20%は未知の領域へのチャレンジに充てる

折口信夫さんの『古代研究』(1.祭りの発生)を結構苦労しながら読んでいます。

とにかく文字のない古代をテーマに、古語を相手にした、大正時代に書かれた本ですから、はっきり言って読みやすいとはいえません。それでほかの本を読むのと違って時間がかかる。いったんは読むのを中断したりもしました。

ただ、だんだん読み進めていくうちに、徐々にですが読むコツがわかってきます。書かれている内容の理解もすこしずつ進んできます。そうすると、自然と読むのが楽しくなってくる。徐々にですが、読むスピードもあがってきます。

学ぶ姿勢ができていないのに、何でも教えてもらおうと思っても学べない

自分自身でもそうした経験をしながら思うのは、学ぶということにはこうした苦労と執着が不可欠だということです。

  • 何でも他人に教えてもらおうとか、
  • わかりにくいものはすぐにあきらめて投げ出してしまうとか、

そういった姿勢では学ぶことはできませんし、
  • 自分で努力し苦労するなかで
  • 自分でひとつずついろんなものを見つけていくという姿勢がない限り、
  • 誰かがいくら教えたところで学ぶことはできない

と思います。

そうした学ぶ姿勢ができていないのに、何でも教えてもらおう、知識ばかりを増やそうとする人がすくなくありません。学ぶ姿勢がなければ学べるはずがないのに、それを教える人の教え方や読んだ本の書き方の問題であるかのように他人のせいにする。

そうではないでしょ?って思います。
学ぶことができないのは、あなた自身の問題でしょ、と思います。
困ったものです。

教えてもらうことはあっても学ぶことはできない

本の話に戻れば、読んだからといってすぐにわかる必要なんて、これっぽっちもないと思うのです。
ときには僕がいま『古代研究』で苦労しているように、読んでも何が書かれているか、さっぱりわからないし、それだから読むのもすごく大変という本もあると思います。

でも、そういう本だからといって、すぐに投げ出さないことが大事だと思うんです。わからないなりに、その本にこだわってみるということは大事なことです。

投げ出したりさえしなければ、
  • いま読めないものが、しばらく間をおくと読めるようになったり、
  • いま読めないものをわからないなりに読んでいくうちに読めるようになってきたり
もします。
そういう風に自分自身が変わっていく可能性というものを見失わないでください。
いま読めない自分を、将来に向けても読めない自分という風に固定しないでほしい

だから、むずかしいと感じられる本でもすぐに「あきらめないことが大切です。そして、ときにはそうした本に立ち向かっていくことが必要だと思います。

自分がこの本には立ち向かっていくべきだろうと感じた本には、何度も打ちのめされながらも立ち向かっていく必要があるはずです。そして、そうしたこだわりがないと読めない本がある。そういう本を相手にしなければ、自分がすでに読める本のうちにとどまることになります。

これでは本当の意味で、本から学ぶということはできないのではないでしょうか? そういう本に立ち向かっていくことをしなければ、本から教えてもらうことはたくさんあっても、自分が本から学びとることはできないはずです

20%は未知の領域へのチャレンジに充てる

もちろん、それは本に限ったことではないでしょう。

何かを自分のために学ぼうと思うなら、人から教えてもらう以前に、自分なりに努力して苦労してみることが先決です。自分で努力し苦労した結果、はじめて他者の声が身体に染みて理解できるようになるのではないでしょうか。そうでなければ、他人の教えはただの知識です。自分自身で苦労してわからなかった、できなかったという体験があってはじめて、他人の教えが学びのヒントになるのではないかと思います。

そのためにも既知の領域への安住ではなく、未知の領域への挑戦がときには必要ではないかと思います。感覚値的には、すくなくとも20%は、そうした未知の領域へのチャレンジに身を投じる必要があると思っています。

それは個人だけでなく、法人でも同様でしょう。
組織でも全体の活動の20%は未知の領域を切りひらくための活動をするべきだと思います。もちろん、それは100人いたら20人が新規開拓の活動をすればよいということではないはずです。
なぜなら未知の領域のチャレンジをミッションとされた20人がいたとしても、彼らが自分のすべての時間を未知の領域へのチャレンジに充てることなど不可能だからです。未知の領域への挑戦は、既知の領域の知識や体験をベースに行うものだからです。ひとりの人間が未知の領域への挑戦に充てられるのは、せいぜい30%くらいのものではないでしょうか。

活動の20%をいかに未知の領域への挑戦に充てるかはマネジメントの問題

であれば、組織の活動の20%を新しいチャレンジに充てるということは、100名中の20名にまかせることではなく、100名の組織全体をいかに新しいチャレンジに充てさせるかということが課題となり、そこにはマネジメントの手腕が必要不可欠になってくるはずです。

それが組織のマネジメントの課題として人を育てるというときの根幹にあるべきものではないでしょうか。そうした未知の領域に挑戦するという文化が組織に根付いていなければ、いくら教育のしくみをつくったってスタッフは学べないからです。だって、学ぶ姿勢が身についていないのですから。人を育てたいのなら、まず先に学ぶ姿勢を身につける土壌を組織に根付かせることが先決でしょう。

このへんがみえてない組織って、たとえ一時うまくいっていても伸び悩む場面に必ずでくわしてしまうんじゃないでしょうか。
つまり、これって文字通り自社のドメインの20%を未知の領域へ開放しておくということでもあると思うんですよね。ドメインを固定しない領域(なんか矛盾した言い回しですね)を20%、意図的につくりだすことができるかです。いかにもマネジメントの手腕が問題になってくる話ですよね。

学ぶ力を枯渇させないために

話を個人に戻しても、やっぱり組織同様に、自分の活動のうちの20%をいかに未知の領域への挑戦に充てるかということをマネジメントすることを考えていく必要があるのではないかと思います。
ここでもやっぱり少なくとも20%は自分のドメインを固定しない領域をいかに意図的につくれるかというのが課題になります。自分の専門ではない領域、自分がまだ知らない領域へと挑むために、自分の20%の領域を確保できるかです。
それをしなければ、やっぱりいつか組織同様に伸び悩み、壁にぶち当たる。

そのとき、壁に当たってチャレンジができれば、また個人の学びの歯車はまわりはじめると思いますが、その壁を要領よく回避してしまうおうものなら、どんどん学びからは遠ざかります。一時はそれでうまくいくこともあるでしょうけど、徐々に学びの力は失せていき、気づいたときには取り返しのつかないことになる。まわりをみても、そういう人がすくなくありません。そこまで行ってしまうと、再び学ぶ力を取り戻すのは容易ではありません。

そうならないためにも、日ごろから未知の領域へとチャレンジする姿勢を失わないようにすることが大事か、と。

最後に、念のため。
20%の根拠は? なんて聞かないでくださいね。
あくまで感覚値でいってるだけですから、何の根拠もない数字ですから。
あくまで全体の何%かはそれに充てろという理解でお願いします。



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