[書評] そろそろ、人工知能の真実を話そう(ジャン=ガブリエル・ガナシア)
昨日、フランス大使館を筆頭に内閣府や森美術館が主催した日仏フォーラム「人工知能は社会をどのように変えるのか?」に参加した。終日にわたる時間を費やした内容の濃いフォーラムであった。得るものは大きかった。フォーラムの紹介文書はいまだPDF形式でダウンロードできる(参照PDF)。
また、この手のフォーラムにありがちな英語=国際語ということもなく、進行案内はすべてフランス語でなされた(ただしフォーラム司会は日本語)。つまり、日本語とフランス語のみのフォーラムだったのである。その点でも興味深いものだった。熱く語れるフランス語の議論を聞いていると、フランス国内ではこうした熱意で日々弁論が交わされているのだろと確信された。
すでにフォーラムでのガナシア教授の発言を聞き、本書の基調はわかっていたので、その点ではわかりやすい書籍に思えた。むしろ率直のところ、技術的な側面については、さほど得るものはない。おそらく、すでに人工知能関連の技術面の書籍を数冊読んでいる人にとっては、あまり関心のわかない書籍ではないかとすら懸念する。他方、現在騒がれている人工知能問題の見取り図、特に機械学習については妥当な入門書にもなるかもしれない。
簡単に本書の表面的な基調に触れるなら、人工知能と現在言われているのは、一般の人がSF的に想像するような汎用人工知能でもなく、本書にも説明があるが、哲学的な意味で「強い人工知能」でもないということだ。また、コンピューター技術革新はしばしば「ムーアの法則」によって語られるが、この「法則」は哲学的にはさほど意味を持たないといった点も力説される。この点は、おそらく技術関連に知見のある人なら鼻白む思いはあるかもしれない。こんなことを大真面目に哲学的に議論しないといけないのだろうか、と。
おそらくそこは日本人が本書をある意味、誤読しやすいポイントなのではないか。
本書の全体、特に後半は、シンギュラリテという概念の批判に当てられていくがこれが主題である。シンギュラリテとは何か。例えば、現在世界で各種の危機(例えば、核戦争、地球温暖化など)が黙示録的な標識を伴ってしばしば語られているが、人工知能がもたらす危機は日々進展して、ある時点でもはや引き返せなくなり、そこからは人間の知性が人工知能に従属したり、職業を奪われたりするようになるものだ、と見なされている。そうした時点=特異点=シンギュラリテ、ということである。そして、そういうシンギュラリテは本当に到来するのか。
ガナシア教授がこの論考で主題としているのは、こうした意味でのシンギュラリテというのは、人類が抱いてきた普遍的な歴史時間概念の現代的な変奏であり、西洋文明においてはかつてグノーシス思想として席巻したものだという点である。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、人工知能と呼ばれる技術の発達によって、人はかつてグノーシス主義を希求したような歴史時間概念に捕らわれるだろうということへの、哲学的な批判なのである。
この問題意識は残念ながらおそらく多くの日本人には通じないだろう。通常理系とされる日本人にはナンセンスな議論にすら見えるだろう。というのもガナシア教授がここで、グノーシス歴史時間に比較して挙げている、ニーチェ的循環歴史時間や終末思想的キリスト教的歴史時間論といったものにも、そもそも日本人はあまり関心がない。
そして、なぜこうした歴史時間論に日本人が関心を持たないかというと、日本教とも言うべき日本人の歴史時間が実は特異だからである。そこでは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というように、各生命存在や人間意思は、目前では移りかわる仮象だが、本質では平滑化され、そのままその生死は自然に結合する。これを、現代でなんと言ったいいのだろうか。「この世に生きとし生けるもののすべての生命に限りがあるのなら、海は死にますか?死にません。生きとし生けるものはそこに回帰していきます」といった情感だろうか。日本人が自明とするのは、こうした情感を伴う歴史時間である。
日本人の多くは、こうした歴史時間意識自体が思想なのだとは理解してすらいないのである。それが日本人にとって自明な歴史時間感覚であれば、そもそもグノーシスやシンギュラリテは日本人には意味をなさない。逆に言えば、そのことが日本特有の危機の可能性であり、本書の危機意識と向き合うものである。
つまるところ、ガナシア教授がシンギュラリテに見る危機というのは、人工知能が人間知性に取って代わるか、人間知性が人工知能に移行するかということではなく、シンギュラリテという歴史時間に拘束されることで、人間の近代性が失われる点にある。
シンギュラリティに賛同する人々は、人間が死や苦痛を逃れ、永遠に生きていくためには、世界と完全に調和し、外の世界の現実に人間を適応させるべきだと主張する。しかし、言葉を変えるならばそれは出口のない要塞のなかに監禁されることを意味する。そして、完全に閉じ込められたと悟った時には、完璧な世界が完成していて、自由なふるまいはすべて違反行為とみなされてしまうのだ。
この指摘は、ゆえに、日本的グノーシスではこう置き換えることができる。
日本文化や日本の伝統に賛同する人々は、人間が死や苦痛を逃れ、永遠に生きていくためには、内面の本心と完全に調和し、自然に人間を適応させるべきだと主張する。しかし、言葉を変えるならばそれは出口のない要塞のなかに監禁されることを意味する。そして、完全に閉じ込められたと悟った時には、完璧な世界が完成していて、内面の違和感や不自然とされるふるまいはすべて違反行為とみなされてしまうのだ。
このアイロニーこそが、日本が人工知能に親和的であることの謎を解くだろう。本書の日本人読者としての価値はそこにある。
繰り返すが、日本社会に侵入してくる人工知能技術は、シンギュラリテなく、「私心のない」「無私」の判定者でとして価値や法や生命(医療・介護)に自然に組み込まれるだろう。そしてそのことを、あたかも自然の仮象として受け入れてしまうだろう。
それがもし問題なら解決はあるのだろうか?
ガナシア教授は明瞭には述べていない。主旨としては、近代人の復権を述べているように思われる。
ここに関連してフォーラムでの話題に戻ると、フランス側の識者は、哲学・倫理・法学・労働政策といった分野であったせいもあるが、人工知能をバラ色に見せる国際企業(特に米国企業)が、フランスやヨーロッパという地域コミュニティや人間存在に介入してくることに、哲学と法で戦うという姿勢を感じさせた。法と人間の根源的な関係を軸に、人工知能の未来を考えるという基点が強く感じられた。
皮肉なことを言えば、おそらく国民国家(フランスや日本など)という主体は、人工知能を推進してくる国際企業(米国がベースであることが多い)に抗することは難しい。だからこそ、抗する主体が回復されなければならないという意識がフランス人にはあるのだと、強く感じさせるものであり、本書もそうした流れのなかにあるように思えた。
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