間違えないことより、アウトプットを早めること
そういう人に対して言いたいのは、なんで間違えることをそんなに気にするの? そもそも時間をかければ正解が出せる根拠があるの? ということです。僕は、完璧さを求めるあまり間違いを過剰に恐れ、アウトプットが遅れてしまうくらいなら、多少、間違いがあるかもと思いつつもとにかくアウトプットを出し、その上で相手の反応を見ることのほうがよっぽど重要ではないかと思います。
というより、そもそもそれがコミュニケーションなんじゃないかと思うわけです。
間違えてしまって他人に指摘を受ければ、むしろ、それは自分にとっても他人にとっても有意義なことではないかと思うのです。
そのことによって相手にとってはあなたの考えが伝わるのですし、あなたにとっては他人の指摘により間違いが修正されたより完璧に近い考えが得られるのですから。
したがって、重要なことは間違えないようにすることではなくて、間違えがあってもとにかくできるだけ早くアウトプットを出し、もし間違えを他人から指摘されればそれを受け入れ、相手に感謝するスキルをもつことだというのが僕の考え方です。
あなたがよっぽど権威のある人で、あなたの一挙一動を誰もが注目していて、あなたの言葉が社会に大きな影響を与えるということであれば別ですけど、大抵の人はそんな状況に置かれているわけではないわけですから、間違えを恐れて自分の意見も口にせず、何を考えているかわからないとか、まったく役に立たないとか思われるくらいなら、すこしくらいは間違えてもいいから自分の考えを述べて、きちんと相手に刺激(価値)を与えるほうが、社会的には重要なことだと思うのです。
アウトプット能力ってそんな風に他人や社会の利益を優先した上で、自分の言葉を紡ぐことができる力のことであって、正しいことを正しそうに言う力では決してないと思います。
情報は伝わらない
チリの神経生理学者マトゥラーナとヴァレラによって提唱され、日本では河本英夫氏による研究で有名なオートポイエーシスによれば、生命システムのモデルは自己創出系のモデルとして描かれていて、オートポイエーシス理論をベースに独自の情報学を構築している西垣通さんによれば、「生物というのは各々、みずからの認知世界の中に閉じ込められている」のであって、それゆえに、私が話していることは、この本を介して読者に伝わる。とはいえ、「伝わる」というのはそっくり小包がいくことではない。私の心の中にあるものがスッポリ行くのではなくて、読者の皆さんは刺激を受けるだけなのです。皆さんの心が刺激を受けて、自己言及的に変容するのですね。(中略)意味作用というのは、基本的に閉じた心の中の出来事だからです。情報の作用が一種の刺激作用だけであれば、情報は厳密に言うと伝わらないということになります。
情報は厳密に言うと伝わらない。なのに、コミュニケーションにおいては「何か」が伝わっているように感じられます。
伝わらないのだとしたら、そもそも正誤の判断はできません。しかも、それはあなたと相手の間で不可能なのではなく、人間同士の間では一度もそれが可能なる場面が存在しなかったということになります。
しかし、実際にはそうはなりません。
すでに事実として社会的な合意が得られている事柄や言葉そのものなどに関しては明らかに正誤の判断は可能です。
例えば、赤信号では止まらなくてはいけないとか、地球は太陽の周りを約365日間かけてまわっているだとか、生物は進化するだとか、生物は「神化する」のではなくて「進化する」のだとか。そういうものには正誤の判断はつくわけです。
そこにはすでに社会システムにおいて合意された判断が存在し、それに対して正しいのか誤っているのかを判断するからあなたと相手の間でも正誤の判断が成り立っているわけですが、あなたの考え自体が正しいのか誤っているのかを判断する際に、すべてこの社会システムによる合意形成がなされていてそれが正誤判断に使えるかというと、多くの場合、そうとは限らないはずです。
にもかかわらず、過剰に他人の批判を恐れて発言しない人がいるのはどうかと思う場面があります。もちろん、あらゆる場面で自分の意見をいう必要があるわけではないですし、人それぞれ事情がありますから、一概に自分の意見を言わないことが悪いことだというつもりはまったくありません。
僕が指摘したいのは、自分の意見を言いたいと思っているのに、誤りを恐れるあまりに躊躇してしまうことがある人に対して、そんな必要はないよということです。
アウトプットは誰のため?
そして、僕がこんなエントリーを書いているのは、自分の意見を言うということは、もちろん自分のためでもありますが、他人のためであり、社会のためでもあるということを認識してほしいからです。生命は所詮閉じていて、実際には言葉を通じて刺激しあうだけなのですが、それでもその刺激が他の生物の自己言及の原動力になります。
社会を動かしているのは基本的にはそういう刺激の与え合いと各個人の自己言及力なのではないでしょうか?
アウトプットを出し、それが他人に刺激を与え、刺激を与えられた人自身がその刺激を自己言及的に消化するというのは、企業と消費者のあいだで製品のやりとりが行われるのとも同じなのではないかと思います。製品それ自体がどうこうというより企業の与えた刺激がそれを受けた消費者の中でどのように自己言及的に利用されるか? そして、それが価値あるものとして受け止められるか? ではないでしょうか。
もちろん、企業が提供する製品には間違いがあってもいいとは思いません。
しかし、個人のコミュニケーションにおける情報のやりとりに間違いが含まれることは、むしろ、コミュニケーションそのものを活性化する場合もあるのではないでしょうか?
企業の行うマスコミュニケーションに欠けているのはそうした個人間の会話にあるような間違いも許容するような豊かさなのではないでしょうか?
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この記事へのコメント
hamegg
メディアごとに、blogやWeb日記のコミュニケーション速度というのもあるのでしょう
gitanez
メディアごとにコミュニケーション速度があるってのは確かにそうでしょうね。
でも、それはメディアというものをマクロな視点で一括りにした場合で、個々人がそれぞれのメディアで発言する速度を今度はミクロな視点でみた場合、遅い人もいれば早い人もいますよね。
どっちかっていうと、このエントリーで対象にしてるのは、そっちのミクロな側の視点です。
くじら
どまんなか
gitanez
あたたかいコメントで僕のほうもうれしい気持ちになりました。
ありがとうございます。
>どまんなかさん、
確かに仕事の現場だと「言った人がやらされる」「責任をとらされる」というのはありますよね。
仕事の場合、言うだけ言って、最後に「でも、僕がやるわけじゃないですよ」って付け加えるべきかもしれませんね w
ぬぼ
ただ、もっと重要で問題なのは、間違えたことが分かったとき、どうやって修正するか、なのではないでしょうか。何らかの方法論があるかどうかさえ怪しいですが、どんなに修復不能なことになっても、どこかでどうにかして折り合いをつけなければいけないことですから。逆に考えて、間違いを修正するのが難しくないのであれば、リスクは減り、安心して失敗できます…じゃなかった、失敗する可能性のあることでも恐れずに挑戦できますから。
てぃ
ぜんぜん関係ないのですが、河本英夫氏の名前があったので書き込みをさせていただきます。何を隠そう僕は彼の授業はほとんど単位とっておりました(一部は向こうがくれたんですけど)。中でもオートポエーシスについては(難解でしたが)面白く、いまだに機会があれば本でもよんでみようかと思っております。
gitanez
間違いの修正のための絶対的な方法論っていうのはないのかなと思ってます。
間違えを恐れずにというのは、どちらかというと合っていようと間違っていようと誰かしら何かを言ってくる可能性はじうれにしてもあるわけで、結局はどちらにしても自身の発言の責任はとらねばならず、じゃあ、どうやってとるかといえば何かを言ってきた人の話を真摯に聞くしかないってことなのかな、と。
>○○てぃーくんがこのブログ読んでるとは知りませんでした。
それはいいとして、河本英夫さんの授業を受けたってうらやましい。本も難解ですが授業もそうなんですね。
ksh
それ自体は結構なのですが、上記の2つの作業のせいで、本来やるべきだった作業ができなくなったり、1つの作業に対するフローのサイクルがどんどん重くなってきて… という悪循環に陥ります。
なので、「とにかく考えて考えて間違いを出さないように。間違えたが最後、再発防止作業がまっているぞ」という空気が蔓延してつらいですね。
大事なのはバランスだと思います。
ぬぼ
誤解を恐れずに一言で表すと「覚悟」ってことかも知れないですね。
自分の言ったことや行ったことに対して、全てを受け入れる覚悟。それが間違っていたとしても、間違っていたことを認めて修正していく覚悟。こう書くと萎縮していまいそうになりますけど、ごく普通に「自分は失敗するときもある」ということをちゃんと認めて、そういうことも含めて自分自身をありのままに受け止めていくこと、かなぁと。
簡単なようで難しく、難しいようでごく普通のことなんですよね。
名無し
そしてコンサルタントの恣意的な説明に納得した企業が、コンサルタントに言われた言葉や理論で、消費者とコミュケーションをとろうとする。でも消費者には全く縁遠い言葉や理論なので、コミュニケーションが成り立ちにくい。そしてコンサルタントは世の中は複雑だということを複雑な理論を使ってクライアント企業に説明する。
今の広告代理店主導型の消費社会では、こういう悪循環が消費を巡るコミュニケーションの根本にあると思います。ようするに消費の現場においてコミュニケーションは必ず存在していることを前提としているのです。だからテレビは高視聴率ばかりに目を奪われるし、雑誌は発行部数に命を燃やす。低視聴率、少部数のメディアに価値を見いだせないのです。
そういう状況を背景にして、間違いを恐れるな、積極的にコミュニケーションをとれ、そして企業と消費者もそういうコミュニケーションをとるべきだということは、いいかえると間違いを恐れずに買え、もしかしたら必要ないのかもしれない、社会的には間違ってるかもしれない、だけど買え。といっているようにも聞こえます。
ですから論旨としては間違ったこと、間違っているかもしれないことはどのようにしたら是正されるのか、それこそ社会にとって役に立つし、コミュニケーションの本来のあり方だ、ということを考えるべきではないのでしょうか。
企業と消費者のコミュニケーションと人と人のコミュニケーションは異なると思います。なぜなら、企業は基本的に責任を負う主体が曖昧だからです。ですから、企業を単純に擬人化して消費者とコミュニケーションがとれるという論旨については、あまりにも楽観的なんじゃないでしょうか?
gitanez
参考になりました。
ただし、ここは議論をする場だとは考えておりませんので、お返事は別エントリーの中でさせていただきます。
議論を行いたい方は、トラックバックでコメントをいただくか、mixiのほうのコミュニティにコメントください。
よろしくお願いします。
gitanez
上記にコメントさせていただいてますが、ここは議論の場だと考えておりませんので、いただいたコメントは参考にさせていただきます。
質問をいただいている点で以下の点のみ回答いたします。
西垣通さんを引用したのは、私の好みです。それが私にとっての必要性です。おっしゃるとおりそれ以外の必要性はありません。
その他は上記の点で前提が違っていますので、回答しかねます。ご了承ください。
たけし
少しでも間違ったアウトプットを行うと話の中心がずれて間違いに焦点が行ってしまったり、どちらかと言うと受取側の姿勢によりアウトプットの速度って変わってくるのではないでしょうか?
gitanez
そのとおりだと思いますが、僕の基本は「相手のせいにするな、不満に思うなら自分が変われ」です。
ている
gitanez
でも、タイミングは大事だし、それに仕事の場合は特に、完璧かどうかを決めるのは多くの場合、自分じゃなくて他人だと思いますよ。
hal*
非常に多くの部分で共感します。西垣通さんという方は初めて知ったのですが、引用文からレヴィナスの他者論(←かじっただけですが)を思い出し興味を持ちました。
ただ、ここで“主題として”言及されている「発言する(したい)人」と「受け取る人」の状況は、おそらく一定の限定された場面を前提にされていると思うのですが、これまでバイトや派遣でしか働いたことの無い自分としては、今ひとつ実感の持てる画が想像できませんでした。
ここに寄せられた他の方のコメントもそれぞれ「対話者と場面の想定」において、やはりズレを含んでいるように思いました。
そこで一旦主題から離れ、コミュニケーション一般論として考えたのが、もうひとつの「懼れ(おそれ)」の視点です。
例えば教師が生徒に何かを話すとき、間違ったことを言ってしまう恐さを常に感じていると思うんですね。中には間違って答えてしまう事を懼れるばかりに質問を受け付けない様な教師もいますが、まっとうな教師は、完璧だと思える回答がすぐにできない場合「その質問、宿題にさせてね」などと回答を保留します。さらに、私が好きだった教師は「自分が間違った事を言う可能性」をあらかじめ生徒に提示し、共に考え、ときに間違いを指摘するよう生徒に求めました。
何が言いたいかというと、あらゆるコミュニケーションにおいて、発言する人と受け取る人の間には、そこにどの程度の間違いが在り得るのかという点についての合意が不可欠だと思うのです。そうして、もし自分の言うことに間違いが在り得ると感じているならば、まずその可能性を相手に理解させ自分が発言しやすい環境を作る事に労力を払うべきだと思うのです。
相手に「君の言うことは6:4で間違ってるけどたまにすごく良いこと言うよね」という認識があり、それが自分の認識とも一致しているのならば、何もおそれることはありません。逆に、95%合っている発言でも100%正しいと思って聞かれるのは恐ろしいことです。
そうしてそのような環境は、権威や虚勢によって達成されるのではなく、礼儀正しさや上品さといったdecencyによって達成され得るものだとも思います。
小さなレストランでバイトをしているとアウトプットの重要性を身にしみて実感できます。今目の前で困っているお客さんに満足なサービスを提供できないとすれば、売り上げは如実に落ち、時給は上がらず、やがては潰れます。
タスクさえこなしていれば永続的に給料の担保される企業に勤めていれば良いですが、何かを言いたくなる様な企業にあっては一人一人のアウトプット(創出)こそが未来の給料を担保しているのだと思っています。
非常に長くなってすみません。13日のエントリーも拝読し、gitanzさんのようなお考えの方がいらっしゃる事に勇気付けられました。