2007年1月 1日 (月)

■謹賀新年

本年もよろしくお願い致します。

2007年1月4日(追記)

■不可能な「ガスンコ」変換

お世話になっている編集者から、以下のようなメールをもらいました。

ブログの新年のパズルをやってみましたが、
どうしても最後がガスンコにしかならない!
とほほ。あきらめました。

同じような感想を持った人も多いでしょうから、この際、ブログに返事を書くことにしました。基本的に4×4マスの「15パズル」と変わらないので、サム・ロイドの「14と15を入れ替えた状態を元に戻す」問題と同じ。これは交換不可能な配置ということが証明されています。

ランダムにピースをシャッフルしたときに、解答不能な配置が含まれることは承知していたのですが、年末の押し迫った時期に作成したので、そこまで考えられませんでした……というか、そこまでしようとは思わなかったというのがホントのところ。もちろん、全部そろった状態から、ひとつずつピースを動かし、一定数(30手とか、50手とか)動かした状態を問題とすれば、解けない問題を回避できるわけですが、それも面倒です。

「ガスンコ」のような交換不能配置になった場合は、運が悪かったとあきらめて、ブラウザをリロードするしかありません><;;

もちろん、最終的な配置が「ンコスガ」や「スンコガ」、「ガコンス」、「ガンスコ」などのようになった場合は、配置を入れ替え、クリアすることが可能です。

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2006年12月31日 (日)

■ゆく年くる年

 アマゾンに予約注文していた「コマ大数学科特別集中講座」と「脳をシゲキする算数ドリル」が届いた。

 「たけしのコマネチ大学数学科」は、深夜、30分の放送枠の中に、問題の提示、解、答、そして「美しき数学」の時間を収めなければならないため、どうしても説明を省かなければならないところがある。そういった番組ではカットされた部分を含めて、これまでの問題を収録したアーカイブとしての「本」を期待したのだが、ちょっと違ったようだ。

 これは、私の期待であって、そうはならないだろうというのは、ある程度はわかっていた。だって、そういう本は、竹内薫センセや中村亨センセ自身が書かないと成り立たないだろうから……。

「コマ大数学科特別集中講座」は、160ページのうち、番組で取り上げた問題を紹介している部分は38ページ(全体の約4分の1)。全体の60%を占めているのは、ビートたけしと竹内薫センセの対談だ。対談は対談で面白いのだが、過去の問題と解法を、本というすぐに参照できるような形で残しておきたいというのが、私の正直な気持ち。これが、全体の60%(5分の3)が過去の問題、4分の1が対談だったら、大満足だったのだけれど……。

「頭をシゲキする算数ドリル」は、木村美紀さんの本だが、問題やコラムの作成には「東大算数研究会」の協力を得ているとのこと。全60問。奇数ページに問題、めくった偶数ページに解答という形で進んでいく。

 ところで「コマ大数学科特別集中講座」の中で木村美紀さんの記事(3ページ)があるのだけれど、その中で印象に残った言葉があった。

数学はダイエットに似ています。まず第一に、根本にあるのは”美の追求”だという点です。第二に、結果を出すためには、近道もあれば遠回りもあるという点です。第三に、努力したプロセスが自分を磨く経験になるうという点です。

 まるで、「手術台の上のコウモリ傘とミシンの出会い」のように、数学とダイエットを結びつけるあたりが、お見事。現役東大生の木村美紀さんらしいなぁという印象を強く持った。

 なにはともあれ、本ブログを訪れてくれた皆様、ありがとうございました。大晦日は、デジタル「除夜の鐘」でも聞きながら、「算数ドリル」で年を越そうかな……というのは、ウソ。貧乏ライターには、大晦日もお正月もないのら。

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2006年12月21日 (木)

■Flashの貼り付け方

「ココログ」にFlashを貼り付けると、Firefoxでは表示できない問題。完全解決とはいかないが、とりあえず表示させることができた(…と思う)。WindowsXPのFirefox2.0でしか、動作確認をしていないけれど……。

まず、Flashを含め、動画やサウンドなどのプラグインをページ内に埋め込む、objectタグは、ブラウザによって解釈が異なり、対応が統一されていないこと。同じく、embedタグは、HTMLの仕様にはなく、厳密にはHTMLの文法に違反しているが多くのブラウザが対応している現状がある。これに、ブラウザの問題だけでなく、Movable Type(XML)や、XHTMLとも、関わってくる。

問題の原因は、FlashでパブリッシュしたHTMLをココログに貼り付ける際、IE6で行うと、embedタグがごっそり、なくなってしまうこと。ココログの問題というよりも、IEの問題だったのかもしれない。

で、解決策は、なんのことはない、Firefoxを使い、Flashを貼り付ければ、embedタグが削除されることがなく、IE、Firefoxのどちらでも表示されるようだ。しかし、なぜIE6だと、embedタグが削除されてしまうのかが、わからない。これって、マイクロソフトのIE以外のユーザーに対する嫌がらせかしらん?(^^;;

いずれにしろ、IEばかりを使っていると、こんなことにも気づかない。これからは、Firefoxを使うようにして、現状では、まだユーザー数が多いIEの動作検証をするというのが、正しい対処法かも……。

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2006年12月 9日 (土)

■パスカルの三角形

 「コマネチ大学数学科」の竹内薫センセの解説によると「パスカルの三角形」は小学校の教科書に出ているとのことだけど、ホントなの? いやぁ、驚きだなぁ。現在の教科書がどうなっているのか知らないけれど、少なくとも、私は小学校で習った覚えがない;;

 で「パスカルの三角形」については、ひとつ前のエントリ「カタラン数」のFlashムービーの中でも、ちょこっと触れたけれど、ひとつ上の階層の隣合うセルの和が下の階層のセルの答えになっているもの。たとえば、こんな具合に……。

20061209_01

 この表は、Excelで作成したもの。これを「セルの条件付き書式」で偶数と奇数で色分けしてみる。すると、こんなふうになる……。

20061209_02

 おお、シェルピンスキーのギャスケットと同じになるではないか。これぞ「美しき数学」の奥深さを感じさせるよね。

《参考》
■「プログラマの数学」結城 浩/著

■WIKIMEDIA CINNIBS : Sierpinski triangle
http://commons.wikimedia.org/wiki/Sierpinski_triangle?uselang=ja

プログラマの数学 プログラマの数学

著者:結城 浩,結城 浩
販売元:ソフトバンククリエイティブ


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■Xanadu:transcopyrightという考え方

ひとつ前のエントリで「GoogleLookup」という、Google Speadsheets の新機能について書いた。GoogleLookupは、ウェブ上の情報をそのまま、スプレッドシートの中に表示する(参照する)機能だ。今さら言うのもなんだけど、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)は、リンクによって、他のところにある文書を参照できるしくみだ。私が「GoogleLookup」に注目するのは、誰もが自由にインターネットに蓄積された智を利用できる、ひとつの仕組みだからだ。これは、もちろんGoogleの検索技術がかなり洗練されてきたことの証でもある。で、GoogleLookup のような、すでに衆智の事実としてコンセンサスがとれている事柄を引用、参照する場合は問題がないが、この機能を拡張していくと、知的所有権の問題がついてまわる。

Ted_nelson 前置きが長くなってしまったが、インターネットが登場するよりも、遥か前、パーソナルコンピュータが登場するよりも前、1964年にテッド・ネルソンという人が、ハイパーテキストで結ばれた世界を実現するシステム「Xanadu(ザナドゥ)」(桃源郷の意)を考案していた。

「Xanadu」は、衛星回線を使い、全世界のコンピュータを結び、地球上のどこからでも自由にハイパーテキスト構造のデータベースにアクセスできることを目標としていた。テッド・ネルソンの夢みた「Xanadu」は、今のインターネットそのものと言える。

同時にテッド・ネルソンは、「Xanadu」のような世界では、著作権や著作権使用料の支払いをどうするべきかが大きな問題になるとも考えていた。誰もが自由に情報を使えなければならない。しかし著作権、知的所有権は保護しなければならない。それを解決する手段のひとつが「transcopyright」という考え方だ。

「transcopyright」とは、どういったものか、ここで詳しく述べることはできないので、興味のある人は「transcopyright Japanese Manual」を参照してほしい。非常に端折って説明すると、ウェブ上などで誰でも自由に、他者の情報を引用し発表することができる(transpublishing)。このとき、引用元:オリジナルの引用に対して課金(micropayment)が発生する。

もちろん、ひとりひとりの利用者に、micropaymentを支払えというのは無理がある。インターネットは互恵の精神で作られている。コンピュータをインタネットに接続するのは自由だが、その設備と環境は自分で整えなければならない。自分の利益が他の多くの者の利益にもつながる。これがインターネットが急速に発展してきた理由だ。

GNUのフリーソフトウェアは、作者が著作権を行使せず、そのソフトウェアを「パブリックドメイン」(公共財)とすることを目的に開発され、著作権法で原則禁止となっている複製や配布を認めるところから「Copyleft」という考え方で流通してきた。

Googleは「智の共有」という理念の元、Google Book Searchや、Google Scholarで過去の書籍などをスキャンして全文検索ができるシステムを作っているが、当然のように著作者や出版社などから反発があり、告訴される場面も多い。YouTubeの買収によって、さらに著作権を含む問題は大きな障壁となっている。

そこで、GoogleAdsence のように「GoogleCopyleft」として、誰でも自由に引用(文の引用はある程度まで許されているけれど、とくに画像や、楽曲など)をできるようにし、そこで得た広告収入などの一部を著作者などに(micropayment)として支払うシステムを構築できないものか。テッド・ネルソンが夢見た、桃源郷(Xanadu)は、いっぽうで実現したのに、もういっぽうの(transcopyright)という考え方は、まだ実現していないのだから。

こういったシステムを一民間企業のGoogleにまかせてもいいものか。また、実際に作り上げてしまったとしたら、それはそれで問題になると思う。だけど、Googleなら、やれるかも、という期待感がある。なにせ、衛星画像の使用料が5億ドル、約580億円だというのに、Google Earthを無料で提供しているGoogleだからだ。インターネットは、これまでも不完全だけど、とりあえず、やってみるという文化があった。こういった問題が解決されるのを、いつまでもじっと待っているわけにはいかないじゃない。まあ、酔っ払い爺の私が薄くなった毛髪と思考力で考えるまでもなく、すでに多くの人がこの問題を考えているのだと思うのだけれど……。

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2006年12月 7日 (木)

■灰谷健次郎「子供たちに教わったこと」

 2006年11月23日に逝去された作家、灰谷健次郎の追悼番組、1997年に制作された、NHK人間大学「子供たちに教わったこと~灰谷健次郎」の第1回から12回までを見た。生前の灰谷健次郎の授業を、二日間に渡って、たっぷり6時間聴くことができた。

 折りしも、交通事故死した児童の写真をウェブに無断掲載し、遺族の心を踏みにじるようなコメントをつけた、小学校教師が「著作権法違反」で書類送検され、遺族らが侮辱罪や、児童ポルノ禁止法違反で告発したというニュースが流れていた。

 私は、教育というものに殊更、関心が高いわけでもなく、もちろん人格者でもないが、灰谷健次郎が師と仰ぐ、林 竹二の「生命に対する畏敬がないところに教育はない」という言葉が印象に残った。

 人間は赤ん坊のときから、外界の情報を取り入れ、学習してして成長する。乳幼児は、あらゆる情報を吸収して育つ。もっとも学習能力が高いのは、乳幼児なのだろう。もしも、そういった成長期に人間として獲得しなければならない必要な学習ができなかった場合、その学習はそこで止まってしまう。ただし、一生獲得できないのか、というとそうではなく、それを学習するためには、再び、スイッチ(情報)を入れればいい。つまり、例えば5歳までに獲得しておかなければ、ならない情報があるとして、それが適切になされないと、成人したあとにも、例えば20歳を過ぎても、もう一度、それを体験して獲得(学習)するしかない。それは成人したあとに「はしか」を体験するようなもので、やっかいなものとなる。

 「いじめ」問題を扱った番組で、小学生がいじめで自殺した人に対して「生まれ変わればいいじゃん」と発言していることに私はショックを覚えた。なにも特殊な例ではなく、かなり一般的な小学生の死生観として、フツーに「生まれ変わり」が可能という死生観があるのだと言う。

 私たちは「死」を忌み嫌う存在として隠しているが、死が身近(リアル)に存在しなくなったことで、貴重な学習の機会を奪っているのかもしれない。養老孟司の愛弟子である、布施英利の「死体を探せ」などは、リアルな死をいかに現代人が感じていないか(隠しているか)を警鐘した書だと思う。

 そういう意味で、人間はひとりでは生きられないし「かけがえのない生命に寄り添って生きる」、「人間にとって優しさとは何なのか?」という灰谷健次郎の言葉は、私の中になぜか妙にすんなりと腑に落ちるのだ。

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2006年11月26日 (日)

■モンティ・ホール問題

FIFTH EDITION: ベイズの定理と3囚人問題、モンティ・ホール問題を言葉だけで納得してもらう方法を募集。

Photo

ゲームのルール(引用:Wikipedia「モンティ・ホール問題)

1:3つのドア (A, B, C) に(景品、ヤギ、ヤギ)がランダムに入っている。
2:プレイヤーはドアをひとつ選ぶ。
3:プレイヤーがどのドアを選んだかにかかわらず、ホストは残りのドアのうちひとつを必ず開ける。
4:ホストは景品のあるドアを知っていて、必ずヤギの入っているドアを開ける。もし、両方ともヤギだった場合はコインを投げて決める。

で、このゲームのポイントは、プレイヤーは最初、3つのドアの中からひとつを選ぶが、ホストは、残りふたつのうち、ハズレのドアを開け、その時点で、プレイヤーは、選んだドアを変更することができること。もちろん、最初に選んだドアがアタリの可能性はある。そこで、最初に選んだドアのままでいくか、もうひとつのドアに変更すべきか、どちらがベストなチョイスなのかというのが、この問題の核心部分だ。

私もこの問題をFlashで作成しようと思ったが(上の画像は作りかけの素材)、すでに、非常にわかりやすく、かつ、丁寧に作られたFlashムービーがあるので、私が作るまでもないと思い、断念した。

ネコでもわかるモンティホール・ジレンマ
http://ishi.blog2.fc2.com/blog-entry-182.html

冒頭、リンクの「FIFTH EDITIION」の「pal」さん曰く、

結論からいうと、これは、選択すべきとなる。論理的には正しいが、納得しにくい。

それは「ネコでもわかる……」についた多くのコメントを見れば、そのジレンマぶり(?)がわかってもらえると思う。

こういった、楽しい問題を理科系の人たちだけの楽しみにしているのは、ズルイよね。とゆーか、この「ベイズの定理」は、経済など、さまざまな分野で応用されているという。ぜひとも、palさんには、文系の人の言葉で、この面白さ、有効性をわかりやすく語ってほしい。

もし私が出場者なら、ホストの人がコインを投げるそぶりをしたら、最初に選んだドアのままにします。(だから、そーゆー問題じゃ、ないって;;)

この問題の面白いところは、最初のプレイヤー(仮にAさんとする)と、仮にもうひとり、ホストがハズレのドアを開けたあとに登場したプレイヤーBさんとでは、確率が違うこと。Bさんから見ると、すでにひとつのドアが開いているので、ふたつにひとつで景品を当てる確率は「1/2」になる。でも、Aさんは、一連の出来事を見ているので、自分が選択したドア(確率1/3)じゃないほうのドアが「2/3」の確率であることがわかる。なんかパチンコの「確率変動モード」に突入したみたいな(^^;

※追記:モンティ・ホール問題のFlash完成版は
Flash:モンティー・ホール問題」を見てね。


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2006年11月25日 (土)

■「誕生日」問題の答え合わせ

弾さんの「誕生日が同じ夫婦問題回答篇」が提示された。

私も「出題の意図」を考えなくもなかったのだが……。そもそも、「直感的な定理の反直感的な帰結」のエントリは、palさんの「事前確率」によって統計の見方が変わってくるという問いかけに書かれたもので、ヒントはたくさん提示されていたにもかかわらず、問題ばかりに気をとられ、考えが及ばなかった。

確かに事前確率がゼロの状態では、いくらカップルを集めても答えは「ゼロ」になる。たとえば弾さんの言う「同じ誕生日の人とは結婚してはならない」という法律がある国の場合だ。

いくらなんでもそれは「無茶苦茶」と感じる人は、現実に目を転じてほしい。ここ数年「いじめ」による児童や生徒の自殺者は「ゼロ」という文部科学省の統計データなどは、事前のルールそのものをよく考えなければならない。

文部科学省は「いじめ」を「強い者が弱い者に継続的に行う暴力」、いわゆる弱い者いじめとしか捉えていない。言葉の裏には、いじめられる側にも何か問題があるのではないかという含みを感じさせる。いじめの構図は、弱い者の集団(多数)が決して弱い者ではない個人(小数)への有形、無形の暴力なのだ。

文部科学省のルールに少しでも当てはまらない事例は、「いじめ」としてカウントされない。また「いじめ」と「自殺」の因果関係を厳密な意味で証明することは困難だ。これに、学校側の「見て見ぬフリ」、「ことなかれ主義」、「保身のための隠蔽体質」などが加わると、いじめによる自殺者ゼロという、反直感的な帰結となる。

まあ、文部科学省のあからさまな統計データは、誰しも「おかしい」と感じるが、統計データを扱う際には、どのようなルールで集められたデータなのかをよく見極める必要があるようだ(;;

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2006年11月24日 (金)

■コマネチ大学数学研究会「誕生日」

今日は「たけしのコマネチ大学数学科」は休講。代わりに弾さんが11月22日の記事「直感的な定理の反直感的な帰結」で問題を出してくれたので、考えてみよう。

最後に問題。妻と私は誕生日が同じなのだが、カップルどおしの集まりにおいて、何組以上のカップルがいれば我々のようなカップルが一組以上含まれるでしょう?

この問題を解く前に、竹内薫センセの「頭がよみがえる算数練習帳」で出されている問題を考えてみてほしい。

30人のクラスの中で、ふたりの誕生日が同じになる確率はどのくらいでしょう?

誕生日が一致する確率は、1(100%)から誕生日が一致しない確率を引いたものと考えることができる。
つまり「=1-(364/365)」、3人なら「=1-(364/365)×(363/365)」。30人の場合は……。

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こんな計算をすることを考えただけで、脳のブレーカーが落ちて、真っ暗闇の脳停止状態に陥ってしまう。そこで、コマ大数学研究会らしく、あれこれ考えず、まず体を動かしてみよう。

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エクセルのA列1行目に「364」と入力し、2行目に「363」と入力。この2行分を選択して、オートフィルで29行目まで連続入力する。

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30行目に1行から29行までの数値を掛け合わせる関数、「=PRODUCT(A1:A29)」と入力する。B列の30行目には「=365^29」(365を29回掛けた数)と入力。どちらも、あまりに大きな数なので、表示できず、指数形式で表示される。ちなみに「5.94803E+73」とは、「5.9…」を約「6」とすると、その後ろに「0」が73個つく数だ。こうなると読み上げることも難しい。

話を戻すと、A列は「分子」、B列は「分母」に分けて積を計算したので「=A30/B30」とすると約「0.3」つまり、誕生日が一致しない確率は、約30%。誕生日が一致する確率は「=1-A30/B30」で約70%ということになる。

1クラス30人の中で、誰かと誰かさんの誕生日が一致する確率は、予想(直感)に反して意外にも大きい……というのが、この問題の趣旨だ。

そこで、冒頭の弾さんの問題に戻る。これを確率の問題としてとらえると、カップルのふたりの誕生日が一致する確率は「1/365」であることは明白(うるう年は考慮外)。同じ結果を導くのに、わざわざ式を「=1-(364/365)」などと複雑にする必要はない。つまり、どのカップルも誕生日が一致する確率は、1/365なので、365組のカップルを集めたら、そのうちの1組くらいは、同じ誕生日のカップルがいると考えてもいいんじゃないの。弾さん夫妻と同じ誕生日のカップルとは、一言も言っていないので、どんな誕生日だろうが、とにかく誕生日が同じカップルがいればいいのだから。

で、もしも、これを確率の問題として捉えないとどうなるか。「サイコロを振って『1』の目が出る確率は?」と聞かれれば「1/6」だが、「サイコロを何回振ったら『1』の目が出るでしょう?」と聞かれたら、予想や直感に反しても「実際、やってみないと、わからない」と答えるしかない。

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2006年11月17日 (金)

■世界の中心で愛を叫ぶ?

「Going My Way」の11月16日の記事で紹介されていた「geoGreeting!」。おもしろいので、さっそく私も試してみた。

20061117_01

メッセージを入力すると、すぐさま、文字を建物の形で表示してくれる。同時にリンクが生成される。
http://www.geogreeting.com/view.html?zehBcMit+tbh
「Preview link」をクリックすると、以下のような画面が表示される。作成されるリンクをメールで送れば、グリーティング・メッセージになるわけだ。

20061117_02

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