお邪魔しました。
    とても好奇心をくすぐられる、素敵なエントリばかりで、しばらくは度々お邪魔すると思いますが、よろしくお願いします。

    >スキルだの頭のよさだのの差じゃなくて、ふだんの生活でどれだけ好奇心をもってそれをすぐさま自分の行動に移せるかどうかの差なんだろうなと気づいたんです。
    とにかく行動のはやさ。脊髄反射的なレスポンス。これって重要! まさに「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」ですね。


    ここのくだりが、延髄にガツンと来ました。
    自分が思うように成果を挙げられない理由のひとつが垣間見えた気がしました。

    消化不良のままですが、本日実践してみています。微修正の嵐の中。。

    2009年08月06日 15:22

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