質を求められていたのは「質」グループのはずだったのに,なぜ質を求められていなかった「量」グループの生徒たちが,質で上回る結果になったんだろう?
これが事実として成り立つからこそ、ブレインストーミングでもアイデアの質より量を問うんですよね。このブログでも、再三にわたって「まずは手を動かそうよ」といってるのもそういうこと(cf.「小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス」「みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。」)。
先の記事中にも「質」より「量」が結果として「質」を生む理由として「多くの作品を作り出す過程において失敗を繰り返し、その失敗から多くのことを学ぶことができた」と書かれていますが、そのことについて、もう少し考えてみたい。
確率論の問題ではない
あの話の教訓を確率論的な話と理解してる人がいたようですけど、それは見方を誤っていると思います。確率論的なことだけでいえば、たかだか学校で学ぶ有限な制作時間のなかで、質がよいものができる確率など大して上がりません。
その意味で、あの話は数撃ちゃ当たる的な話ではないんです。
簡単な算数です。
まず制作物の可能なバリエーションはそれこそとてつもない数のバリエーションをもっているはずです。出来そこない、失敗作を含めて、その可能性のバリエーションがつくる分母というのはとてつもなく大きいと考えたほうがいいでしょう。たとえば、その数を1,000,000,000くらいとしましょうか。10の9乗ね。
それに対して、実際の制作物ってどのくらいできたんでしょうね。質グループと量グループでどのくらい違ったんですかね。
まあ、仮に前者が10個作ったとして、後者は100個作ったとしましょう。これが分子です。
さて、1,000,000,000分の10と1,000,000,000分の100に差がありますか?
100,000,000分の1と10,000,000分の1ですよ。これ、確率が高くなったとはいいませんよね。
ちょっと待て、制作物の可能なバリエーションってそんなにないだろうって?
それってどの程度、微妙な違いを違いと見立ててカウントするかによりますよね。
それが次の話につながります。
作ってみなけりゃ想定すらできないこともある
あの話のキーになっているのは、やっぱり自ら手を動かして、その過程で作り手自身が自分で制作したものを、アレはダメ、コレはちょっとマシっていう判断ができるという点だと思います。まぁ、それを失敗から学ぶといってみてもいいでしょう。でも、実際は「失敗から学ぶ」という言葉から想像されるような成功/失敗に二分できるようなもの以上に、もっとその中間のあいまいなものが数多く制作されるんだと思うんですよね。明らかな失敗もあるんだろうけど、それよりも自分が作ったアレとコレを比べて、コレはここがいいけど、あの部分はアレがよかったなということも結構起きると思うんです。
そう。最初は「違い」として想定していなかったものが、違いとして見えるようになってくる。実際に作ってみて、目の前でその評価が可能な実物があれば、作る前には想定すらできなかった違いも見えるようになります。ここがまずポイント。先のヴァリエーションの話もここを想定すると、分母の数はそれこそ無限に近づくということを忘れてはいけません。
さて、実際に作ってみると、違いが見えるようになる。
で、そうなると何が可能になるかというと、反省が可能になる。そして、反省ができれば、編集もできる。コレのいい部分とアレのいい部分を組み合わせたものはできないかという新たなコンセプトも生まれます。それはコレとアレを実際に作ったあとだから生まれたコンセプトであり、制作自体が制作する前には不可能であったことを可能にするのです。
これが「経験と方法」で書いた累積淘汰ですよね。
作る前の思考と作りながらの思考は同じではない
というわけで、あの話の理解において、「作る前に考えるか、作りながら考えるかの違いだよね」という理解も誤りなわけです。すでに書いたように作りながらの思考はすでに作る前の状況とは、作り手が手にしている情報がまるで異なってるわけです。手持ちの情報が異なれば、それを素材として可能になる考えは異なってもおかしくないでしょう。
その意味で「やる前に考えるか、やりながら考えるか」はまったく異なる思考です。
あの話は「やりながら考える」という方法について述べているだけで、「やる前に考える」方法については一切触れていないと思った方がいい。
「やる前に考える」方法というのは、結局「やらずに考える」方法のことなので、それは手を動かさずに手を動かした効果を想像する、シミュレーションをすることになる。だから、例えば、他の誰かが作ったものからリバース・エンジニアリング的に制作の方法というものをデータとして収集して分析して利用可能な状態にするというところからはじめるのが、「やる前に考える」方法のひとつ。ね、これって、先の話とはまるで関係ない話ですよね。
方法は1つではない
「やりながら考える」ことの大切さはいつもここでも書いているとおりですけど、同時にここでは「やる前に考える」ことの大切さとして、ビジョンを持つこと、現状の事実(例えば、ユーザーの利用状況、競合商品の評価など)を収集し分析すること、なども挙げています。ようは方法を1つの方向性に限定してしまうのも危ないなと思うんです。作りながら考えることは大事。でも、そうでない方法も同時に大切にできるかどうかということこそが、本当に大切なことかな、と。「17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡正剛」でも書いたように、焦点・中心は1つではなく、楕円形のように2焦点、もしくはそれ以上に複数の中心をもつことが大切かな、と。
とはいえ、やらずに文句言ってるばかりじゃ、どうにもならないよという点は賛成なのですけどね。
P.S.
この続編は、「もうひとつの量の追求」と「量追及ゲームというオルタナティブなルール」。
関連エントリー
- 経験と方法
- デザインの切り口
- デザインなんて一足飛びでできるものではない。
- 本を読んだり、他人の話を聞いただけで、何をわかろうというのですか?
- 小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス
- 間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?
- みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。
- ブレインストーミングの7つの秘訣
この記事へのコメント
lopes
私が新幹線で隣りに座っていた女性から
聞いた話なんですが、その人は建築の
学生さんなんですが、先生が言っていた
そうです。「絵がうまくなるためには
とにかく量をこなすことが大事だ。なおかつほめられたりすると自分も楽しくなし、依頼も多くなったりして結果、描く機会
が増えいろいろ考えるようにもなり、上
達していく。なので、毎日それを繰り返していくことが大事。」
いつも、こちらで言われている「手を動かせ!」と思って聞きました。
korinchan
もともと特定の解釈が得られる厳密な実験ではないようですが、自分はこの話では確率が支配的だと思いました。今気づいたのですが、提出作品数が不公平で、質グループの作品が目に留まりにくいという問題もあると思います。
tanahashi
>質グループの作品が目に留まりにくいという問題もあると思います。
そんなの気づかなくていいと思いますよ。
そういう問題があるかないかじゃなくて、そんな議論と無関係な想像する必要ないですから。
それこそ、よその議論が信じられないなら、自分でおなじ実験してみればいいだけだと思います。
疑問をもったなら、コメントしてる場合じゃなくて、手を動かしましょう。
korinchan
とにかく量が重要だということには同意なのです。「技能の向上」「フィードバック」「偶然性」どの効果を期待するにせよ、それはすべての必要条件ですからね。ただ、それは結果論であって、質を追及すると自動的に量が増えるのではないかとも思うのですが。
tanahashi
そもそもkorinchanさんのようにわかってらっしゃる方はそれでいいんだと思います。
ただ、結果論と考えるのは、量の体験がもつ意味を低く見積もってるんじゃないかと思いますよ。
ただ、korinchanさんが当たり前だと感じていることでも、当たり前に思えない人もいるんだと思います。
そうじゃない人もいるのだと思って、あれはあれでよしとする姿勢のほうが大事じゃないですか?
それにあのエピソードにそんなにこだわる必要ないですよ。むしろ、僕自身は自分の経験から言ってますし。
アサノ
その後の人生をかけて検証してますが、まったくその通りですね。
tanahashi
> その後の人生をかけて検証してますが、まったくその通りですね。
この言葉に尽きますね。
量というのは、「人生をかけて」積み上げ、検証するものだと感じます。
「経験と方法(http://gitanez.seesaa.net/article/104431484.html)」でも書きましたが、単に一時の授業やクラスのなかで必要な量が追及され重ねられるという類いのものではないですからね。