[書評]重金属のはなし - 鉄、水銀、レアメタル(渡邉泉)
科学は日進月歩するものなので、生活に接する一般向けな科学を扱った、主要な新書を見かけたときは、できるだけ読むようにしている。本書「重金属のはなし - 鉄、水銀、レアメタル(渡邉泉)」(参照)もそうした意識からと、加えて言うなら、新技術や国際政治などいろいろな局面で重金属の重要性を痛感することが多いことから、とりあえず読んでみた。こう言うと逆に著者に失礼かもしれないが、思いがけぬ良書であった。
重金属のはなし 鉄、水銀、レアメタル |
昨年以降、問題となっている放射性物質の汚染については、本書ではほとんど言ってよいほど扱っていないが、本書を読めば、従来からある、重金属による環境汚染の問題と類似の行政上の問題も明らかになる。こうしたことを知ることは、まさに蒙が啓かれるという印象を持った。
全体は8章に分かれ、3章から6章は、本書副題にもあるように、それぞれ水銀、カドミウム、鉛、ヒ素が当てられている。この4章分については概ね独立しているので、それぞれ別に読んでもよい。
「第1章 産業の最重要素材―人類の歴史を牽引した重金属」については、重金属の定義的な話や章のサブタイトルにあるように人類史との関連の概要が粗描されている。この分野の常識的な知識をまとめるという点では簡便だが、常識的な範囲でもあり、それほど興味深いというものでもない。さっと読み飛ばせる。
「第2章 からだと重金属―必須性と毒性」から、一般向けの科学書としては面白くなってくる。よく栄養を補給するためにビタミン・ミネラルということが言われるが、具体的な知識のない人は多い。その点本章では、ミネラル、つまり微量金属が生体でどのように働くのか、またビタミンのいくつがそれにどのように関わるかということを基礎から簡素にまとめている。「酵素」についてもしっかりと記述されていて、そこに含まれる重金属との関連が整理されている。ネットなどでは「酵素」についてめちゃくちゃな意見を散見するので、こうした基礎知識をしっかり持つとよいだろう。
同章を読み進めながら、わくわくとしてくるのは生命の発生や初期の地球環境についての、ある意味で大胆な素描である。知っている人にとってはさしてどうという話でもないが、地球誕生から27億年前まで、地球は酸素のない状態にあった。ではなぜそこから現在の酸素を含んだ大気が形成されたのか?
もちろん光合成によって形成されたのだが、そのプロセスで鉄を含んだ太古の海の重要性が明示される。酸素は反応性が高く、反応した酸素は大気中には存在できない。しかし、光合成によって酸素が排出されるようになると、これが海中の鉄と結合する。
光合成の獲得は、海を酸素という猛毒で満たし、さらに海に溶けきれなくなった酸素は大気まで汚染した。その結果、海では大量に溶けていた鉄が酸化し、不溶性の酸化物、つまり錆となって沈み、取り除かれた。この酸化に伴い、その当時生息していたほとんどの嫌気性生物は、体を酸化され死に絶えたと考えらている。
生体内でのカルシウムのイオンバランスについても太古の海との関連で説明される。その前提として、カルシウムの、細胞にとっての毒性が語られる。カルシウムは骨の形成などに重要だとしながら。
このようにカルシウムは、生体のなかで重要な役割を担っているが、じつは細胞にとっては猛毒である。細胞内にカルシウムが侵入すると脱水素酵素が活性化し、酸素呼吸の工場であるミトコンドリアの電子伝達系で活性酸素種が増加してしまう。
これが細胞のアポトーシス(自死)にも関連する。
カルシウムを扱う細胞は、現在の海ではなく古代の海から生まれているとするのは、なぜか。
マントル変動で陸と地殻のなかから海中に流れ込んで現在の海が形成されたからである。古代の海は、生物の内部に残存したともいえる。他にも進化論的に興味深い指摘や、毒性となる活性酸素の発生と微量重金属の関係の説明など、読んでいて楽しい章である。
「第7章 必須元素とレアメタルによる環境汚染」は、章題どおりの話題で、3章から6章までの水銀、カドミウム、鉛、ヒ素以外を手際よくまとめ、これにレアメタルと呼ばれる金属の概要を加え、「環境汚染」に焦点を当てていく。
読んでいて意外だったのは、学校教育などでよく強調される足尾鉱毒事件だが実際には、銅の中毒が原因ではなかったことだ。最近ではどのように教えているのかわからないが、参考までにウィキペディアを見ると「銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし」と銅の中毒が主眼でもない。また括弧書きで「(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)」など明瞭ではない。
本書では複合汚染だとしている。
筆者の分析からも、渡良瀬川流域の足尾銅山直下からは高濃度の鉛やヒ素が検出されている。つまり、足尾銅山の鉱毒は単純な銅汚染ではなく、鉛やヒ素なども含む複合汚染であった可能性が否定できない。
この鉱毒という問題は、現在のレアアースの採掘・精錬にも関連しているが、これには世界の産業構造も関連している。というと、大企業が利益中心に鉱毒をまき散らすかのようだが、逆で、現在世界では資源メジャーが寡占化しているため、そうではないマイナーが利益を争うことになり、特に中国がそこで利益を上げようとして欧米的な環境基準を満たしていないことのほうが環境問題を引き起こす。
「第8章 悩ましい存在と生きる―重金属対策の今後」については、私は別途この分野の知識があるので新知見は少なかったが、日本の行政の産業保護から重金属毒性の規制が矛盾に満ちたものになっていることを指摘している。この構造は、読みながら放射性物質の汚染についても同様に思えてくるあたり、日本の政治の大きな病理の指摘にもなっている。
結語的に言及されている化学物質対策の指摘も重要である。
今後包括的な化学物質対策がとられるようになれば、将来的に世界を遅う化学物質の影響は、極端な量の化学物質による影響ではなく、微量な暴露が長期に及ぶ慢性中毒となって発生する可能性が高い。
また、第2章に戻るが次の指摘もある。
(前略)重金属の毒性は、高濃度で暴露される産業の現場や誤飲などの問題が主流となっていた。このような背景から、重金属の毒性発現メカニズムは、無機態のほうが知見が多く、対照的に有機態のものに関しては、未知な部分が多いのが現状である。
こうした指摘は本書では直接的に指摘されていないが、従来の科学的な視点による食の安全基準から漏れる部分があることを示唆しており、逆の言い方をすれば、従来の科学視点をもった食の安全知見で十分とし、それ以外を非科学と断ずる危険性も暗示している。
とはいえ、どこかで社会の安全基準の線引きをしなければならないとすれば、本書が指摘するように、この分野に先行的な欧州の動向を参考にするしかない。
非常に「お得な」とも言えるような本書ではあったが、行間から「そこまで言うと誤解されるだろうか」というためらいも感じられる部分も少なくなかった。不用意に社会に衝撃を与えても解決には結びつきそうにない知見があるなら、それを市民社会に組み込むためには、その前提として、市民による、本書のような基礎知識共有が前提となるだろう。
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コメント
生物体内で用いられている生化学反応には多くの関心が集まるのに、生物が用いることのできない反応については、なぜそういう化学反応を生物が利用を回避したのかについて、あまり関心をもたれることはありません。
スルホン酸、硝酸、アルミニウムイオンなど、生物が生命維持のためには細胞内で用いない化学物質はたくさんあります。
このあたりの理由の解明が、本当は、生命発生の化学進化を考える上で重要なのではないでしょうか。
投稿: enneagram | 2012.11.15 08:15