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2013.09.16

[書評]病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘(シッダールタ・ムカジー )

 1981年まで日本人の死因の一位だった脳卒中は癌にその座を譲った。現在日本人の三人に一人は、癌で死ぬ。脳卒中が比較的減ったのは、それを予防する医療体制や、たんぱく質摂取を容易にする栄養状況の改善などが理由だろうが、むしろ癌が増えた理由のほうが大きい。高齢化である。癌は高齢者の病気だとは言えないし、種という視点から見れば老化の一種だとも言えないが、高齢者が増えれば、癌に罹患する人は統計的には増える。私たちが長生きをするにつれ、癌で命を閉じる人は多くなる。人々の人生の最後の主要な関心のひとつは癌となる。

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病の皇帝「がん」に挑む
上巻
 ならば私たちは自分の人生と死を知るためにも、より癌について知っておくべきだろうとも言える。だが、その最適な書籍は何か、と問われると困惑したものだった。もちろん、癌についてはいろいろな書籍に書かれてきた。ネットにも情報はあふれている。なのに、患者の視点を配慮し、今後社会がどう癌と取り組むかという点で、癌を俯瞰できる書籍というのはこれまでなかったようにも思われた。今なら、ここにある。『病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘』(参照・上巻参照・下巻)である。
 「人類4000年の苦闘」という翻訳の副題からも連想されるように、本書は、癌について人類が取り組んだ歴史を医学史の全体のなかでわかりやすく簡素にまとめている。なおこの点、本書を元に現在、2015年公開に向けてドキュメンタリー映画も制作されている(参照)ので、将来、NHKなどで放映されるかもしれない。
 原書は米国では2010年に出版され、2011年に「ピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門」に輝いた。原書表題は『全ての病気の皇帝 癌の自伝(The Emperor of All Maladies: A Biography of Cancer)』(参照・Kindle)である。余談めくが、まだここでは書評を書いてはいないが翌年の同賞同部門受賞の『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(参照)よりも、個人的には面白かった。今年を振り返って、あの本を読んだなと思い出す本は本書かもしれない。
 邦訳書にして上下巻400ページを越える大著である。内容も医学的な記述が多いせいか、そう容易な読書とは言えないかもしれないと思わせるのは、ネットを見回してみたが、出版されて3週間ほどたつが、本書の話題は本書の解説の転載くらいしか見当たらず、アマゾンの評も見当たらなかったことだった。しかし本書は、今後も確実に読まれているだろうし、あまり強く言うのも好ましくはないかもしれないが、今後も多くの人に読まれなければならない書籍となるだろう。私たちひとりひとりの身近な命のあり方にかかわる癌という問題に真摯に触れているし、それは今後も抱えていく人類の課題でもあるからだ。
cover
病の皇帝「がん」に挑む
下巻
 本書は、一種の教養主義的な叙述を突き抜けた独自の人間ドラマでも、ぐっと読者を引きつける。その一面は、主に前半で展開されるが、1971年に当時のニクソン大統領が「がん対策法」に署名(参照)するまでの背景である。同法は日本を含めて先進国のその後の癌政策に大きく影響を与えることになった。ここでいわば物語の主人公となるのが、癌の近代化学医療法の父シドニー・ファーバーと、彼を支える、ロビーイストと言ってよいだろう、メアリ・ラスカーである。彼らを巡って、第二次世界大戦前からこの「がん対策法」に至るまでの経緯と政治的な動きは、累々と折り重なる患者の悲劇を相まって、上質な戦記を読むように息が詰まる展開である。戦記という比喩の連想から言えば、敵と呼ぶのも適切ではないが、化学医療医が癌に立ち向かいつつ、他面で外科医と向き合う姿も悲壮なものがあり、さらに放射線治療との微妙な関連も歴史というものの壮大なアイロニーも感じさせる。
 また仮に戦記のように読むなら、1971年以降の展開は、壮絶な敗戦だとも言える現実も痛ましい。人類は癌に勝てないのだろうか。癌とはなんなのか。そうした思いは表題の「全ての病気の皇帝」という言葉に集約されてくる。
 並行して、本書の人間ドラマにはもう一つの側面が加わる。著者ムカジーが接する癌患者の物語である。彼は2003年にレジデントプログラム(臨床研修訓練)を終え、腫瘍免疫学をテーマに大学院で研修を終えたのち、ボストンにあるファーバー癌研究所とマサチューセッツ総合病院で腫瘍内科医として専門研修を開始した。本書の原点がファーバー癌研究所にまつわるファーバーであったことも頷ける経緯だが、それより一人の臨床医として、癌患者に接する経験が彼の人生を変えていく。
 本書では、数名の癌患者と彼との交流の物語が描かれ、その進捗が小説のような感興を与えるが、下巻に読み進むにつれ、それぞれの物語が、一般的な癌患者の治療への指針になっていくことに気がつく。日本でもそうだが、米国でも癌治療、特に化学治療への批判や疑念は多い。まるで効果などないという極論もある。だが、著者ムルジーはここで一人の臨床医として公正に現在の癌治療の地平を明かしてくれる。本書の価値のすべてがここにあると言ってもよいくらいである。
 下巻からは、戦記的な枠組みとしての治療の物語から、公衆医療としての予防の歴史、特に1980年代後半から癌研究の苦闘のなから浮かび上がってきた癌という病の特質、さらに分子標的薬や、癌発生の条件を経つという戦略を採る新薬の背景などが語られる。よく知られた話題ではあるが、なかでも分子標的薬グリベックによって癌の一部を人類が克服するかに見える物語なども興味深い。
 本書は、最近女優アンジェリーナ・ジョリーで話題となったが、BRCA1/BRCA2遺伝子についても2010年出版時点で公平な見解と背景の説明を加えているなど、現在の癌医学の最前線に近い部分までカバーしている。「癌幹細胞説」についての言及もある。だが、邦訳書の上巻巻末の著者インタビューにあるように、「免疫システムの再活性化」などの話題には触れていない。英国では、癌細胞がオフにする免疫を再度オンにする機序による新薬の開発なども進められており、欧州連合もこれを支援している。巨大医薬品会社だけが新薬に取り組んでいるのではないというオープンイノベーションも今後の話題だろう。
 本書の完読に困難を覚えるなら、本書の上巻巻末の著者インタビューだけでも読まれるとよいだろう。この部分だけを切り出し、患者の視点からその後の癌医療の最前線を加えた新書サイズの一冊があっても、有益だろう。
 

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コメント

ガンを大きくするのは、酒なんじゃないかな。イスラム教徒のガンがどうなっているのか関心があるけど、どうなってんだろう? 飲酒が多いと、確実に基礎運動量が減ると思うし。

酒の販売が自由化されて、気持ち悪いほどどこでも売ってるし。そうなったせいで、年齢確認もしっかりしだしたけど。

飲酒してなくても、ガンになるみたいだけど、こちらは、血糖値が高くて、やっぱり基礎運動量の低下だと思う。

ガンは苦痛が長いから、想像するだけで嫌だな。

投稿: | 2013.09.16 16:19

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