[書評] 東芝解体 電機メーカーが消える日(大西康之)
他の人にはどうでもいいことなのだが、私は関東逓信病院で生まれた。父がNTTの前身、電電公社員だったからである。そして、「逓信病院」という名称が残すように、電電公社となる以前、その病院は逓信省に所属していた。つまり、現在の民営化NTTもこの名前の病院と同じ道を辿り、国家機関から公社を経ていた。
父は晩年、年金の関連で、戦後のごちゃごちゃしていた時代について自身の記憶で整理し、当初、逓信省の公務員であったことを証明していた。そこに何か誇りのようなものがあったのか今となってはわからないが、彼はまた、NTTの民営化を嫌ってもいた。その前に辞めた。そうした電電マンの父が私に残してくれた言葉がある。「いいか、電電公社というのはダルマだ。手も足もないんだ。だから手と足を大切にしなければ、前に進めないんだ」と。
一般の読者にとっては、この書籍は表題が示すように、かつては隆盛していた日本の電機メーカーがなぜ今日のように衰退してしまったのかという物語として読めるだろう。東芝は、そうした構図のなかでもっとも最近の目立った例として挙げられている。
全体としては、東芝を第1章として、日本を代表する大手電機メーカー8社、東芝、NEC、シャープ、ソニー、パナソニック(松下)、日立、三菱、富士通がそれぞれの章で扱われている。
1東芝 「電力ファミリーの正妻」は解体へ
2NEC 「電電ファミリーの長兄」も墜落寸前
3シャープ 台湾・ホンハイ傘下で再浮上
4ソニー 平井改革の正念場
5パナソニック 立ちすくむ巨人
6日立製作所 エリート野武士集団の死角
7三菱電機 実は構造改革の優等生?
8富士通 コンピューターの優も今は昔
それぞれの電機会社の衰退の理由がどこにあったかという、個別の物語として読んでも面白いだろう。というか、物語としては面白ろすぎるきらいすらある。特に、東芝の内紛の醜悪さと悲惨さには、経済界やこの業界に関心を持ってきた人には既知のこととも言えるが、感慨深い。このブログの土台となっているココログ運営の富士通についても、率直に言っていいと思うが、本書で明かされる体たらくが面白くもあり、悲しくもある。こうしたディテールのネタ話は、多少の誤認が含まれているとしても、とにかく面白い。
書籍としての本書の価値は、総論とも言える序章「日本の電機が負け続ける『本当の理由』」にあるだろう。ネタバレということにもならないだろうが、著者はその本当の理由を、私たち日本人の多くがこれらの電機会社に見ている業態が「本業」ではないからだとしている。では、「本業」はなにか。事実上の国家の委託部門のようなもので、電力会社と旧電電公社の手足になることだった。つまり、日本国の電力インフラと通信インフラという公的部門を担っていたのである。私の父が言う、ダルマの手足だった。そして、皮肉なことに、このダルマ本体のほうが、日本国家の経営能力の低下で倒れた。手足も腐った。
ただし、ソニー、パナソニック、シャープはその間接的な影響(半導体事業への国家誘導)やグローバル化などの理由もあり、個別の論点が扱われている。あえて総じていえば、日本企業全体の経営の失敗と言ってもよいだろう。
私は本書読後、こうした企業に関わってきた自分の人生を顧みた。現場から見て思うこともいろいろあった。そして、もう一つ、本書で大きく見失われた視点もあるだろうとも思った。単純にいえば、プラザ合意直後のバブル景気という80年代の資産バブルを叩き潰した三重野康日銀総裁以降の金融政策の誤りである。それが電機企業を含めた日本の製造業を弱体化させたのだろうと思う。
本書は、最終部で未来の展望について少し言及している。日本の技術はまだ廃れていないし、現状は通過儀礼でもあるとしている。私はもう少し悲観的に見ている。その理由は、別の書籍の書評で触れてみたい。
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