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2013.09.22

[書評]明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち(山田詠美)

 死という不在を軸に紡ぐ物語は存外にたやすいものだし、「明日死ぬかもしれない自分」という自意識は、ぐっと死に迫るときの本人にはリアルなものであっても、他者にとってそれほど意味のあるものでもない。とすればそのモチーフ自体は陳腐な大衆作品にしか導かないのだろうとも思いつつ、通販カタログでも連想させるような「美しい」装幀に潜む、なにか歪んだ不在に心惹かれて読んでみた。山田詠美らしく繊細で美しく、いつもながらの他者の肌触りを感じさせる物語だった。詠美さんもきちんと歳を取ったなとも思った。

cover
明日死ぬかもしれない自分、
そしてあなたたち
 短編連作として全四章をそれぞれ分けて読むことも不可能ではない。第一章は姉、第二章は次兄、第三章は妹、第四章は家族。家族の物語ではあるが、長兄である澄生は17歳のときに不慮の死を遂げて不在。その不在の感触が、母の心の病を通して語られる。アルコール依存症を心の病というのは正確ではないかもしれないが、多少なりとも身近に患者を見てきた人にとっては、本書の描写はずいぶんと正確なものだなと感じられる。
 物語は、優雅でもあった母親が最愛の長兄を17歳で失ってアルコール依存症となり、残された三人の弟妹と再婚の父親による家族が次第に崩壊し、また再構成していく過程を描いているとも言えるが、著者の冷ややかな視線に逆説的に救われているように、それは同時に、ありがちな不幸によってひとりひとりの人間が、普通に傷つき、成長していく過程としても読める。家族と親、あるいは家族と子という関係が、家族の親密性を保ちながらも個人になっていく内面の動きが、きわめて上質に描かれているのは、他者という存在そのものが、愛おしくもあり憎悪の対象でもありうる透明な知覚を、この不幸な家族というあいまいな境界のなかで、あたかも小説実験のように純化したからだろう。
 割り当てられた章ごとの弟妹によるそれぞれの「私」の支点は、山田詠美の才能のすべてを活かして描き分けられていると思えるほどの成熟さを感じさせる。基本的に傷つきやすい繊細な人の内面しか描けない彼女だが、そのはかなさのなかで可能なかぎりの他者の視点を、巧緻な数式のように三つに分解しているのも興味深い。しかも、結局のところのその弟妹でもあり他者たちでもある視点は、弟妹それぞれが大人になっていく副産物のようなそれぞれの恋愛の内面性を迂回して、病む母に集約して注がれる。母は、54歳。作品のオリジナル連載時に換算すれば、作者・山田詠美自身を模している趣向だとわかるが、そうした文学的な洒落よりも、母に向けさせるその弟妹の視線によって、彼女自身の内面を巧妙に表現している技法が面白い。病む美しい母の内面は、子どもたちの対話のなかで断片的に吐露されるが、その間接性によって母という他者の感触を維持している。あるいは読者は気がつくはずだ、母の内面の独白が禁じられていることを。この小説に描かれる「死」は、人の死というものの本質に根ざすものというより、この母の独白の禁制に対する装置として機能している。
 章ごとの短編は、円熟した筆致で静謐な哀しみを響かせつつ、読者によっては緩急ある涙を誘うかもしれないが、そうした感情的なカタルシスは、まるで老練シスターのようにいつも希望を語らずにはいられない作者の倫理のなかで可能なかぎり抑制されている。と同時に、倫理は静かにではあるが、これも山田詠美らしく、想定される終局に向けて加速される。その速度は大衆小説的にも感じられる。しかし、この倫理性もまた文学というものの本質の一つだろうし、そこには忠実に人生を過ごして54歳になった一人の表現者としての女の生き方が刻まれている。
 ただ、できれば愛よりももっとエロスを描いてほしかった。死に酔わせるエロスではなく、他者の質感のなかで孤独に狂おしいような、エロスを。その糊代は十分にあった小説だからである。
 
 

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